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ノート






ノートやメモが、もはや紙の上のことではないようなのが、昨今の生活変化の1つと言える。スマホ1つあれば、ノートやメモが無くても自分のせつな的感覚を確認することが出来る・・・ともいえる。いまや陶芸教室にやって来る参加者たちは、スマホの画面を見せて、この写真がモチーフである、というような具合で制作会議が進行する。

しかし、記憶を辿る手段として紙の世界はまだ有効なようだ。デジタルモバイルにすっかり馴染んでいるような世代、当然電子書籍を利用している若者からも、何処に何が書かれていたかの記憶は、本のボリュームで(何ページぐらいに)書かれていた内容を覚えているが、電子書籍ではそのように記憶することが出来ないと、聞いたことがある。
確かに、今手元にある既に読んだ本の内容に関しては、曖昧な記憶でも、だいたいの検討で後追いすることができるから優れている。この優れているという言葉を、紙の本に関してなのか、人の記憶力に対して言うべきなのか、よく分からない。

10年前に読んだ本の内容を、何処に何がと、かすかに覚えているかもしれないのに、自分が書いたデジタルメモに関しては、五里霧中のごとく記憶は消え去ってしまう。このブログは2007年9月からこれまでの7年間、私のメモになっている。幾つのメモを残したか、はっきり数えたことは無いが、月平均3件として250前後と非常に少ない数なのに、すっかり忘れている内容が多く、偶然に昔のものを読んで、思いがけない記録を見つけることもある。 余談だが、かつて寛太工房のあったへーリンゲン村メモでは、猫の名前以外に人間の固有名詞は全く出てこないのに、牛舎のエミールという実名が、雪景色に埋もれるようにして書きこまれていた。そのエミールの元から現在の猫たち、メリーとジェーンはやって来た。その場所に生まれてからどれだけミルクを飲んで育ったのか知らないが、ミルクが大好きで、外で遊んでいようが、家の中の何処にいようが、ミルク!と一言叫ぶだけで脱兎のごとく台所に駆けつける彼女達である。

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取り留めの無い話になってきたが、デジタルメモ以前には、メモ用ノートを選ぶというのが楽しみでもあった。字が下手だから高価な有名万年筆を物色するなど、はなから無駄とあきらめていたものの、用も無いのに文具屋にふらふら入っては、並んでいるノートを端から端まで一応確認したものだ。これはドイツに来る前90年代のことで、バブル景気は文具類にも浸透していた。モレスキン(現在のイタリア製ではなく)のような革表紙を持つ高級品は万年筆と同じ理由で、選択外。それから背がコイルで閉じられているノートも左ページに書きづらい、大学ノートはあまりにもノスタルジックな感じがするばかりか、いかにも陰ながら勉学に励んでいるようで、いい加減なメモに使えない・・・さらに紙の色が白すぎるとか黄色すぎるとか、罫線の色が目立ちすぎるとか、棚の前を移動しながら自分勝手に文句を並べているのだが、あの楽しみってもしかしたら、とても日本的なことだったのではないか?と、ドイツに来てからしみじみ懐かしく思い出したものだ。こちらのノート文化は上下にくっきり分かれ、しかも上には堅物が並び、私のようにいい加減なところで選択すべきものの種類が極めて少ない。

と、いうことでドイツに来る直前の頃、気に入って何冊も買い込んだのがこのノート。

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三菱ペンシルがスコットランドのキンロック・アンダーソン社(タータンチェックの洋服を作っているらしい)と提携して生まれたノートということで、赤系、青系そしてこの白・緑系の三種があった。数年前日本へ帰国した際、問い合わせたらもうこのノートは製造していないと分かった。ドイツに暮らしていると10年前に購入した商品でも、まだ製造されていると思い込んでしまうのだが。



文具屋でノートを物色する楽しみが薄れたのなら、目的のみに焦点を合わせて、自分で作ってしまえ・・という時期があった。バック(多分当時持っていたもの)に入る大きさで、バックの中にその他の物が雑多に放り込まれていても、ぐしゃぐしゃにならないためと、手に持って書きやすいように、裏面表紙には厚手のボール紙を綴じこんだ。メモを取るより、いろいろなものを貼り付けていたノート。


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あの頃は、陶芸に関する情報をメモするだけが目的で数冊の粗末なノートはなんとなく完結性がある。その延長線上に現在の制作ノートがあり、陶芸に関すること、というおおらかな目的より、注文制作メモで、これがないと追加注文があったときパニックになる。仕事が終わると疲れ切って、書き込まないでしまうから、仕事途中に泥だらけの手で開く、汚れが一杯のノート。
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by kokouozumi | 2014-11-16 07:24 | 陶芸 | Comments(0)

