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すばやい仕事








11月9日はベルリンの壁が崩壊した日。今年はドイツ東西統一20年目のその日となり、ベルリンでは「自由の祭典」として華々しい行事が繰り広げられていたようです。あの場面、壁の上に登った多くの人々が手をつなぎ取り囲む中で、一人の男が28年間東西を分離していた壁につるはしの一打を振り下ろそうとしている映像が、感激のシーンとして、様々なメディアに再び登場しました。


東西統一に関する話を耳にするとき、あの1989年から時間が経つほど、その時の国内や世界情勢によって捉え方が変化しているようです。
壁崩壊から10年目、1999年から2000年への変わり目では、ドイツがひとつになって新世紀を迎える喜び一色だったように思い出されます。東側の急速な自然・環境再生政策が推し進められ、町の表情も変わっていきました。ドレスデン聖母教会はその頃の修復事業を象徴するドラマでした。ドイツ内の政策というより、世界規模の支援による再建築への情熱でしたが、東側はこれだけ美しく復興しているのだ、という気運がありました。

20年目という区切りの今年はしかし、経済東西統一を目指したこれまでの政策に対する厳しい分析も、報道の中で目に付いたのは、経済危機時代の視点かもしれません。これは全体像が見えないと判りにくいことなので、興味ある方はこの記事を参照してください。イギリスの経済紙から翻訳されたもので、コンパクトにわかりやすく解説されています。
ベルリンの壁崩壊から20年 旧東西ドイツの埋まらぬ経済格差 

その中にもあるように、これまで20年の東側経済立て直しの補助金として、1,2兆ユーロが計上されています。「政府も誰もそのことをはっきり言及したがらない。言ってしまえば、一体その金額は何処に行った!東の失業者と貧困は救われたのかと、問いただされるに違いないから・・・。」
西では、俺達がひたすらお金を払っているばかりと一般の人々の口から何度も聞き、東では「西に強奪された」といい始める。「最悪なことにある部分では両者の言い分とも正しい・・・」という記事もある。

「確かに、旧東ドイツのインフラは整備され、電話線がひかれ、河川がきれいになり、年金は増加し、企業の私営化に向けて、建て直しの補助基金が用意されたと一瞬思えたが、旧東の企業が体制を整えるよりも素早く、西側が商売を展開した。まずビデオ装置、車、保険会社が1600万の昔のお得意を取り戻したと、注文リストに書き込み、職場を拡大した。それから銀行。東のいくつかの銀行は非常に安く西に買い取られ、旧クレジット補助基金が西の銀行に流れ込んだ。経済統一の建て直し補助のお金は西側からまた西側のお金の家に急速に流れ続け、この状況は本来の建て直しの侵害となった。」

旧負債。DDR時代のクレジットは西側のそれと違い、いわば政府援助のように事業の経営プランに組み込まれ、必要が無くても利用する企業が多かった。それが統一後、返済すべきものと扱われたことは、早期過ぎる交換レート設定(1:2)、それによる給与上昇とともに企業が私営化される際の重圧となった。クレジットの返済がないまま東の主な銀行は買い取られ、統一政府からの旧負債基金は買い取った西側銀行で清算されたということだ。

しかし、素早い動きあるいは仕事振りは、DDR誕生前にもあった。第二次大戦直後の1945年、スターリンはドイツ企業解体の特別委員会を組織した。そうしてポツダム会談でアメリカが領土開放を提案する前にソ連占領の地域、後のDDRでは約3000の工場・企業が解体され、そこにあった製品、資材、設備機械が鉄道でソ連に輸送された。
西側地域でも連合軍による、軍事工場の解体はおこなわれたが668企業に留まったということだから、東側からどれほど物が無くなったかこの数値だけでも想像できる。特にこの輸送にも使われただろうドイツ帝国鉄道の機関車、電気機関車、貨物・客車車輌のほとんどに、1180キロメーターの線路もはがされた。それでも東の人々は、シベリアの厳冬の中で、ちゃんと全部組み立てなおせたかな、と冗談を言っていた。

