カメラと小麦粉で第2アドベントを迎える!
2007年 12月 07日
カフカの「アメリカ」(池内紀訳では失踪者)は―
・・・故郷のドイツで年上の女中に誘惑され、子供まで宿してしまった16歳のカール・ロスマンは両親の手でアメリカへ追い払われた・・という唐突な書き出しで始まる物語です。カフカ研究はその親戚にも及び、つまり父方の従兄ローベルト・カフカは1896年、女中に誘惑され子供が出来た。ローベルトの兄オットーは1904年にアメリカに渡り首尾よく成功者になった。ローベルトの弟フランクは16歳の時、やはりアメリカに渡った・・・カフカはこの親戚3人を総合して、カール・ロスマンを作り出したのだろうか??
私がこの物語を思い出したのは、時代の為です。もともと1800年後半の30年にドイツからアメリカに移住した人達が多かったという話から、今回のテーマは発生しました。それで確か、カフカのこの小説がその時代の背景を捉えていたはず・・と。
カフカはアメリカはもとよりニューヨークにも行ったことは無かったのですが、多分従兄弟が送信しただろう、マンハッタンの絵葉書や読んでいた雑誌などが、後から執筆当時の資料として発見されています。雑誌にはその頃の著名なジャーナリストによるアメリカ記事が連載されていました。アメリカが、パリよりもロンドンよりもイメージの中心だったという印象をカフカも持っていたのでしょうか。カフカとカフカの親戚だけで、当時を語るなと言われそうですが、全くそうなのですが。
ヨーロッパからアメリカへの移民は、1841年から60年まで約450万人、そのうちアイルランドから35%ドイツから30%。61年から80年まで、アイルランドからがぐ~んと減って、ドイツは同数。1881年から1900年までは総計900万人の移住者でドイツからの約200万人がトップ。その後ドイツからは急激に減ってしまいます。
時代のことは、特にヨーロッパにおいては国ごとに考えるより、各国の歴史や経済の事情が重なり合っていると思いますが。
1849年、19歳のドイツ青年ボシュ、21歳のロムは偶然同じ年にアメリカにわたります。それからまたまた偶然にニューヨーク州オンタリオ湖岸のロチェスターで出会い、やがてボシュロム社が生まれます。コダック、ボシュロム、ゼロックスなどの光学企業で知られるようになる前のロチェスターはなんと小麦粉の町といわれたそうです。
ここからはM野さんにバトンタッチです。
アメリカの写真工業(カメラのことだけで無く、印画紙やフィルムまで含めたこと)に、有名な企業ではボシュロムがあります。レンズメーカーでもあったし、シャッターメーカーでもありました。
なぜかよくわからないけど、ロチェスターにレンズ職人とか家具職人とか集まってきていたらしいです。コダックはアメリカ人が創業者ですが、その拡大にはロチェスターに集まっていたドイツ系移民に負う所がある様です。ドイツ語ができる事でドイツの光学技術を導入しやすかった事もある様です。
なお1910年に完全機械式シャッターを作ったのは、ルドルフ・クラインとテオドール・ブルックのドイツ系移民です。大発明なのですが、あまり知られていません。
お気付きのことだと思いますが、第一次世界大戦以前の古い話しです。
それにしてもカメラの輸入大国であり続け、フィルムの消費も世界一を続けていた国、アメリカでは、世界的に有名な機構を持ったカメラが生まれなかったのは、かなり謎なことです。
実は簡単で、家庭での記念写真ばかり撮っていてそんな複雑なカメラはいらなかったから、が答えです。このため木製大形カメラが家庭用であった(5×7インチのフィルムとか)し、特にこだわらない人は本当にやすいカメラ(それでもフィルムは六センチ幅)だったりしたのです。それじゃプロはどうなるか。報道写真でも4×5インチのフィルムを使っていたのですよ。古いアメリカ映画で報道陣のバカでかいカメラあれです。スポ-ツ用のカメラにいたってはみ みかん箱くらいの巨大な箱だったりしました。これって1920以前の話でしょう、と思うでしょう。なんと1950まで続きます。でかくても重くても体力で勝負!そんなカメラの使い方です。
ドイツ製やヨーロッパのカメラは高級品で、主に金持ちか軍用、一部プロのものでした。それでも売れました。アメリカではやすい商品を中心に大量生産を目指します。それが崩れるのが大戦後、カラーフィルムに切り替わったからでしょう。一時高級品も出ますが、アメリカからカメラの生産は無くなります。これはアメリカのほとんどのカメラメ-カーをコダックがもっていたため、不採算部門を切り捨てたためです。
それではアメリカの写真工業は、なにかオリジナルな物をつくり出していたのでしょうか。第一次世界大戦前には、木製のアンソニー社のスタジオカメラ(写真館の木のカメラといえば分かりますかね。折り畳みできない、カメラと脚が一体のものなのですが、基本的な操作は現在の大形ビューカメラと同じ事ができるものです。後にスコビル社と合併、アンスコになりアグファと提携する)がありますが、それ以外では、実は軍用品です。特に偵察カメラなんか一流です。