彼女の工房 2013年










ストーブのことではなく、陶芸の話ですが・・・

薪ストーブ生活初心者の私は、彼女の工房にあるこの小さなストーブの威力に感歎。工房と一部の展示室、あわせて100平米ぐらいの空間には暖房設備としてこのストーブが1つだけ。12時前の訪問時には心なしひんやり感じられたその空間が、夜7時お暇する頃にはほっかり暖かな場所になっていた。

そうやって彼女は冬になると、時々ストーブに薪を一本放り込みながら仕事しているのね。しかし以前紹介したように彼女の工房
かつてFayence – Manufaktur だったから、家というより工場に近い構造のこの建物には、下の階全体が窯場、さらに下の階はリヒャルド・バムピ黒い森にひそむ 3
の記念博物館的な釉薬調合室や原料保管室が当時のまま残り(1920年-60年代)、さらに機械室(土を作る)、土置き場が続いているということになっていて、それらの地下2階部分には全く暖房が無い。彼女がこの家で仕事を続けていくには、年間仕事計画または季節別仕事場所プランのようなノウ・ハウが必要だよね。今回は残念ながら、その辺の事情を話し合う場面は無かった。





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今回の目的は、本の整理。わざわざ私が呼ばれたのは、その本というのが日本語のものだったから。独逸人陶芸家の家に、所有者が読めるとは思えない日本語の陶芸に関する書籍は雑誌類も含めて300冊ほどあった。

私の書架に日本語の陶芸書を数えたら30そこそこ。日本で持っていたもの全部をこちらに移動したわけではないにしても桁違いと、文字通り言える。数ばかりではなく、1974年に加藤唐九朗が自らサインして贈呈したらしい、原色陶芸図鑑初版がある。対抗する小山富士夫の著書も多い。興味深い本が次々目に付いたが、とにかくゆっくり読む暇はなかった。


はっきり言って私は大型図版の陶芸全集の類を、古代アメリカ、古代地中海とアフリカ陶芸の三冊以外に購入したことは無い。金額の問題以上に、それらを日々眺めて学べる目が無かった。この家には日本陶芸、日本現代陶芸、東洋陶芸の全集が、それぞれほぼ全巻積み重ねられている。

所有者は日本語を読めないと言ってしまい申し訳ないが、その本を収集した彼女の8年前に亡くなった夫、カースタンは日本の陶芸書をよく観ている。付箋が付いている箇所を開くと、かならず窯の構造に関する図があった。カースタン氏は1974年から10年間毎年のように日本や韓国へ出かけたらしいが、1977年に独逸で第一号といわれている穴窯を自ら築いた。それ以後、カースタンのあらゆる経歴や紹介文には、東洋陶芸に影響を受けたというような一文が、必ず書き加えられることになる。

師匠であり、この家をカースタン氏に譲ったバムピは釉薬研究に夢中だったが、弟子のカースタン氏は無釉の素地を穴窯の中で灰に任せることに夢中になった。以前書いたエピソード、師バムピの釉薬調合を盗んだといわれた事件が尾を引いているわけではないだろうが、カースタンのこの情熱は東洋からの影響とか、禅の思想何タラという表現では済まないだろうと、300冊の本を前にして、私はこの家に流れる、陶芸に対する鬼のような情熱を目の当たりにする思いだった。









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オイラーの本を1冊見つけて、ちょっとだけ休憩






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昼食に並んだ器は彼女がこの家に嫁ぐ時、工房の師匠・・つまり彼女の旦那様から課題を与えられた自家用器シリーズ。5種類をそれぞれ60個作って引き出物にもなった。





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これは旦那様が気に入っていたフランス人陶芸家の器






この家の広い空間に漂う情熱の亡霊、その中で彼女は仕事している。さらに仕事で使う設備は旧体制のものだから、彼女はそのための労働も受け入れなければならない。しかしそんなことはどうでもいいほど、彼女は陶芸の仕事が好きだ。この家の各所に、この家の雰囲気の中で生まれた彼女の作品が並び始めた。

彼女は薄い磁器土の素地が好き。使っている釉薬はぼってりと厚がけにして効果的なものだから、土と釉薬の組み合わせに無理があるのだろうか。狙っている課題、それがどのように抑えられていくのか、次の訪問の楽しみだ。












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by kokouozumi | 2013-12-26 06:49 | 人々 | Comments(0)

