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Jim Knopf ジム・ボタンの物語










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1963年にイギリスで登場した童話『ジム・ボタンの機関車大旅行』を読んだ子供たちは、それがドイツ語から翻訳されたものだと思わなかった。「君の家の居間ぐらいの大きさの島に・・」という出だしの例えからしてイギリス的だったし、登場人物はまるでイギリスの歴史そのものだった。たった一両の機関車が走る島の線路のことはジョージ・スティーブンソンのパイオニア的なダーリントン、ストックトン間の鉄道区間を思い出させ、たった一軒の商店には植民地時代のロイヤルカンパニーのような経路を辿って、貨物船で運ばれてきた世界中の商品が毎週補充された。島を統治する王様はタータンチェックの室内履きを身につけた産業革命時代のウィリアム4世のようだった。王様の家臣として住んでいたのはたった三人で機関士と商店の女主人それにドーバー海峡と同じ名とこうもり傘を持つ紳士だった。それは19世紀イギリスの労働者、商人それに市民の雛型のようだった。ジム・ボタンという男の子はその島に郵便で届き、後に機関車で旅をする。

もう一つの話がある。本当のウィリアム4世統治下のイギリス19世紀産業革命時代のある日、港から2回目の航海に出ようとしている船があった。甲板に黒人の男の子が一人、。2年間新しい世界をしっかり見てしまったその子は一体何処で生まれたのかわからない、根無し草のようではあるが、故郷に送り返されようとしていた。その子の名前はジェミー・バトン。「ジェミーはいつも楽しそうに笑っているので皆に好かれる一方、情熱的なところや他の誰かの痛みを一緒に感じることが出来た・・」とその船に同乗していた若者が書き残していなかったら、今その男の子について誰一人知ることはなかったし、ましてやミヒャエル・エンデがジム・ボタンを創造することも無かっただろう。その船はビーグル号、ジェミーに関してもその比類なき観察力と興味をもって記録していたのはチャールズ・ダーウィンだった。

もう気が付いたことと思いますが、ダーウィン年に関連した新聞記事を要約したものです。
この二つの物語の関連性をドイツでは避けて通れないかもしれません。

1929年に生まれたミヒャエル・エンデはまさにナチス政権の台頭とともに成長したといえます。入学した小学校で教師が特別熱心に教えていたのが生物の学科でした。キーワードは生き延びるための戦い、強いものが生き延びる、そして種の純潔ということでした。この思想は他の学科、ドイツ語(国語)、歴史、地理の時間にも及び「当時最終的に純潔という思想に染まらずに卒業する男の子も女の子もいなかっただろう」とエンデは回想します。「それが20世紀のドイツがダーウィンの進化論から都合よく生み出したことだった。」と、これは記事の表現です。そしてミヒャエル・エンデが1956年に執筆を初め、処女作となった「ジム・ボタンの機関車大旅行」の中で扱っているのは、イギリスではなく実はドイツのことだったという分析が執拗に示されているのですがここでそれは省略し、エンデがこの童話によって子ども部屋に忍び込んでいた優生学をジム・ボタンの冒険によって海洋の中、幻のアトランティスに沈めてしまいたかったらしいことだけを伝えておきます。エンデは自ら平和活動家を名乗ることを避けていましたが、彼の平和に関する発言は日本でも注目され感心を集めています。もしエンデの発言を目にする機会があったとき、この背景は役に立つかもしれません。