それから、また200の重要な企業が再び操業を始めた。その中には解体されて一からやり直しの工場も混じっていた。

11月9日を機会に、旧東ドイツ地域で、40年の流れの初めと終わりに、素早い仕事がおこなわれていたことを知りました。そのことから私はなぜか改めて、その土地の人々の自由をおもいました。東でも西でも、お金が無くても自由に生きていけるならと。



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このところ11月にしては暖かな日が続き、猫達は夕食後も外へ出かけます



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今年の作物が終わってしまった畑は、猫達の遊び場に


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生垣が冬を迎える庭を励ましています
Commented by 河西文彦 at 2009-11-19 13:30 x
ん十年前、ドイツに来たときは、モスクワからの汽車で最初に着いたのが、東ベルリン!間違えて降りようとして ミヒャエルと言う西ベルリンからの学生にとどめられました、彼は夏休みインドに行って来たとかでモスクワから同室になりました、当時徴収されていた通行料5マルクを 彼が張れってくれました、ドイツ語の分からない日本人のため警察に長居をして欲しくなかったのでしょう。西ベルリンについて ツオー駅から レストラン東京に電話する時には 50ペニヒ 貸して貰い、荷物を見ててもらいました!その夜 レストラン東京の人が「良くぞ荷物を取られなかったものだ!」と驚かれました。彼はそのあとTUの方に去って行ったから」多分TUの学生だったのでしょう。いちど(もう一度)会って お礼を言い 5マルク50ペニヒも返さないと。あの寒々とした グレンツエの壁とともに懐かしい感慨にふけるこのごろ。当人たちは 辛い時代だったでしょうが、国が(町が)二つに分かれて入るというのも 、面白いものでした。あのころは 誰が再び ドイツが一つに成るなんて考えていたでしょうかね。朝鮮半島 出hあ考えられないです。
Commented by seedsbook at 2009-11-19 16:18 x
壁の崩壊ニュースが流れたときほんとに驚きましたね!何だか信じられない思い出友達に電話をかけたのを思い出します。
友人宅には東側から来た親類筋が逗留して、双方色々なカルチャーショックに驚いていたようです。
20年では全く溝は埋まらないようですね。これからどうなってゆくのでしょう。。。

ほんとに11月にしては温いです。
先週末から天気はわるかったけれど、今日辺りから少し晴れそうな予報。歯が具合悪くて苦労しているのですがせめて太陽に当たっていれば気分がよくなりそうです。。。(苦笑)
フライブルクはドイツで一番日照時間が長い。。。のは無かったでしっけ?
Commented by M野 at 2009-11-19 22:58 x
二十年前、日経新聞では東西ドイツの合併をかなり冷ややかに見ていた論調も見られました。誰もが為替レートを無視したことには疑問を出していましたが、これが政治なのだと言っていたように思います。
たしか暫定期間を設けて東ドイツに投資をして豊かになってから合併と言うプランもあったと思うのですが。
第二次世界大戦の名残りは今でも、方々で火種として残っています。これらがすべて解決するのは百年以上先の事なのかな、パレスチナにいたっては、どうなることやら。
カエサルだったと思いますが、悪をなす時は徹底的に素早く、と言っていたような。悪と善が素早く通り過ぎたのが東ドイツなのでしょうか。
日本の東北地方は、もともと貧しかったので若者がかなり軍隊に取られてしまいました。しかも前線に送られたものも多く戦後労働力不足に悩み、経済復興がかなり後れた地域になり今日にいたってます。東ドイツのことは、これと同様なことがあるのかとも考えています。
Commented by tomato at 2009-11-20 00:35 x
ベルリンの壁崩壊時、私はアメリカにいました。
西ドイツから来ていた友人ハインリッヒは、
ことの他冷静にこの事件を見ていたのが印象的でした。
アメリカ人とかが歓喜しているのをよそに・・・・