はしっています










第三アドベントを過ぎても、まだ走り回っています。

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窯出しの日に配達へ走ることは、よくあって、届け先に到着して器が詰め込まれた段ボール箱を持ったら、ほかほか暖かい・・なんてこともしばしば。

今回は2箇所の窯だし、底をあたり(ヤスリをかけること) 荷造りして出発するころにはもう夕方でした。

12月にしては陽光が明るく、いつまでも暮れない日でした。







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搬入口に到着








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人々は階段を上って入り口に向かいますが
搬入者は台車が入るエレベーターで上に向かいます。

1件の搬入が終了すると、ほっとします。
窯場の中も、ものが無くなってすっきりです。









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今回の搬入先はマルクト広場に面しているので、今の時期はクリスマスマーケットで、にぎやかです。
独逸の人々は、この時期になると、やおら北方民族化して、マルクトを取り囲む飲食店では、外の席に座って食事する人のほうが多いくらい。








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次は大晦日の特別メニューに使う器が待たれているので
まだ  はしります
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by kokouozumi | 2013-12-19 07:35 | 陶芸 | Comments(0)

新作は・・







陶芸家のIka(イカ)さんのアトリエはフライブルク市旧市街地の、1460年に建築された集合住宅1階にある。通りに面している2つの窓からすっかり見通せるアトリエの、しかも窓際に轆轤場がある。彼女はそこで40年間、通行人の目の中で仕事をしてきた。正確には前半の20年間、アトリエは向かい側の建物にあった。そこも現在のアトリエと同じような2つの窓が通りに面していて、仕事ぶりを覗くことができた。

その辺一帯は戦火を逃れた場所なのか古い家が多く残り、1階部分はそのように大きな窓を持つ商家風の佇まいとして連なり、現在でもフライブルク観光のスポットになっている。






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イカさんの販売リストには購買者の住所として、ベルリンやハンブルクなど遠くの地名が載っていると、いつか聞いたことがある。昔からシュバルツバルト山岳地帯へ休養・保養でやってくる人々にとって、フライブルク市内の観光は格好のプログラムとなり、何か気に入った店や場所があれば滞在中に何度も山から下りてきて足を向けるようなことが起こっただろう。これは『シュバルツバルト』という郷土の歴史展・解説の中でも言及されたことで、絵葉書や地名入りマグカップといった小さな売り上げ以上に、町の工芸は観光客による大きな買い物によって支えられてきた、ということだ。

大きな窓から覗き見た内部で営まれている光景は、毎日その前を通りすがる誰かの人生をも動かす作用がある。私を最初にIkaさんのアトリエへ連れて行ったのは、Staufen陶芸美術館の管理人さんだった。その人はIkaさんのアトリエに近いギムナジウムに通っていたので、ティーンエージャーの数年間、毎日彼女の仕事を覗きながら通学していた。それは毎日の楽しみであり、次第に陶芸に魅せられたというほどの大きなものへと膨れ上がっていった。その管理人さんが美術館の休館日にIkaさんのアトリエへ案内してくれた。しかしその時間はIkaさんの昼休み時間だった。後から気がついたのだが、何年も毎日その場所を通りすがっていた人間が、昼休み時間を把握していなかったはずは無いだろう。つまり彼は、自分とIkaさんとの関係の中ではなく、私とIkaさんの出会いを作るべきだと、考えていたのではなかろうか。「ごめん、今は開いていないので、後でまた来てみたら」と、確かその時言ったのだった。

管理人さんはしかし、自ら陶芸家になるつもりは毛頭無かった。管理人として陶芸美術館に住むというすばらしい環境を返上して、一度挫折した大学の美術史の勉強に戻り、やっぱり陶芸をテーマに博士論文を仕上げた。その内容は美術館という場所も、美術史家という立場の人々も、ある時なぜか一気に陶芸に目を向け、持ち上げたが、その後は?という陶芸史(最後までまだ読んでいない)。



先日、久しぶりにIkaさんと会った。その前に彼女と会ったのは3年前の私がフライブルクを離れる頃だったかな。「20年も住んでいれば友達が一杯出来たでしょう。何でその場所を離れるの?」と、彼女はその時言った。

1926年生まれ、今年87歳になるIkaさんの陶歴は60年。40年間、フライブルクの工房を維持してきた彼女の活動は、良い時代に制作してきましたね、と他人が簡単に言ってしまいたくなるのと違う、彼女本人にしか知りえない人生だったのだろう。
今思うと、3年前彼女が私に言った送別の言葉も、その人生からふと出てきたものに違いない。その時の彼女は元気に歩いていたが、今は何かにすがらないと歩けないし、アトリエに続く住居にも住めなくなって、ホームから通っている。最近は鳥を眺めているのが楽しいそうで、新作は鳥を作っている。





