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はしっています










第三アドベントを過ぎても、まだ走り回っています。

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窯出しの日に配達へ走ることは、よくあって、届け先に到着して器が詰め込まれた段ボール箱を持ったら、ほかほか暖かい・・なんてこともしばしば。

今回は2箇所の窯だし、底をあたり(ヤスリをかけること) 荷造りして出発するころにはもう夕方でした。

12月にしては陽光が明るく、いつまでも暮れない日でした。







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搬入口に到着








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人々は階段を上って入り口に向かいますが
搬入者は台車が入るエレベーターで上に向かいます。

1件の搬入が終了すると、ほっとします。
窯場の中も、ものが無くなってすっきりです。









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今回の搬入先はマルクト広場に面しているので、今の時期はクリスマスマーケットで、にぎやかです。
独逸の人々は、この時期になると、やおら北方民族化して、マルクトを取り囲む飲食店では、外の席に座って食事する人のほうが多いくらい。








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次は大晦日の特別メニューに使う器が待たれているので
まだ  はしります
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by kokouozumi | 2013-12-19 07:35 | 陶芸 | Comments(0)

器を作り続ける日々








Stuttgartに移って2年が過ぎるのだが、毎日毎日いろいろな器を作り続けてきた。陶芸家の一面として文句ない暮らしだが、一体どんなものを生み出してきたのか振り返る暇も無い多様な注文に埋没した日々とも言える。

最近ある注文主のレストランで、われら工房出身の器たちが並んでいるのを見つけた!
注文主のレストランオーナーはベトナムからのボートピープル2世。11年間チャイニーズレストランで働きながら、自分の店の資金を貯めた。彼の店はベトナム料理ということだが、シェフは日本で鮨を学んだベトナム人と、最近の流行のフランス料理に日本食材を取り入れた路線を実践する独逸人の二本立て。

オーナーは緑が嫌い・・・ということで、赤と黒が主旋律になった。間違えればキッチになるそのテーマを大小の器にバランスして配置する仕事はすごく苦労したが、すごく面白かった。

ここに集まる器は、黒・赤メインを固める脇役たち。黒・赤の周りに結局、白と赤と黒が配置されるのだが、白の釉薬に工夫した。

器の世界は、注文主と作り手のやり取りで、ある景色ができてくる。今この脇役たちにほっとしている作り手がいる。
 



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by kokouozumi | 2013-09-10 06:00 | 陶芸 | Comments(14)

夏の夜の夢




『夏の夜の夢』といえば、シェークスピアだが、そのシェークスピアの『十二夜』を歌舞伎座で観劇したのはある夏の夜のこと。歌舞伎に3次元を持ち込んだと、話題になった蜷川幸雄演出は鏡張りの舞台背景を使ったもので、幕が開いた一瞬、背景全面に舞台を見つめる客席全体が映し出されて、どよめいた。何百本もの帯状ハーフミラーを使う演出は蜷川の得意とするものらしいが、その夜は観劇中に地震があり、背景がきらきら揺れ動くというハプニングも加わった。



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歌舞伎を見に行くのは日ごろの憂さ晴らし、人々は楽しい夢のひと時を求めてそこにいるのだと思う。その昔々は一日中の興行だったというから、ひと時の夢どころか、観客は根性入れて座り続けていたのか、と想像するとおかしくなる。しかし私が歌舞伎に足を運んだきっかけは、ある人の夢が終わる時だった。とんぼを切りたくて歌舞伎界に入ったというその男性はまだ20代だったが、義経千本桜でとんぼを切る鼠の役を最後に引退することになった。家筋が問われる梨園の世界ゆえ、他所から入った人間はよっぽどのことが無い限り、潮時を考えるしかない。その男性は自分の花道として何人かの友人たちに、千秋楽のチケットを配り、公演後の食事会を用意した。若者の付き合いだったので、あきらめとか挫折感はなく、みんなで新しい門出を祝うように集い、日頃テレビの歌舞伎中継を退屈そうだと思っていた私などは、彼の最後の日に初めて実際の舞台を目にして、すっかり魅せられてしまった。

