人気ブログランキング | 話題のタグを見る

桜の頃になったら









3月になって、語学校で一緒のクラスだったルーマニア人の女性から突然のメールが舞い込みました。ドイツ語を勉強した後すぐ国に帰り、大学を卒業して、結婚して娘が二人生まれて、今はアメリカに居ることがわかる簡潔な文面でした。最後に、私とフライブルクの中央墓地を散歩したこと、そのとき私が『日本ではみんな墓地へ桜を観に行く』と説明したと書いています。おいおいそんなこと言ったかな?上野の学生時代、桜の季節に谷中墓地へお花見に行くのが、学内の伝統的なデートコースでもあったみたいなことを、多分話したかもしれない。私も彼女も、当時のドイツ語能力が、それくらいの間違った情報を記憶する程度だった?

私達が通ったドイツ語学校は、フライブルクのカトリック大司教管区が運営していたので、セーターの下にカラーのついた神父服を着込んでいるような学生が多く混じっていました。最初のクラメート15人のなかに日本、アフリカ、イタリアからの神父達が4,5名、それに15年前のその頃はユーゴスラヴィアから分裂した国々、コソヴォ、クロアチア、スロヴェニア、ボスニアからやって来て、フライブルクの難民居住区に住んでいる若者達も多かったのです。彼らは、子供には混乱の故国を離れ、将来のために学ぶ機会を与えたいと、願う親達によってドイツに送り込まれていました。そんな弁の立つ神父や逞しい難民青年たちに混じって、ルーマニアのその子は最年少だったし、授業中あまり発言することも無く、試験用紙は日本人にはとても読めないような字を書いているし、同様に発言できない私でさえ「大丈夫かなこの子」と思っていたのです。しかし先生が採点した答案を返すとき最高得点がその子だったのにはびっくり!「先生はあの字が解読できるんだ・・・」

そのラヴィニアと日曜日にばったり出くわしたことがありました。そして学校で習ったとおりに、「お元気ですか?」「はい元気です」「これから何処へ行くのですか?」などと会話したのでしょう。私の「これから墓地に行きます」という答えに、彼女はさらに、「何しに行くのですか?」「ただ観にいくだけです。」「何を?」「お墓を」「一緒に行っても良いですか」ということになりました。

フライブルク中央墓地を歩き廻り、目につく墓石に刻まれた名前や生年月日、死亡した時を意味も無く読む私の横で、彼女はルーマニアの話をしていました。チャウシェスク以後も国は貧しいこと。親に外国で学べと言われているが、自分にはその勇気が無いこと。ヨーグルトにジャムや砂糖を混ぜて食べるなんて信じられない。ヨーグルトはすっぱいから美味しいこと。最近彼女から来たメールには、そのとき私が話したことに感謝しているとありました。信じられない。私は何も覚えていない・・・。まず、日本人がお花見に墓地へ行くことは訂正しなければ。

先週、春の陽気が一変して雪になった日、私はまた墓地に行きました。ピルミンのお葬式でした。2008年の10月末、突然の脳腫瘍の手術。10日で退院して真っ直ぐ仕事場に帰ってきた彼が、自転車に乗れるようになった。医者から車に乗る許可が出たと報告する度に、周りの人々も信半疑の気持ちを次第に忘れそうになっていたのですが、約1年後の昨年11月、又突然に、もう仕事場に来ないことになってしまった。そして春を待てなかった。

特に宗教とはかかわりの無かったピルミンの葬式は、墓地に付随する建物の中で、神父や牧師ではなく、説教師という人物が彼の経歴を振り返り、この家の2階に住むチェロ奏者が演奏をした簡素なものでした。それから雪の中を彼のお墓の場所まで、行列を作り歩きました。私は最後から2番目。後ろにピルミンの後継者、イタリアでバイオリン作りを学んだ男性は、二日前にスケートで転び松葉杖をついて歩いています。クラインガルテンに来ているおじさんが私の横を歩いています。黙って歩きながら、無意識に通りすがる墓石の死亡年を読んでいるうち、「この墓地は新しいのですか」と隣に聞いていました。