一般にはドイツカメラのオリジナリティが言われますが、アメリカはそのジャンルに見向きもせずに、オリジナルな軍用品ばかり作っていたので一般に知られる事が無いのです。
戦後のアメリカのカメラでオリジナルな物があると、大抵どう考えてもアマチュアの航空写真用だったり、報道用だったり、徹底的に記念写真用だったりします。
こんな事が起きるのは、アメリカが初めからカメラ輸入大国だったせいでしょう。逆にヨーロッパはイギリスを除いて(実はイギリスも途中からカメラ輸入国に変わる)輸出する側なので、オリジナルと高機能を目指して開発せざるを得なかった結果でしょう。特にドイツで進んだのは、まったくこのためだと思われます。実はイタリアやスイスでも高級品カメラが作られたのですが工芸品に近く、量産でドイツに負けたとおもわれます。
ちなみに、カメラは第一次世界大戦までほとんど木で作られていました。カメラは以外とお国柄を表しています。特に第一次世界大戦前のものは木製がほとんどなので、面白い物があります。工芸品のイギリスとか、どこかいいかげんなフランスとか、徹底して合理主義(作る側にとって!)のアメリカとか。初めにオール金属で作ったドイツとか。
・・・故郷のドイツで年上の女中に誘惑され、子供まで宿してしまった16歳のカール・ロスマンは両親の手でアメリカへ追い払われた・・という唐突な書き出しで始まる物語です。カフカ研究はその親戚にも及び、つまり父方の従兄ローベルト・カフカは1896年、女中に誘惑され子供が出来た。ローベルトの兄オットーは1904年にアメリカに渡り首尾よく成功者になった。ローベルトの弟フランクは16歳の時、やはりアメリカに渡った・・・カフカはこの親戚3人を総合して、カール・ロスマンを作り出したのだろうか??
私がこの物語を思い出したのは、時代の為です。もともと1800年後半の30年にドイツからアメリカに移住した人達が多かったという話から、今回のテーマは発生しました。それで確か、カフカのこの小説がその時代の背景を捉えていたはず・・と。
カフカはアメリカはもとよりニューヨークにも行ったことは無かったのですが、多分従兄弟が送信しただろう、マンハッタンの絵葉書や読んでいた雑誌などが、後から執筆当時の資料として発見されています。雑誌にはその頃の著名なジャーナリストによるアメリカ記事が連載されていました。アメリカが、パリよりもロンドンよりもイメージの中心だったという印象をカフカも持っていたのでしょうか。カフカとカフカの親戚だけで、当時を語るなと言われそうですが、全くそうなのですが。
ヨーロッパからアメリカへの移民は、1841年から60年まで約450万人、そのうちアイルランドから35%ドイツから30%。61年から80年まで、アイルランドからがぐ~んと減って、ドイツは同数。1881年から1900年までは総計900万人の移住者でドイツからの約200万人がトップ。その後ドイツからは急激に減ってしまいます。
時代のことは、特にヨーロッパにおいては国ごとに考えるより、各国の歴史や経済の事情が重なり合っていると思いますが。
1849年、19歳のドイツ青年ボシュ、21歳のロムは偶然同じ年にアメリカにわたります。それからまたまた偶然にニューヨーク州オンタリオ湖岸のロチェスターで出会い、やがてボシュロム社が生まれます。コダック、ボシュロム、ゼロックスなどの光学企業で知られるようになる前のロチェスターはなんと小麦粉の町といわれたそうです。
ここからはM野さんにバトンタッチです。
アメリカの写真工業(カメラのことだけで無く、印画紙やフィルムまで含めたこと)に、有名な企業ではボシュロムがあります。レンズメーカーでもあったし、シャッターメーカーでもありました。
なぜかよくわからないけど、ロチェスターにレンズ職人とか家具職人とか集まってきていたらしいです。コダックはアメリカ人が創業者ですが、その拡大にはロチェスターに集まっていたドイツ系移民に負う所がある様です。ドイツ語ができる事でドイツの光学技術を導入しやすかった事もある様です。
なお1910年に完全機械式シャッターを作ったのは、ルドルフ・クラインとテオドール・ブルックのドイツ系移民です。大発明なのですが、あまり知られていません。
お気付きのことだと思いますが、第一次世界大戦以前の古い話しです。
それにしてもカメラの輸入大国であり続け、フィルムの消費も世界一を続けていた国、アメリカでは、世界的に有名な機構を持ったカメラが生まれなかったのは、かなり謎なことです。
実は簡単で、家庭での記念写真ばかり撮っていてそんな複雑なカメラはいらなかったから、が答えです。このため木製大形カメラが家庭用であった(5×7インチのフィルムとか)し、特にこだわらない人は本当にやすいカメラ(それでもフィルムは六センチ幅)だったりしたのです。それじゃプロはどうなるか。報道写真でも4×5インチのフィルムを使っていたのですよ。古いアメリカ映画で報道陣のバカでかいカメラあれです。スポ-ツ用のカメラにいたってはみ みかん箱くらいの巨大な箱だったりしました。これって1920以前の話でしょう、と思うでしょう。なんと1950まで続きます。でかくても重くても体力で勝負!そんなカメラの使い方です。
