人気ブログランキング | 話題のタグを見る

キンダーランドとコルチャック先生 その2

 








 1878年にワルシャワで生まれたヤヌシュ・コルチャック(ペンネーム、本名はヘンリック・ゴールドシュミット)が、青年になった頃の19世紀の終わりごろから、ヨーロッパでは新しい教育運動が開花している。鞭打って強制的に知識を詰め込もうとするこれまでの権威主義的教育から、子供達の自発性・興味・経験を重視して見守ることが大事という運動だった。ドイツの教育家の『田園教育舎』1898年に続いて、20世紀になると、ベルギーの医学者(精神生理学者)が『生活による、生活のための学校』を、イタリアの女医モンティソリがローマのスラムに『児童の家』を、さらにイギリスでは現存しているサマー・ヒル学園など次々にこの教育運動を推進する学校ができ始めた。

付け加えると、クラインガルテン(賃貸農園)の発祥とされるシュレーバーガルテンは、シュレーバーという医師であり、教育者だった人物の名を掲げ、始まりは子供達の健康のために造られたという。工場労働者が大都市に集まり、その家族である子供達は不健康な環境での生活を受け入れなければならなかった19世紀半ばのこと。
シュタイナーがStuttgartのタバコ工場主から従業員の子供達のための学校開設を依頼されて、自由ヴァルドルフ学校(ヴァルドルフはタバコ工場経営者の苗字)が出現したのも20世紀の始めである。

シュレーバーガルテンやシュタイナー学校は、上記の新教育運動の流れとは別のもだが、19世紀後半から20世紀の始めという時期は、どんな境遇の子供達も学校に行くことができるようにという制度が次第に整えられていく過程と重なって、さまざまな教育の場に関する試みが始まったと、捉えることもできる。

コルチャック先生に話を戻すと、(この人物に関する近藤二郎の本を参考にしたのだが)彼は二十歳で医学部に入学したが、慈善協会のメンバーとして社会の底辺に生きる子供達に接することを進んで行っていた。さらに子供達が衣食住の心配をしないで安心して暮らしながら勉強できるような、家庭と学校が一体化した『ホーム』の設立が彼の夢だったという。コルチャック34歳の時、ユダヤ人子弟のための『孤児達の家』(ドム・シェロット1912年~)とポーランド人の子供達の『僕達の家』(ナッシュ・ドム1919年~)という二つの『ホーム』の運営にかかわることになる。

Wikipediaに『子供共和国』という記事があった。その中で実践例の一つに、コルチャックのドム・シェロットが揚げられている。ドム・シェロットはいわゆる孤児院のように、親の保護を望めない子供達の施設だったが、その設立はまだ義務教育制度が確立する前のことだったので、裕福ではない子供達(ユダヤ人の)もそこで勉強することが出来た。

ドム・シェロットやナッシュ・ドムという二つのホームで子供達が暮らすのに、コルチャックが大事な原則として考えたのは、(近藤二郎の本によると)子供の議会・子供の裁判・子供の法典、だったという。親のいる家庭で育つ子供達は、親に叱られながら成長していく。ホームでは子供達同士が家族として、間違いに気付き、お互いに助け合うようにということだ。コルチャック自身が何度もこの子供裁判に訴えられ、子供法典の第何条に反した行為を行ったと、ホーム新聞で公表されたというエピソードが残されている。当時このホームの運営は多くの感心を集め、ヨーロッパ各国から視察者がやってきたという。

ヨーロッパの新教育運動の時代人としてコルチャックの目指したホーム・・子供の自治・・子供共和国・・手持ちの本やネットから拾い集めた読める限りの情報から
単純に結論することも出来る。しかし、その時代背景、ポーランドという国、さらにユダヤ人という彼の出生について読み漁りながら、現在のキンダーランドとの結びつきを探そうという気持ちはどんどん薄れてしまった。

彼の夢は実現したのだが、やがてファシズムの嵐が吹き荒れて、ユダヤ人だったコルチャックはナッシュ・ドムにかかわることを禁じられ、ドム・シェロットもゲットーの中に移転を余儀なくされ、最後は子供達と共にトレブリンカに移送されることになる。

トレブリンカ強制収容所に移送される際の記録として、彼のある著書に関するエピソードがあった。本のタイトルは

『小さなジャックの破産』


キンダーランドとコルチャック先生 その2_d0132988_17524335.jpg








続く
by kokouozumi | 2014-12-30 17:53 | Comments(0)

eine Notiz


by kokouozumi