そうですか。あれから20年経つんだなあ。
金融危機もあり、様々な問題が提起されているようですね。
社会主義時代の方が暮らしが良かったと嘆く老人がTVに映っていました。
一方、今のドイツの中・高校生はあたりは
ベルリンの壁のことを知らない人が増えているとも言っていました。
教育の問題が取りざたされています。
どこの国でも同じことが起こっているんだな、
決して日本だけの問題ではないんだな、
とつくづく感じた次第です・・・・
Commented by うお at 2009-11-20 07:36 x
河西さん
モスクワから汽車でって?モスクワまではもしかしてシベリア鉄道でたどり着いたのですか?壁のある時代にベルリンにいるという、貴重な体験をされたのですね。
私がベルリンを初めて訪れたのは1992年でした。その頃はもちろん東西間を通行料なしで自由に地下鉄や電車で行き来できたのですが、旧東側の駅に電車が入ると突然雰囲気が変わって、緊張しました。暗い・・グレー・・のイメージって、東に対するステレオタイプみたいですが、その言葉しか出てこなくて・・・という印象でした。
それにしても初めてベルリンに到着するとき、ミヒャエル君が一緒でよかったですね。TUとはテクニック大学?のことですか。彼は今何の技師さんになっているのでしょうね。
Commented by うお at 2009-11-20 07:52 x
seedsbook さんも
壁崩壊のとき。すでにドイツにいらしたのですね。現地でそのニュースを聞いたときは、ほんとに驚きだったでしょうね。私が初めてドイツに来たのはマイセン陶器云々でしたから、東に向かいましたが、ホテルを探すのに思いがけず苦労しました。アメリカ系のホテルは高い、ビジネスホテルなんてない!プライベートホテル(民宿)を利用しましたが、市電を乗り継いでたどりつくような郊外にあり、「地球の歩き方」に「ドイツの市電に乗る方法」をかけるぐらい勉強になりました。その頃はトラビなど走っているとかっこいいと、気楽に思っていました。

フライブルクは日照時間がドイツで一番長いそうです。それでソーラーエネルギーの研究所などあるし。私は偶然、この町に住み始めましたが、動きたくなくなります。ドイツにいるとお日様がほんとありがたいですね。
Commented by うお at 2009-11-20 08:24 x
M野さん
さすが、20年前の日経新聞記事を良く覚えていましたね。
旧東で再び可動し始めた企業の重要な200は殆ど、ソ連に売られる生産で独占といえましたが、設備投資が滞って、壁崩壊時に30年代の機械をまだ使っていたり(カースタンの工房みたいですね)の状況だったそうです。それを改新するだけでも時間をかけるべきだと、経済統合はそれからにすべきという長期プランはすべてくずかごに。この地域を通り過ぎたものをちっと知ってみると、世界の様々な歴史の何処かで起こったことが、ドイツのここにもおこった。それはむしろ地理学てきなことまで関わってくるのはないかと思いました。
環境が整備されて美しくなった東の町から、若者がどんどん出て行ってしまうのは、東北地方の過疎化に似ているかもしれません。
カエサルは政治家として鋭い判断力と決断力を持っていたとすれば、東ドイツのこれからも、人材によって変わっていくのかな。
Commented by うお at 2009-11-20 08:49 x
Tomatoさん
なんとその頃はアメリカだったのですか。西ドイツから来たハインリッヒ君が冷静だったのは判るような気がします。1989年の夏にチェコから西ドイツに向う特別列車で多くの東ドイツ住民が移動するという、壁崩壊につながる出来事があったのですが、そのとき単独で川を泳ぎ渡って西に亡命しようとした家族は、ドライブインで特別列車のニュースをテレビで見ても、信じなかった。何かのトリックだと思ったそうです。で、結局川を渡った・・・。
私が直接東の何人もの方から聞いたことは、「一瞬の喜びが過ぎると、これからどうすればいいのかわからない不安だった」というものでした。
自分を振り返ってみても、知らない時代の歴史を暗記するように覚えても面白くないですね。以前紹介した子供大学のような、どんなテーマであれ「知りたい」という気持ちになるきっかけが必要ですね。
Commented by 寛太 at 2009-11-23 09:56 x
なかなか含蓄のある重いテーマですね
私は会社設立が89年12月 90年に工場 プール付きの家を買って なんか今思うと銀行と税理士の言うがままにやってた気がします
銀行は無担保でどんどんお金貸してくれるし
景気がよかったのはその後の3,4年だけ その後は、、、、
うすうすこんなのおかしいと分かっていても人は夢を見てしまう
夢から覚めてもう10年どこに向かって行ったらいいか未だに見つかんない
そんな多くのドイツ人の一人になってる私
残ったのはまさに東独の人と同じ残された人生への不安感
どんな環境の中でもたくましく生きる異邦人になるはずだったのに、、、
って愚痴っても始まらない 楽しいこともいっぱいあったんだから
まさに激動の20年だった
仕事をしながらラヂオから流れてくる 旧東の人たちの壁崩壊時の感動の思い出を聞きながら 東独のみならず長い歴史の中で勝ち得た自由が 本当に人に幸せをもたらすのか なんてふっと思った11月9日
恵まれているはずなのに不甲斐ないという自己反省を含めて書きました