ドイツ製やヨーロッパのカメラは高級品で、主に金持ちか軍用、一部プロのものでした。それでも売れました。アメリカではやすい商品を中心に大量生産を目指します。それが崩れるのが大戦後、カラーフィルムに切り替わったからでしょう。一時高級品も出ますが、アメリカからカメラの生産は無くなります。これはアメリカのほとんどのカメラメ-カーをコダックがもっていたため、不採算部門を切り捨てたためです。
それではアメリカの写真工業は、なにかオリジナルな物をつくり出していたのでしょうか。第一次世界大戦前には、木製のアンソニー社のスタジオカメラ(写真館の木のカメラといえば分かりますかね。折り畳みできない、カメラと脚が一体のものなのですが、基本的な操作は現在の大形ビューカメラと同じ事ができるものです。後にスコビル社と合併、アンスコになりアグファと提携する)がありますが、それ以外では、実は軍用品です。特に偵察カメラなんか一流です。
一般にはドイツカメラのオリジナリティが言われますが、アメリカはそのジャンルに見向きもせずに、オリジナルな軍用品ばかり作っていたので一般に知られる事が無いのです。
戦後のアメリカのカメラでオリジナルな物があると、大抵どう考えてもアマチュアの航空写真用だったり、報道用だったり、徹底的に記念写真用だったりします。
こんな事が起きるのは、アメリカが初めからカメラ輸入大国だったせいでしょう。逆にヨーロッパはイギリスを除いて(実はイギリスも途中からカメラ輸入国に変わる)輸出する側なので、オリジナルと高機能を目指して開発せざるを得なかった結果でしょう。特にドイツで進んだのは、まったくこのためだと思われます。実はイタリアやスイスでも高級品カメラが作られたのですが工芸品に近く、量産でドイツに負けたとおもわれます。
ちなみに、カメラは第一次世界大戦までほとんど木で作られていました。カメラは以外とお国柄を表しています。特に第一次世界大戦前のものは木製がほとんどなので、面白い物があります。工芸品のイギリスとか、どこかいいかげんなフランスとか、徹底して合理主義(作る側にとって!)のアメリカとか。初めにオール金属で作ったドイツとか。
いやー すごい内容だね ちょっと膨らますとすぐ本になりそうだ
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hiromi-coo
at 2007-12-10 12:51
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魚ちゅ、カキコありがと! 魚ちゅのブログは凄いね! 艦長も先日魚ちゅのは凄いヨ!といっていました。 きょうはとりあえず一言~。 また、カキコしまーす!
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kokouozumi at 2007-12-11 07:30
寛太 さん
M野ディンケルを投入で強力粉になってます。
> ちょっと膨らますとすぐ本に
ベーキングパウダーいれて、すぐ200ページ!という訳には行かないね。しかし、M野さんの内容質問攻めで、膨らませたくなります。
M野ディンケルを投入で強力粉になってます。
> ちょっと膨らますとすぐ本に
ベーキングパウダーいれて、すぐ200ページ!という訳には行かないね。しかし、M野さんの内容質問攻めで、膨らませたくなります。
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kokouozumi at 2007-12-11 07:53
Taru さん、お久しぶり。
コンピュータールーム寒いのですか。じゃあと、火鉢なんかつくっちゃうわけにいかないし、窯の余熱を送還するのは??うちの大家さん、窯場に洗濯物干せって言います。
カフカは時代に敏感でどんどん先読みしちゃうところがあって、研究書として読まれることがよくあり、研究者の好材料にもなってしまっているところ、ちょっときのどくかな。本当は語りというカフカ物語の特徴を、じっくり味わってみたいのですが。
コンピュータールーム寒いのですか。じゃあと、火鉢なんかつくっちゃうわけにいかないし、窯の余熱を送還するのは??うちの大家さん、窯場に洗濯物干せって言います。
カフカは時代に敏感でどんどん先読みしちゃうところがあって、研究書として読まれることがよくあり、研究者の好材料にもなってしまっているところ、ちょっときのどくかな。本当は語りというカフカ物語の特徴を、じっくり味わってみたいのですが。
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kokouozumi at 2007-12-11 08:15
オー!hiromi姉 さん 登場で、
なんだかほっとしてしまう。思えば学生時代から、年上のくせに私は甘えてましたね。
艦長のターリーシリーズみたいなのを、うらやましがっているのですが、ないものねだりですね。まずぬいぐるみ不足!UFキャッチで釣ってこなくちゃ。はは