ジム・ボタンあるいはジェミー・バトンの物語は先の二つだけではありませんでした。私は『パタゴニア』という小説の中でこの男の子に出会っています。

パタゴニアのフエゴ島で生まれた少年はピカピカ光るボタンと引き換えにビーグル号に乗せられ、船長からバトン(ボタン)の名前で呼ばれるようになりました。

2年間イギリスで教育を受け、再び故郷に帰った彼のその後の経歴をダーウィンは言及していないし、エンデがあの童話を書き上げたときにも知らなかったようです。ダーウィンが航海記を執筆しているころ、ビーグル号より前にフエゴ人と遭遇したジェーン号とビューフォイ号船長の記録がエドガー・アラン・ポーの机に載っていました。そこからポーの創作も生まれています。後にポーが創作したような虐殺をジェミーが本当におこなった・・・。しかしそれはフエゴ人の暴徒に襲われ一人生き残ったイギリス人コックが「ジェミーがこの虐殺を計画した」と証言したからです。その事件を伝えるジェミーの生涯についてイギリスで発表されたのは1954年。ドイツ語に訳されたのは1957年でした。当時既にその事件から100年を経て、誰がジェミーの立場をはっきりさせることが出来たでしょう。

『パタゴニア』には「20世紀の行方にささやかな貢献をすることになったジェミーは1870年代まで生きた」と記されています。





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切手になったジム・ボタン
Commented by tomato at 2009-02-16 20:57 x
「ジムボタンの機関車大旅行(冒険)」はアニメでやってましたね。
あまりちゃんと見ていなかったですが、
原作には、そんな背景があったんですか。
確かに、ドイツ的というよりはイギリス的と言えるかもしれません。

アニメのなかでジムボタンはボタンを握ってパワーを放っていました。
ボタンに込められた意味は何かあるのでしょうかねえ・・・・
Commented by tarutaru at 2009-02-16 22:03 x
ミヒャエル・エンデといえばシュタイナーが頭に浮かんできます。
エンデも小学校は確かシュタイナー学校に通っていましたよね
その時のことなんでしょうか。優生学に染まるって。
国家という名前で時どき間違いを犯すこともありますね
ダーウィンがここでも登場してくるんですね。

写真、差し替えましたね。
Commented by うお at 2009-02-17 08:16 x
Tomatoさん、
日本でアニメになってたこと、私は今回初めて知りました。その頃私はテレビのない生活をしていて・・・(笑)ボタンを握ってパワーを放つという技がどのような解釈で取り入れられたのか・・・原作のあらすじでは外国商品を売っている女主人の元に、釉便船で届いたジムのポケットには『絶望的』な穴が開いていたので、女主人がボタンを縫いつけ、その穴をジムがいつでも閉じたり開けたり出来るようになった・・・とあります。ボタンという名前をつけたのはその女主人ということになっています。

他にも、ジムが機関士と機関車のエマに乗って出発したのは『夜と霧』の中とあり、夜の霧の中という表現ではないところに暗示的な意味が含まれているようですが、日本の子ども達にとっては多分意味不明の表現が多いのです。

『モモ』が日本でよく読まれたエンデの本ですが、「ジムボタンの機関車大旅行(冒険)」は背景の解説付きなら大人が興味を持つ本かもしれませんね。



Commented by うお at 2009-02-17 08:43 x
Taruさん、
エンデがシュタイナー学校にはいったのは戦後になってからのようです。戦前には一般の小学校に入学したのだと思いますが、「そこで教え込まれることを絶対覚えたくはなかった」とエンデの回想は続いています。
エンデが生涯取り扱っていたのは、アインシュタイン、マルクス、フロイトそれにチャールズ・ダーウィンだったそうですが、それらの影響を受けた人に関する朗読を出版した際にはシュタイナーのエッセイ『ダーウィニズムと道義』だったそうです。(ちんぷんかんぷん?)

日本のサイト、ミヒャエル・エンデ館というところにエンデのシュタイナーに関する発言など詳しくでています。シュタイナーに関してはTaruさんにお聞きすることがあるかもしれませんね。宜しく。

私はジェミー・バトンの話を知っていたので、その故郷牡蠣の化石が層になっている風景・・・を思い、ちょうど貝殻のようなのやイカ皿のようなのを作っていたのでどれが合うか試しながらいろいろ変えてみました。今日はジム・ボタンの切手も見つけたのでそれもくっ付けました。

Taruさんは個展前ですか。春めいてきたこのごろ仕事にもうきうき出来ますように。
by kokouozumi | 2009-02-15 11:07 | Comments(4)

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by kokouozumi