カトリック教会の墓地がまずあったけど、そこに空きが少なくなって、カトリック信者のみが入れると制限せざるを得なくなり、市の墓地が各地域に増設された。それぞれの墓も昔は遺体の入る棺がそのまま埋められる大きさだったし、より大きい墓というのが家族の力の象徴でもあったが、現在では火葬した遺骨を壷に納めて埋葬するようになり、人々も小さな墓で十分と思うようになった。しかし小さいとはいえ、ある区画の地面を掘り、骨を埋めて土盛りしたら、1,2年待って墓石を設置することになる。そうしないと墓は傾いたりする。遺族、子供達にそのような仕事を残したくないので、樹の下の墓というのがある。墓地内の大きな樹の根元をぐるりと取り囲むように骨壷を埋めていく。その場所に小さな名前を刻んだ石を目印に置くだけ。

墓地をかなり奥まで歩いたピルミンの墓も樹の下にありました。行列がその前までたどり着く頃、墓の説明をしていたおじさんは、『おくりびと』を観た。良い映画だったと、ぽつり言いました。この家の住人も、そばのクラインガルテンの人々も、顔を合わせれば、ピルミンは?と訊ねあい、覚悟をしてきましたが。墓の話をしながらこのおじさんも、ピルミンとどのようにお別れしようか、ずっと考えていたのかもしれません。私もまだ彼がいないと思えない。

桜の頃、またあそこに行ってみるかもしれない。私は始めて桜の頃、墓地に行こうと思っています。





桜の頃になったら_d0132988_3463736.jpg



以前のピルミンに関するもの
身近にもいた! マイスター
身近にもいたマイスター ! その2
Commented by M野 at 2010-03-18 18:57 x
まだまだ最低気温がマイナスの日々です。フライブルグはこちらの四月上旬ほどの気温でしょうか。もうそろそろ水仙なんか咲き始めているのでは。
以前話してくれたピルミンさんなられたのですか。うおさんが訪ねたらチェロが売れた、というピルミンさんですね。アナログ楽器だけは大量生産が難しいので、けっこう安泰だと思ってたのですが、けっこう大変だというのが意外でした。
以前色に関する本で、日本では緑と言うと自然とかいいイメージがありますが、ヨーロッパやアメリカでは墓場のイメージもあって、あまりよく思われていないと聞きました。ところで墓場で桜の名所って無いわけでは無さそうです。例えば上野の寛永寺あたりは将軍墓地ですし。青森の雪中行軍殉職者の墓地も桜の名所ですね。とはいえかなり少なさそう。青森の場合もばか騒ぎする場所では無いですし。
なお実家の寺なんですが、なぜかクリスチャンの墓が奥にあるのですが、けっこう混在しています。いつも不思議な光景だと思ってます。なお曹洞宗なのですが。
Commented by M野 at 2010-03-18 23:49 x
すいません。ピルミンさんへの哀悼をかきそびれました。

ピルミンさん。あなたの楽器が奏でられる限りあなたは永遠です。
世界に音楽が満ちあふれるまで、ピルミンさんは永遠です。
あなたの音に触れた人は祝福されるでしょう。
それをささえたピルミンさんに合掌します。
御冥福をお祈りします。
Commented by tomato at 2010-03-19 00:35 x
桜と墓地の関係は必ずしも間違いではないと思います。
お寺には桜はつきものだし、桜の木の根元には死体が埋まっていると言われるし、
願わくば花のもとにて春死なむ・・・という歌もあるし。
樹木葬で人気があるのはやはり桜だし・・・・

ピルミンさんはヴァイオリン職人なんですか。「船に乗れ!」で
だいぶ楽器に悩まされています。
でもヴァイオリンはとても美しいですね。
そしてそれを支えるチェロの音色といったら

一度、思う存分三重奏など聴いてみたいです・・・・
Commented by うお at 2010-03-19 08:36 x
M野さん
天気予報では最低気温のマイナスが消えましたが、テラスの水仙は一つだけ蕾をつけたところです。
ピルミンさんと最後に仕事の話をしたのは、手術の後でした。一人何か作っている職人は結局生き残っていける・・と話していました。世間では大企業のエリートが突然の失業といったニュースが飛び交っているときでした。
西洋で緑が墓場のイメージと結びつくこと、知りませんでした。でも墓地はそれほど嫌われていないような?もちろん夜中に好んで行く人はいないと思いますが、昼間は公園のように散歩できます。フライブルクの最も古い墓地は解説者付きの見学ツアーがあります。(日本のお寺見学にもあるのかな)この墓には毎日誰かがバラを一輪供える・・なんて神話も飛び出すそうです。