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by kokouozumi | 2013-09-22 05:23 | 陶芸 | Comments(0)

器を作り続ける日々








Stuttgartに移って2年が過ぎるのだが、毎日毎日いろいろな器を作り続けてきた。陶芸家の一面として文句ない暮らしだが、一体どんなものを生み出してきたのか振り返る暇も無い多様な注文に埋没した日々とも言える。

最近ある注文主のレストランで、われら工房出身の器たちが並んでいるのを見つけた!
注文主のレストランオーナーはベトナムからのボートピープル2世。11年間チャイニーズレストランで働きながら、自分の店の資金を貯めた。彼の店はベトナム料理ということだが、シェフは日本で鮨を学んだベトナム人と、最近の流行のフランス料理に日本食材を取り入れた路線を実践する独逸人の二本立て。

オーナーは緑が嫌い・・・ということで、赤と黒が主旋律になった。間違えればキッチになるそのテーマを大小の器にバランスして配置する仕事はすごく苦労したが、すごく面白かった。

ここに集まる器は、黒・赤メインを固める脇役たち。黒・赤の周りに結局、白と赤と黒が配置されるのだが、白の釉薬に工夫した。

器の世界は、注文主と作り手のやり取りで、ある景色ができてくる。今この脇役たちにほっとしている作り手がいる。
 



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by kokouozumi | 2013-09-10 06:00 | 陶芸 | Comments(14)

その場所の、季節の

ドイツ暮らしをするようになってから、初めて桜の季節に日本へ帰国した。空港から電車に乗り換えると、窓の外を流れる風景、土の色、緑の色、日没の光、さらに線路沿いからその奥へとびっしり立ち並ぶ住宅地へと変化しても、何もかもが、春という季節がもたらすものとして以上に、やっぱり日本の色彩よね、と納得してしまう柔らかさを含んで感じられたのだが、そのように思う根拠は?・・・別にない。


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同じように、ドイツの空港に降り立った瞬間から、ドイツの空気がある。森閑とした感じ。エアポートに人はいるのに、人々がトランクを持って行き来しているのに、電車が空いていて、空席の中にポツリと座っているわけではないのに、いつも静かな場所に戻ってきたと感じてしまう。私と一緒にドイツ・日本を往復した独逸人が、日本の潤い、つまり湿気を含んだ空気と、ドイツの乾燥した空気の差が、音を伝える媒介としても、絶対的な差異がある、とそのことを表現した。

今、工房の窓は満開の桜の花で溢れている。
白い花。
その桜の花を目にしながら、お花見気分で仕事できると、ついうきうき。
このうきうき気分・・・日本の桜を目にしばかりなので、桜にまつわる思い出が折りたたまれて、昔の感覚と現在の風景が接点を作ったのではないか・・・。ドイツの白い桜の花を目にしながら、私の心は桜だ、花見だ、弁当だ、モードになっているように。日本人というナショナリティーをここで言い出すつもりもはないが、桜の花にうきうきすることが、嬉しい。



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それにしても、感覚を制作に写し取るのは難しい。
昔々、柿右衛門という陶工が柿の朱色を写し取りたくて、赤絵という手法を生み出した・・とどこかで読んだことがある。そのエピソードと柿右衛門の名が出来すぎではありませんかと思いつつ、どうしても写し取りたい色彩があった、という部分に、後世の人間が下手な疑いを差し挟むべきではないだろう。

日本で良質の磁器土が発見され、その土を高熱焼成できるようになってから登場したのが柿右衛門。そこまでの技術、美しく白い磁器肌や赤絵は既に中国にあり、韓国の陶工を経由して、日本でもその技術を踏襲することができたといえるが、赤い色彩の度合いを、柿右衛門という人物が、秋に柿の実を見上げながら、かどうかはともかく決定した。それがすごいと思う。そのために、すべての要因を総合的にアレンジしていった。
生地の白に、青みを帯びた透明感から白そのものに見える濁りを与え、その中に描かれる赤の効果をより明確にするため、図柄に白の余白を多く残した。

学生時代、この赤絵の技法を学んだ。 使っていた赤顔料や他の上絵顔料はすべて学校で調合していたもので、赤には二つの調合があった。その1つが明赤と記されている。いかにも中国明代の景徳鎮で施されていた赤に由来するようだが、もう1つが暗赤と記されているので、単に明るいまたは暗い赤を意味するのだろう。
その明赤はむしろ朱にちかく、宋代の赤を思い出させる。宋代の赤絵は白化粧を施した素地の上に赤い素朴な絵があるもので、中国窯跡の発掘品から、宋代のものと判断されるようになったのは20世紀になってからのことらしい。しかし九州のことだから・・すでに柿右衛門はもしかしたら、この宋代の赤を目にしていたのではないか?柿の実のようなこの赤が良いと判断したのでは・・・なかろうか・・・などと発想してみるのは楽しい。

