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続・・おきて







私の夢と、猫の死が偶然では無いとしたら、どうしてかなと考えてしまいました。動物の子供は目が開いた時、はじめに見たものを母親と思うそうです。私がスズメをもらったのは生後3ヶ月の頃でしたから、本当の母猫、あるいは生まれた場所の周りに居る人間をすでに目にしていたはずです。それから10年以上の日々、そばに居て世話をしていたのは私の母です。唯一母ではなく私がやったことは、スズメを風呂に入れることです。水が嫌いな猫に対してかわいそうなことをしているという説もよく耳にします。たまにやって来ては風呂に入れる嫌なやつと思われても致し方ないところです。

夢のあとも妙なことがありました。道端を行く猫を見かけると、ドイツではよく誰でもMiezekatze(ミーツェカッツェ= にゃんこちゃん)
と呼びかけます。その時も猫を見かけて習慣的にMiezekatzeと口に出たのですが、なんとそこいら辺に隠れていたらしい猫たちが数匹、私の足元に集まってすりすり始めました。同じようなことが遠く離れたフランクフルトの見知らぬ場所でも、1度おこりました。

既に書いたように、スズメとの関係は断ち切れていたと、私のほうが勝手に思っていただけで、スズメのほうには私に伝えたい気持ちがあったのでしょうか?猫は一体何を考えているのだろう・・。

最近1ヶ月ぐらい前のこと。書籍バザーで売れ残ったもののなかに、再び岩合日出子の著書を見出しました。手を伸ばした私に、売り手はどうぞ持っていってくださいといいました。
海(かい)ちゃんという猫を、岩合夫婦は猫のモデルとして育てるべく飼いはじめました。今回見つけた本は、その海ちゃんのことを、読者が子供であることも考慮して、やさしい言葉で綴っています。しかし内容は決して安易な猫の生活を描写するのではないという、苦労が感じられます。動物と人間の関係の中に、猫らしいという形容が存在しないことを、きっぱりと表現しています。猫らしいというのはあくまでも人間が猫の条件として考え出した表現ですから。

セレンゲティ公園で撮影された『おきて』という写真集に岩合光昭がどんなメッセージを伝えようとしたのか、その本の中に出てくる、彼と猫とのかかわりから、30年の歳月を経た今になってやっと、考えてみることになりました。

動物世界の出来事を、人間は人間が満足するストーリーとして話しているかもしれません。母と子の愛情、強いものと弱いものの関係として。しかし岩合光昭が観察した動物の行動は、もっと複雑で不可解なものでした。じっと見つめていると、ライオンやハイエナの一瞬の表情を捉えるシャッターチャンスが生まれます。そのように捉えられた表情から、人間の作るストーリー、そのキャラクターに対するイメージとは違う彼らの姿があったということを。

『おきて』は、人間と動物の超えることが出来ない別の世界があることを、むしろ示しているようです。


動物との関係といっても、身近な存在はペット。犬や猫、私が言えるのは、つまり猫ぐらいです。いくら話しかけてもどう理解しているのかわからないから、その猫を見つめているしかありません。猫は見つめられることをとても意識するように思えます。いや、自分のようには出来ないでしょう、という挑戦かもしれません。だから追いかけて一緒に散歩すると、喜んで木に登って見せたりします。下でぽかんと見上げていると、なんだかばかばかしくなってくるのですが、それは楽しさを帯びた敗北感です。猫を相手にしても仕方ない。いや猫には相手にされない。人間同士も猫を見つめているように接したなら世の中は平和かもしれません。

私は猫を追いかけるのに写真という手段は、持ち合わせていないし、スズメのことも、不思議・・と、以外に言いようが無いし、せいぜいパンクと散歩して追いかけるぐらいなところですが、では形に出来るかという自問には、青ざめてしり込みです。あるひとつの手段で、自分の感覚を執拗に追い続けるという、継続した意識。脇で支える人が、その意味を間違いなく伝えさせるほどの強さを持つ意識。今回偶然手にした本から、そのようなことも読んでみました。





これは2年前にロックが死んだ直後の写真2枚
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目に光りが写るかどうかで、こんなに違って見える。
2枚目の写真を、あの頃のブログに載せたのは、やっぱり前向きな感じにしたかったから・・・