又しょっちゅう来てね。姉さん。
なんだかほっとしてしまう。思えば学生時代から、年上のくせに私は甘えてましたね。
艦長のターリーシリーズみたいなのを、うらやましがっているのですが、ないものねだりですね。まずぬいぐるみ不足!UFキャッチで釣ってこなくちゃ。はは
又しょっちゅう来てね。姉さん。
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kokouozumi at 2007-12-11 08:23
M野さん、今回はM野さんの原稿から、頭を起こせなくて、申し訳ない。
アップしてから、さらによく読ませていただきました。たとえば、アメリカの高級品生産に対する諦め。それは職人層の薄さが原因?日本がカメラ産業でも頭角をあらわしたのは、逆に日本独特の職人意識の根があったから?・・・など思いました。
軍用品から、コンピューター産業は飛躍的な広がりを見せましたが、それは、頭脳的プレーの世界だったからでしょうか。
これからも、面白いお話をお聞かせくださいね。
アップしてから、さらによく読ませていただきました。たとえば、アメリカの高級品生産に対する諦め。それは職人層の薄さが原因?日本がカメラ産業でも頭角をあらわしたのは、逆に日本独特の職人意識の根があったから?・・・など思いました。
軍用品から、コンピューター産業は飛躍的な広がりを見せましたが、それは、頭脳的プレーの世界だったからでしょうか。
これからも、面白いお話をお聞かせくださいね。
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M野
at 2007-12-13 16:59
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オイラーの話しとなれば、なぜ彼らがいなくなったのか疑問が起こります。しかもどうも急速らしい、とは魚住さんの言葉からも感じられます。
アイルランド移民は有名なジャガイモの病気が原因の大飢饉が引き金になって起こりました。実はこのアイルランド移民がもたらした音楽と、アメリカのゴスペルやブルースが混じりあいロックを作ったという説があります。
ドイツ移民がアメリカ写真工業に影響を及ぼしたのは確かなのですが、移民の時期は、ドイツ社会の大変動期なのかと思います。
日本でのカメラ産業については、ちょっと厄介な所があります。簡単に言えばロマンでしょう。それがライカを超えて追求した流れと思います。
アメリカでは、カメラに対するロマンがなかったのかも知れません。ただカメラを作る必要は少なかった、これは確かです。
アイルランド移民は有名なジャガイモの病気が原因の大飢饉が引き金になって起こりました。実はこのアイルランド移民がもたらした音楽と、アメリカのゴスペルやブルースが混じりあいロックを作ったという説があります。
ドイツ移民がアメリカ写真工業に影響を及ぼしたのは確かなのですが、移民の時期は、ドイツ社会の大変動期なのかと思います。
日本でのカメラ産業については、ちょっと厄介な所があります。簡単に言えばロマンでしょう。それがライカを超えて追求した流れと思います。
アメリカでは、カメラに対するロマンがなかったのかも知れません。ただカメラを作る必要は少なかった、これは確かです。
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kokouozumi at 2007-12-14 03:46
> なぜ彼らがいなくなったのか・・
ごめんなさい!まだ其処までの経緯になかなか行き着けません。もたもた、汗、汗。
> アイルランド移民は有名なジャガイモの病気が原因の大飢饉
私は単純に、英国の支配に嫌気が差して・・なんて思っていたのですが、直接の原因はやはり生死にかかわる大飢饉だったのですね。
> 日本でのカメラ産業については、ちょっと厄介な所があります。
その分野を良く知っていると、単純には表現できないですよね。
オイラーという、点のような状況を近視眼的にみていたら、その時代のヨーロッパやアメリカの大きなウェーヴにちょと目を上げることができて、深呼吸しました。いつもの事ながら有難う!
ごめんなさい!まだ其処までの経緯になかなか行き着けません。もたもた、汗、汗。
> アイルランド移民は有名なジャガイモの病気が原因の大飢饉
私は単純に、英国の支配に嫌気が差して・・なんて思っていたのですが、直接の原因はやはり生死にかかわる大飢饉だったのですね。
> 日本でのカメラ産業については、ちょっと厄介な所があります。
その分野を良く知っていると、単純には表現できないですよね。
オイラーという、点のような状況を近視眼的にみていたら、その時代のヨーロッパやアメリカの大きなウェーヴにちょと目を上げることができて、深呼吸しました。いつもの事ながら有難う!
by kokouozumi
| 2007-12-07 04:30
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