赤の顔料と一言にいっても、定まった色彩度に持っていくまでは、一筋縄ではいかない。
800度まで焼かれても赤く発色する基本材料は、鉄という金属。その鉄の純度はとかなんたらで、何処産の鉄かということになる。さらに添加物の割合に寄っても発色は変わってくるだろう。柿の朱色ってそう簡単なものではない。
さらに発色ということは、光の反射作用によるものだから、顔料の粒子が問題になる。より細かいほうが鮮やかに発色するので、必死で鉄+添加物をすりつぶすことになる。大学時代からの調合赤顔料で、私は最低6時間擦ることにしている。電動の擦り器もあるから、その機械のように出来ればもっと短時間でよい発色にこぎつけるのかもしれない。しかし人間のやることなので、赤で描きたい時はそのぐらいの時間を覚悟している。もう一日がかりで、くたくたになった頃に、絵付けという運びだから、柿右衛門さんの仕事場でも、擦り職人のころあいを見計らって、絵付け職人が登場したのだろうと想像する。さらに絵付け職人は顔料の濃度によってどんな発色かを熟知しているのだろう。

さらに焼成という工程がある。焼きすぎると赤顔料の発色が飛ぶ。私は電気窯で温度設定できる焼成しか経験していないが、窯の中に水蒸気が残ると色がちぢれるなど、知っておかなければならないことがある。昔々は薪で焼くしかなかったわけだから、ここでも熟練の職人が登場か。

ちなみに私は、その伝統的な赤を使って苺を描いていたなあ。(柿から無理やり話を春に戻したわけではありませんが)

その場所の、その季節の色彩をうっとり眺めながら、自分の感覚を写し取りたいと願う時、その感覚の根拠なるものが、既に記憶として存在しているのだろうと、結論してみよう。
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by kokouozumi | 2013-04-29 05:51 | 陶芸 | Comments(0)

陶芸家の記憶






春を見つけるには、良い地図や優秀なナビを備えた車で走らなくとも、目を部屋中に走らせてみると  部屋の隅に蜘蛛の巣が気になりだしたら、それは春の光のなせるわざ。なんだかあわてて掃除しようかな、と思ったらそれが春との遭遇。

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この作品はスウェーデンの陶芸家、アストリット・アンダーバークさん作。日本で制作しているとき、このイメージは何処から出てくるの?と率直に質問したら、スウェーデン人の心には神話の世界があるのよ・・と彼女も極当然のように答えた。私はこの作品を譲り受けて、ドイツに持ち帰った。

アストリットさんと出会ったのは、ボーンホルムというバルト海の真ん中、スウェーデンとドイツの間に浮かぶデンマーク領の島。その島へ旅したのはドイツに来たばかりで、語学学校の寮に住んでいた頃。東西統一後、マイセン磁器は東ドイツの産業として、唯一生き残っているのはなぜか?そんな疑問を耳にしたが、当時の私には東ドイツの経済や産業を追跡するような感覚も、語学力もなく、マイセン磁器にとって肝心の磁器土はどこにあるの?と素朴に考えてみた。錬金術師がお城に幽閉されて、当時金と同じくらい価値のあったポーセラン(磁器土)を生み出すよう命令されたという、マイセン磁器発祥の物語は有名な話だが、『宇宙の秘薬』もしくは『賢者の石』を作り出さなければ別の工房、つまり拷問室行きだった、その錬金術師の話まで遡ることはよそう。マイセン磁器の主要成分カオリンはゼルブ(ローゼンタール発祥の地)から運ばれたらしいというので、その町に行ったこともある。その町でボーンホルム島という名を耳にした。そこのカオリンがマイセンやデンマークのロイヤル・コペンハーゲンで使われた・・・。

それだけの話でボーンホルム島へ行ってみたくなる理由は十分だった。しかし、その島に渡るべくドイツ北東の町サスニッツ(Sassnitz)までたどり着いたら、もう磁器土とかカオリンとか、どうでもよくなった。