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それから半年たった頃。光を浴びた猫はのんびり見えるけど、
写し手は、ひとりになったパンクが可哀想とおもっていたのか・・
Commented by M野 at 2012-06-10 02:08 x
まず岩合さんは親子2代に渡る動物写真家という事。このため親子2代に渡る知識の集積だけではなく、歴史的な経緯まで踏まえて撮影しているようです。
まず第一に否定しているのは、擬人化でしょう。これは当然です。お父さんからはじまっていたと思います。そしてコンラート・ローレンツの影響もあると思います。解剖学的に動物を語るのではなく、フィールドワークに基づく行動観察を基礎に置くべきだという考えです。ただ現在ではローレンツの考えは、ロマンティックとされているようです。
いずれ動物には動物のそれぞれの「おきて」がある、それをどう見せるのかというのが代表作の「置きて」なのでしょうか。
Commented by M野 at 2012-06-10 02:33 x
最近の犬猫シリーズですが、一転して社会と動物というもののように思われます。日本の犬、なんてもうゴージャスですから。富士山にキリっとした柴犬だけでもう十分なのですが、そうそう単純なものではなかったです。なぜそんなイコンを出しまくるのか、ここが問題です。
多分現在の野生動物の状況について、深く悩んでいるのではないのかと考えています。とにかく考えてもらえるきっかけを作るために、作品を発表しているフシが見られます。最近盛岡で岩合さんの写真展があったのですが、とにかくそんな感じ。ブレまくりでした。
さてフルカラーのゴージャスな夢を見た、実は宝くじ当選者アンケートでこれがとっても多いらしいのです。もしかするといい事があったかもしれませんよ。
Commented by うお at 2012-06-10 05:57 x
M野さん
M野節と私は思っている解説のコメント感謝いたします。
動物写真家として、知識の集積と歴史的経緯・・があるということ、私にとっては、まさにオイラーの存在に置き換えてよく理解できる言葉を、ヒントとして与えていただきました。

『おきて』という言葉に対する古典的な意味の中に、心の持ち方、心ばせ、というのがあります。 動物の気持ちを人間の言葉で、あらかじめ先読みすることは、不可能です。岩合写真は場所の設定をあらかじめ読んでいるようです。そこに動物の気持ちを当てはめるという、辛抱強い作業をしているようですが、それがM野さんのいうイコンになるのですね。そこから確かに考えさせられました。
Commented by うお at 2012-06-10 15:25 x
M野さん
すみません。昨夜書いた2つ目のコメント、一部削除しました。

M野さん
しまった!宝くじだったのですか。
買いそびれました。しかし私にも表現に対する意地があることを、30年の時間を結んで、思いださせています。表現は言葉ではない。テクニックは表現ではない。しかしテクニックはすべての歴史上の莫大な言葉を使って、表現のために駆使するもの。
Commented by M野 at 2012-06-10 20:07 x
すいません、茶化しすぎました。
言葉と表現という事で思いつくのはドビュシーの「言葉がつきる時に音楽がはじまる」がとてもいい言葉と思っていたのですが、ここのところ言葉に変換できない表現は、流通しないので無価値であるという潮流があると思います。
大衆化という事かもしれません。
言語と表現というのは永遠の問題なのかと考えています。どうもカメラマンなんてやっていると、この辺りがすごく厄介な問題になってしまいます。
Commented by うお at 2012-06-11 08:24 x
M野さん
今回、野生動物からのら、ペット、それを捉える写真、写真家の側面を伝える本・・それらのことを結んでいくうち、自然に表現・言葉という命題が浮かび上がってきました。カメラマンという仕事が絡んできたからだと思います。ですから、厄介な問題とM野さんが言う、背景をちょっと垣間見たかな?と。
ものを制作するところでは、よく第2の言語といいわれるのですが、ドビッュシーの言葉いいですね。制作も言葉では伝えられない領域から、始まるのではないかと、考えていました。みんながIホンをいじりながらジョブスのプレゼンを賛美しているとしても。
by kokouozumi | 2012-06-09 05:35 | | Comments(6)

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by kokouozumi