夫婦で信仰が違う場合、墓をどうするかということ聞いたことがありますが、クリスチャンの墓をもあるお寺さん、おおらかですね。
Commented by うお at 2010-03-19 08:40 x
M野さん
ありがとうございます。
私のあまりにもそっけないピルミンさんのお葬式報告に、心からの哀悼を書き添えていただきました。今度お墓参りしたら伝えてきます。
Commented by うお at 2010-03-19 09:10 x
Tomatoさん
桜と墓地のかかわりをこんな格調高く説明できたらよかったですね。当時の語学力では手も足も出なかったと思いますが。私が、桜の頃にお墓参りをしたいと無意識に思うのも、何か日本情緒の片鱗なのかな。

「船に乗れ」は楽器の話も多いのですか?ますます興味深いです。私も音楽には疎いのですが、ピルミンさんの工房がある家に住んで、職人の音楽家とは違う楽器とのかかわりを感じます。次の世代の職人、今度はイタリアで修行した方によってピルミンさんの仕事場が受け継がれ、下から音が聞こえてくるのは、私にとっても嬉しいことです。今のところ松葉杖で毎日通っています。

弦楽三重奏ですか。カルテットより聞く機会が少ないと思いますが弦楽いいですね。
Commented by 河西文彦 at 2010-03-19 21:51 x
春 桜と来れば 諏訪は丁度 4月で入学式の季節。4月生まれの 私にとって まさに 人生のスタート ラインです、欧米のように 9月に入学式を何て話もありますが、困ります。1月1日 新年 4月 役所仕事 も 勉強も始まりが  最高に らしい 季節です。今月すえの日曜日 サマータイムに移行します。 自然界の春も 真っ盛りです。
Commented by tomato at 2010-03-19 22:31 x
というか、基本的に楽器の話です。
「船に乗れ!」とは言いながら、実際の船には乗れません・・・・
Commented by うお at 2010-03-20 07:26 x
河西さん
桜の頃になったら・・・お誕生日ですか。そうですね、私も思い出してみると小学校入学以来、新たな学校生活が始まるときは、慣れない場所に何かと不安な気持ちも抱えていました。春から夏へと季節感の上昇気流で、いつの間にかその場所に落ち着いていくものですね。

そうか、もう直ぐ夏時間ですね。
うん、この上昇気流に乗って、楽しい季節を過ごしましょうね。
Commented by うお at 2010-03-20 07:42 x
Tomatoさん
あっ、そんなんだ!実はポプラビーチでかなりのページを読めるのですが、ところどころの抜粋らしいです。一回目が面白い、飽きないと思って、2回目以降を見ているうち、途中が抜けていると判り、これは読まないほうがいいかなと。でも「船に乗れ」というタイトルはいいですね。
三部作と長いですが、読んでみたいです。
Commented by tarutaru953 at 2010-03-21 21:52
ピルミンさんのお葬式だったのですね。
ご冥福をお祈りいたします。

「最後のチェロ」制作とマイスターの死
楽器制作に使用する木が枯渇しつつある話・・・
松葉杖をつきながら葬儀に参加されたお弟子さん、
是非師匠を越えるような後継者に成長していただきたいですね。

チェロの響は物悲しくて心にグッと迫ってきます。
土蔵造りの建物で知人のチェロ演奏を聴きに行ったことがありますが
階下で響く音が板の間から漏れ伝わってくる感触は
吐息を聞くようでもありました。

日本の墓場には桜。屍が埋まっている話もあるし
死者に対する遺された人々の想いというか
やさしさというか。
そんなものを強く感じますね。
日本人と桜。墓場との繋がりはまんざらでもないような気もします。
ちなみに信州は梅や柿なんぞ植えてあったように思います。
Commented by うお at 2010-03-22 07:10 x
Taruさん
ブログを始めたばかりの頃のピルミンのことを、自分で読み直し、Taruさんのコメントに改めて感謝しているところです。あの頃はこんな続きになるなんて全く考えられませんでした。Taruさんからの気持ちも話してきますね。