語学学校のあるフライブルクはドイツ南西のはずれで、そこからドイツ北東のはずれサスニッツまで一体電車で何時間の旅だったのか?今となっては思い出せないが悠長な旅の末にたどり着き、その日はそこで一泊。翌日ボーンホルム行きのフェリーは、朝の便も昼の便もなくて夜中の22時出発とわかった!さらに、国際線フェリーの発着所は宇宙ステーションとは望まないけれど、エアポート並みのインターナショナルな対応、つまり24時間出入りできることが当然と思っていた。砂浜を歩いてたどり着いたサスニッツのそこは、発着所と思える家屋のドアが開かない。浜辺を通りかかった漁業従事者風の人から、船の出発2時間前まではその中に入れないと教えられた。ということは夜の8時まで・・・それまでどうすればいいのよ?貧乏旅行とバックパッカーを信条とする私は、重いリュックを呪いながら、陽のあるうちも、夕暮れも、日暮れても、ひたすら浜辺をうろうろしていた。しかし次の場所への移動に必要なこの時間待ち状態はボーンホルム島の中で、さらに何度も経験することになった。

もうポーセランなんてどうでもいい気分で、次の町まで一体何時間かかるのか、ということばかり心配しながらうろついていた時、島に住むたった一人の日本人女性に出会い、その方の案内でアストリッドさんの工房に。天井の高い工房の上半分は書架が取り囲んでいた。中2階のそこは作家であるご主人の仕事場と聞いたが、その姿は見かけなかった。ご夫婦はスウェーデンで暮らし、二人の子供達が独立したとき、ご主人の希望でボーンホルム島に移り住んだ。ご主人はシェークスピアに没頭し、アストリッドさんは土の動物を作りはじめた、と静かに説明する女性だった。

翌年、岩手県・藤沢町の野焼き祭りゲストをヨーロッパから、という3度目の要請を受け、アストリッドさんに打診した。70歳に近い年齢ゆえという、丁寧な断りの手紙を受け取った。

野焼きという方法を突然試すことは、プロの陶芸家にとって意外に難しいものである。自分の窯や釉薬を使わず、土の形だけを、低温の炎に任せてみると、高温焼成や独自の釉薬とともに切磋琢磨されてきた完成度の高いプロの形は、インパクトを失う場合もある。アストリッドさんの動物は、荒々しい土だけになってむしろ魅力を増すのではと、予想した打診だったので、残念だった。

1週間後、ボーンホルム島に住む日本人女性から連絡が入った。アストリッドさんがご主人と共にやってきて、やはり日本へ行くべきと考え直したとのこと。

コペンハーゲン空港で待ち合わせて、成田に飛んだ。
藤沢町で、一週間以内という短い制作が始まると、土が良くわからないといいながら、彼女は土から離れなかった。昼休み、気がついたら彼女は玉蜀黍を先からかじっている。アストリッドさん玉蜀黍は粒だけ食べたほうがいいよ。彼女の歯を心配するより、放心するほどの集中力に恐れ入った。そして3日目ぐらいに土が判ってきたと嬉しそうだった。最終日、無事焼きあがったアストリッドさんの犬を見て、池田万寿夫が『僕も犬を飼っています』と話しかけたが、英語のドッグが理解できなかった。ドイツ語でフントといってみたがダメだった。みんなでワンワンと啼いてみた。彼女だけがきょとんとしていた。彼女は土の犬に集中しすぎて、疲れ果てていた。

私が譲り受けた作品は、アストリッドさんが藤沢の土を理解した楽しさで、さっと作ってしまったものだ。スウェーデン人の心にある神話の世界をこんなに自由自在に土へ移し変えてしまった。

日本から持ち帰ったこの作品を、私はなぜか、台所や工房の片隅という目立たない場所へ置いてしまう。毎年光が変わる春、ある陶芸家に記憶されたものが、ここにある・・・と思い出している。









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アストリッドさんの犬は、今も藤沢の陶芸家の家で、番犬のように・・・
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by kokouozumi | 2013-03-18 06:24 | 陶芸 | Comments(2)

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ひさびさに削りカンナの刃出しをしました。





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鉄カンナは学生時代に用意したものが、いまだに活躍しています。。
陶芸専攻が始まった春、初心者がまずやるべき課題は、自分の道具をそろえることでした。品目のリストがあるわけでもなく、その科の新入生としては、ひたすら耳をそばだてて、機会を逃さないようにする・・・あの頃の印象を正確に伝えるとしたら、そのようなことでした。

「おい、うお、鉄帯注文した?」
「鉄帯?なにそれ、いらない。」
「おいおい、削りカンナの材料だよ。高台を削るの!」
「そおだったか、じゃあ30本ぐらい」
「おいおい、削りカンナは10種類ぐらいあれば・・よくない、とりあえず」
「そお、ではとりあえず10本」