Commented by うお at 2009-11-24 07:50 x
寛太さん設計施工の猫道、ウンター・デン・ファイゲン通りはとっても猫達や猫の世話人に好評ですよ。ありがとう!この通りができて判ったことはパンクが朝、隣近所の人々の自転車出発を見送った後、戻ってきて一眠り・・・といった調子で日々のリズムがあるのに対し、ロックは私が台所にいることをどうやって感知するのか「何かもらえますか?」の顔をして、ひょこと戻ってくること。

西ドイツではまさに20年まえから1995年ごろまでGDP(国内総生産)が前年比で40%弱も伸びるほどの好景気だた背景に、この東側での商売があったようです。個々の自営業者はそのような世の中の動きに巻き込まれると考えるか、独自の志をどのように推し進めるかと考えるかで、日々の感覚が違ってくるかもしれません。ここでもっと重いテーマをだすと、「あの龍どうやって窯詰めする・・」こんな意地悪な同級生から自由になりたい!って、思ってませんか?
納得できる作品を増やしましょう。
Commented by 寛太 at 2009-11-25 02:46 x
雪が降る前に通りを広げておいたほうがいいかもね
写真からは板1枚しか見えないけど その奥の窓にちゃんと設計施工の入り口があります 美大建築科卒がいかにこの板1枚に美意識を見出したか と皆さんははたと考えられたと思います こういう説明不足さも なかなか意地悪ですが 尾っぽの切れた龍にははたはた困っています
そんな日々の虐待の中たくましく自由に空を飛びまわる龍のごとく 明日に希望を持って未来を目指す貧乏陶芸家
龍は明日の朝 挑戦します 功ご期待
Commented by うお at 2009-11-25 07:22 x
寛太さん
猫道、入り口部分の良い写真がまだ無くて御免なさい。まあ防犯上わからないほうがいいか、と思ったのですが、この記事もっと危険なことも書いているのに。雪の頃、入り口部分の景色をとらえてみましょう。

そうだそうだ、なにせ一応辰年だから飛んでみましょう!虐待効果ありありですね。しかしあの龍重いから、腱鞘炎に気をつけてね。成功を祈ります。私も今日は遅くまで仕事していました。他人をいじめるると自分にばしばし返ってくる、くる!!
by kokouozumi | 2009-11-19 08:16 | Comments(12)

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by kokouozumi