蔵の中のチェロ演奏会について、Taruさんの以前の記事を覚えています。なかなか体験できないような状況で聞く、素敵な演奏会だったのですね。
陶芸の土もどんどん変わっているのですが、あの土じゃないと、いい味のお茶は飲めないというような条件は無いですね。楽器の世界はどうなんでしょうね。
ピルミンの後継者は松葉杖をつきながらの往復に、いつもバイオリンケースを抱えています。聞いたら、ピルミンが修復したバイオリンが入っているそうで、鑑定はされていないが、名のあるバイオリンらしいとか。職人には時代に負けないロマンがあるのですね。

花冷え、桜、死者に対する思い・・・日本の情緒を感じます。
Commented by 寛太 at 2010-03-23 05:45 x
わたしの父は軍人上がりの自衛官でしたが 戦争のことは何も子供に伝えずに死にました ただ一度だけ小学校の2年生のとき 靖国神社にいっしょに行きました 桜満開のときでした 何かたくさんの父と同じような人たちが集まっていたのと そこでみんなが歌っていた 海行かば しか覚えていません 何かを伝えたかったのでしょう でも十分伝わっています
ドイツで30年近く生活している間は 一度も桜の時期に日本に帰っていないし そういう意味では 数少ない桜の思い出です

わたしの中に残ったピルミンの思い出は 思い出というより 魚住家で
昼寝をしていて床から響いてくる下の階からのピルミンのチェロ
わたしの好きなチェロのいろんな思い出の中に刻まれています
そして最後に残っているのは チェロやヴァイオリン作りに対する意気込みというより時代の移り変わりを嘆いているピルミンの言葉です
いい時代にいい仕事ができた職人ならうらやましくも感じます 
桜が咲くと思い出してくれる人がいる これもうらやましいですな
ピルミンに嫉妬しながら 冥福を祈ります
Commented by 河西文彦 at 2010-03-23 14:13 x
寛太さん、私の父は南方から引き上げてきて後 私が8ヶ月の時に亡くなりました、幼いころ よく母が歌っていた「モンテンルパの夜は更けて」という歌 先日の放送で 実際の様子を知り泣けました・
戦争はだめ!だなんて わかってるよ!  特に戦犯の裁判なんて
異常です。 喧嘩は両成敗 が 本当だと思うけどね
Commented by 寛太 at 2010-03-23 16:03 x
単に桜とお墓の思い出で 靖国を出してしまいました
戦争をテーマにするつもりはありませんでした
今魚さんは 身近にいたピルミンの死を 満開の桜の中に納めようとしているのだと思います 
わたしが余計なことを書いて雰囲気壊れちゃったこと お詫びします
Commented by うお at 2010-03-24 07:18 x
寛太さん、河西さん
連名で失礼します。
こちらで生活し、仕事していると4月に日本へ帰国するのは難しいですね。靖国神社と桜、海行かば・・小学2年のときの記憶をお聞きすると、私も小さかった頃のお花見風景を思い出します。小さい頃って、初めて映画を見たとか、初めてサーカスをみたとか・・・自分は何故突然ここへ連れてこられたのだろうと、思っていることがよくあったように思い出します。

ピルミンさんの仕事場からは色々な人の演奏でチェロの音がしていましたね。私も一応は職人の部類で仕事していましたから、気が散るとか、集中している時に邪魔されると大変だろうと想像して、仕事ぶりを観にいくことはなく、そんな音を聴いているばかりでした。

休日はフランスの家に帰ってしまうので、仕事場以外の場所のピルミンを見ることはめったに無かったのですが、春になると時々、奥さんのジェニーを手伝って、畑にいたり、車から大量の園芸土を運び降ろしたりしていました。どんな人でも春の中の思い出は活き活きしてるのかな。

墓地も春は綺麗ですよ。皆さんの祈りを伝えてきましょう。
by kokouozumi | 2010-03-18 03:51 | Comments(16)

eine Notiz


by kokouozumi