そのように、私は物知り同級生の忠告に従いながら、うろうろと、上級生の持ち物などを盗み見るようになるのです。

鉄帯がきました。これをどうするの?親切な先生が、こんな形の刃が使いやすいよと、図面を書いてくださる。両サイドを直角に折り曲げて、さまざまな刃の形を作るらしい。だけどどうやって・・・そこへタイミングよく漆科所属の同級生が登場。2年間の基礎課程を終えて、各専攻科に分かれたばかりの私たちは、その道の先輩たちの前でかしこまりつつ、この状況を他の科に散らばった同級生たちはどうしているものかと、様子伺いに各科の教室、いえ作業場を覗いて歩いたものでした。漆科でも今道具つくりをしていて、鉄帯を温めながら万力を使えば直角に曲げるのなんか簡単。刃出ししやすいように根元を三角にちょん切ってあげるよ、と役に立つ同級生は図面と鉄帯を持ち去ったのでした。しかし後でよく考えたら、彼は私と一緒に途方にくれていたもう一人の女子学生の鉄帯を引き受けたかったわけで、ついでに私のも・・・

正確に直角に曲がった鉄帯が届きました。正確にと言う点ですが、鉄帯の両端は上下反対方向に曲げるのですが、それから刃出しする側の直角の角を三角に切り落とす際、注意しないと右利き用にならないのです。その辺を打ち合わせたわけでもないのに、ちゃんと出来上がってくるのですから、職人の卵たちも隅に置けないのです。私ではなく漆科の彼がですが。しかし漆科の彼はそれだけで引き下がりません。
鉄帯の胴部、作業中手にする部分は、手に優しい布紐を巻くべきだ。しかもその紐は漆で固定すべきだ。あの、そこは陶芸という野蛮な職場ゆえ、漆などもったいない、ボンドで固定ということでどうでしょうか?恐る恐る進言して、妥協してもらいました。

さて、次の問題、刃出しはどうする?そこへまたまたタイミングよく鍛金科の彼女と出くわし、うちの科のグラインダー使えばと、彼女も既に自分の仕事場を熟知しているようです。私はただひたすらに、ではお邪魔します。これも今になって思うのですが、毎年春には、そのように新入生たちが入り乱れて、あっちの万力、こっちのグラインダーを使いしていたのでしょうが、各科の教授たちはなにも言いませんでした。もっとも、その教授なる人物も、腰に手ぬぐいぶら下げ、頭に鉢巻姿でしたから、こちらも殆どその存在に気がつかなかったのですが。

そうやって出来た10本の削りカンナが今も私の手元にあります。卒業後は長い間、金属ヤスリで刃出しをしていたものですが、今はボーラーを使います。

もう一種、磁器カンナという一組もあります。こちらは九州発祥の超硬タンガロイ製という既製品です。何しろ学校で磁器土を扱う場合はかなり神経質で、カンナのように道具を別にするだけでなく、磁器専用の土練り台まで用意します。卒業してから、土物・磁器物の仕事の切り替えは、周囲を丁寧に掃除することでクリア。学生時代の神経質な指導がそうさせたといえます。

ドイツに来て事情が変わりました。こちらで磁器土といえば、たいがいフランス、リモージュ産です。それを磁器カンナで削ったら、ぼろぼろ刃こぼれしました。

そういえば、私の知る限りの独逸人陶芸家で磁器土を扱う人は少ないのです。私がフライブルクで一番最初に知り合った陶芸家の女性は、作陶歴30年でしたが、それから数年後の会話で、その年はじめて磁器土の制作を始めたと聞きました。それは一過性の試みだったようです。

一体ヨーロッパの陶芸道具で、いわゆる磁器専用カンナというものが存在するのだろうか?陶芸辞典やインターネット上を探しましたが、どうもそのような使い分けの情報が見つかりません。手元の陶芸関係本からも『削り』の項目を拾い読みしていたら、磁器カンナのことではないのですが、イギリス人陶芸家の技術書に、面白い記載がありました。
「ルーシー・リーは、ハンス・コパーから鉄帯で作ったカンナをプレゼントされるまで、釘を削りの道具に使っていた・・・」

1938年、ルーシー・リーは生地のウィーンからイギリスへ。1939年、ハンス・コパーは生地ドイツ、ケムニッツからロンドンへ、さらにカナダへ渡り、1942年再びイギリスに戻る。イギリスで出会ったユダヤ人の二人は1946年から10年ほど、共同の仕事場で制作する。

特徴あるルーシー・リー作品は、ハンス・コパー製の鉄カンナから生まれたのか。いや二人の10年間は、殆ど共同制作で、ハンス・コパーが成形担当だったというから、一見、高台部分が深く見えるあの形は彼の考案だったのか。鉄製カンナのプレゼントは、いよいよ彼がリーの仕事場を出るときのことだったかもしれない。

ひさびさに削りカンナの刃だしをしたら、さまざまな話がよみがえる。






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ルーシー・リー、ハンス・コパー削りカンナの話の脇に載っていた写真。一番左にあるのがハンス・コパーのカンナということ。尖っているものだろうか・・




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by kokouozumi | 2013-02-15 08:08 | 陶芸 | Comments(4)

仕事






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引っ越してからもうすぐ1年になります
自分の作品を殆ど作らずにいましたが
1つだけ、白い器が
カメラを向けたら、パンクが割り込んできました
「僕の1年も撮ってよ」と言いたげに
それからのポーズがこのように、
演技なのか、恥ずかしいのか、腹へったといいたいのか、風邪をひいたのか、
実際今日は鼻水を流していた
風邪薬のかけらを飲ませたら、吐いてしまいました

注文の仕事は、この一年の間も途切れずよくやりました。もっとも、引越しの合間にでしたから、やれる時にやれる量をこなしたということですが。
昨日の仕事も、そのように型皿成型でした。石膏型へ手のひらを使って土を貼り付けていくと、手のひらの油脂分が土にとられていきます。途中でパンクが散歩から帰ってきたとか、パンクにご飯とか、何度か手を洗ううちに、手のひらがざらざらになっていくのがわかります。見た目は轆轤成型より気楽そうですが、土の厚みが均等であるかどうか、手のひらだけで感じる仕事ですから、案外集中力を要します。

終わるとくたくた。でも、仕事で疲れるっていいものですね。







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by kokouozumi | 2012-04-06 06:53 | 陶芸 | Comments(40)

オイラー 2011 その4 帰還








へーア・グレンツハウゼンのオイラー窯焼成は24日夕方7時ごろ終了。
多くの見物客は去っていき、その人々にビール・ワインからスープ・料理パンをサービスしていた学校事務局、学生も帰り、人々の応対に疲れ知らずの会話を続けていた所長のブランド氏の車も去り、最後まで残っていたのは焼成責任者のM氏。彼は焼成を終了して焚口や窯側面の塩穴を目止めしてからも、窯内部で蒸発している塩のガスが抜けきるまで、窯天上の煙突穴を少しづつ閉める作業を続けていました。塩のガスが残ったまま、窯を閉じてしまうと塩釉ににごりが生じるのだそうです。

そして誰もいなくなったのは9時過ぎでしょうか・・・いえ、オイラー窯の間、毎晩やってきていた近所の三毛猫が今日も最後の巡回を引き受けています。
濱田氏は夜半に窯屋へ侵入しようと試みたのですが、しっかり者のM氏がどの扉にもしっかり鍵をかけて帰ったため、断念。

25日、IKKGのゲストルームで濱田氏と私は、日曜朝の子供番組、チンパンジードラマを見ながら朝食を食べ、バーナード・リーチの独特な性格について話をしていました。
異邦人であるゆえに大変フレンドリーに誰とでも付き合ったリーチが、濱田庄司と柳宋悦を、富本憲吉と宋悦を結び付けたのだそうです。日本人同士なら接点の起こり得なかった人脈がそのように成立したのだそうです。









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それから私たちはコブレンツを経由し、ライン河沿いの電車の旅を楽しみました。
へーア・グレンツハウゼンから観光で訪れたラインとモーゼル河の合流地点を、今度は車窓から眺めました。

へーア・グレンツハウゼンを中心とする塩釉焼成の窯業地では、土や木の入手にライン河の交通を利用する必要はありませんでしたが、昔の製品出荷には重要な経路だったはずです。船に荷物を積み込めばライン河の要所に流通のシステムが整っていたはずです。いえそれ以前にこのラインをローマ人が辿ってきたことから、この土地の窯業の歴史が始まります。もっともっと遡れば、ライン河とその流域に豊かな土の産出を可能にした土地の成り立ちがあります。オイラーはライン河方向から西風が吹く季節の窯は、どう焚くべきか知っていたでしょう。その土地の成り立ちと、そこに住む人間の頑固さは切っても切り離せないものとして、その土地に影のように付随していることを、面白く思い出しながら、へーア・グレンツハウゼンの町から遠ざかって、それぞれの帰路につきました。



さて、塩釉焼成に関しては、徐々にまとめてみます。
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by kokouozumi | 2011-09-26 05:35 | オイラー | Comments(7)


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