トンボを切るようなアクロバット芸もある歌舞伎は、そのようにけれんみ(当て字では外連味)が大衆をひきつけてきただろう。けれんは宙吊りや早変わりなどの奇抜な演出のことで、舞台における邪道な表現という意味があるようだが、私のようにそれが見たくて行く人も多いはず。学生時代に始めて足を運んだ時から、なぜか観劇の機会はいつも夏。その時期かかる納涼歌舞伎は怪談物が多く、まったくのところ、けれんみたっぷりの演出で、玉三郎が怖くなったり、美しくなったり、猿之助(三代目)が狐になって空を飛びはじめたり、舞台がはねて外に出ると、周りの都会風景がむしろ奇怪に見える中、家路につくことになる。夏の出し物は素人受けするものが用意されているようで、演劇にもシェークスピアにも心得が無くても、NINAGAWA十二夜が歌舞伎座にかかれば、びっくりしながら夢を見るしかないというもの。

けれんみの一役として、歌舞伎からはずせないものにツケ(附け)がある。歌舞伎役者独特の表現、飛び六方や大見得などの動作に附ける音だから、ツケという。拍子木とは別もので、舞台の袖に置かれた木板の上を2本の木切れを持った附け打ち人が叩き、音を出すらしい。役者の動作だけではなく、舞台上では役者や裏方へ場面変化を知らせる合図ともなるらしい。居眠りをしている観客に見所の始まりを知らせるかもしれないし。

今の流行り役者、成田屋海老蔵が在命中の父、 團十郎とパリ・オペラ座公演の際、出し物の勧進帳では父と子が交代で弁慶役を演じた。この芝居は弁慶が六方(ろっぽう)を踏んで花道を去るのが最後の見せ場だが、もとより花道なぞないオペラザ舞台には、客席へ向かって降りる急斜面の花道が仮設され、息子海老蔵の弁慶はそこを駆け降りた。その時の附け打ち人は、どれだけ冷や汗ものだったろう、と想像する。舞台の袖に去ることを選択した團十郎には附けが追いかけ、花道を降りる海老蔵のときは・・・
その違いを見たい方は



▶ 勧進帳 -團十郎弁慶 



▶ 「勧進帳」海老蔵弁慶 





人々が憂さを晴らし、一夜の夢を見る。そのことを作り出す役者とその周りで支える人々の、熟練の職人技がまた夢見心地にさせる。




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附けの音とともに、なにやら飛び出してきそうな納屋





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by kokouozumi | 2013-08-10 07:06 | オイラー | Comments(0)

その場所の、季節の

ドイツ暮らしをするようになってから、初めて桜の季節に日本へ帰国した。空港から電車に乗り換えると、窓の外を流れる風景、土の色、緑の色、日没の光、さらに線路沿いからその奥へとびっしり立ち並ぶ住宅地へと変化しても、何もかもが、春という季節がもたらすものとして以上に、やっぱり日本の色彩よね、と納得してしまう柔らかさを含んで感じられたのだが、そのように思う根拠は?・・・別にない。


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同じように、ドイツの空港に降り立った瞬間から、ドイツの空気がある。森閑とした感じ。エアポートに人はいるのに、人々がトランクを持って行き来しているのに、電車が空いていて、空席の中にポツリと座っているわけではないのに、いつも静かな場所に戻ってきたと感じてしまう。私と一緒にドイツ・日本を往復した独逸人が、日本の潤い、つまり湿気を含んだ空気と、ドイツの乾燥した空気の差が、音を伝える媒介としても、絶対的な差異がある、とそのことを表現した。

今、工房の窓は満開の桜の花で溢れている。
白い花。
その桜の花を目にしながら、お花見気分で仕事できると、ついうきうき。
このうきうき気分・・・日本の桜を目にしばかりなので、桜にまつわる思い出が折りたたまれて、昔の感覚と現在の風景が接点を作ったのではないか・・・。ドイツの白い桜の花を目にしながら、私の心は桜だ、花見だ、弁当だ、モードになっているように。日本人というナショナリティーをここで言い出すつもりもはないが、桜の花にうきうきすることが、嬉しい。



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それにしても、感覚を制作に写し取るのは難しい。
昔々、柿右衛門という陶工が柿の朱色を写し取りたくて、赤絵という手法を生み出した・・とどこかで読んだことがある。そのエピソードと柿右衛門の名が出来すぎではありませんかと思いつつ、どうしても写し取りたい色彩があった、という部分に、後世の人間が下手な疑いを差し挟むべきではないだろう。

日本で良質の磁器土が発見され、その土を高熱焼成できるようになってから登場したのが柿右衛門。そこまでの技術、美しく白い磁器肌や赤絵は既に中国にあり、韓国の陶工を経由して、日本でもその技術を踏襲することができたといえるが、赤い色彩の度合いを、柿右衛門という人物が、秋に柿の実を見上げながら、かどうかはともかく決定した。それがすごいと思う。そのために、すべての要因を総合的にアレンジしていった。
生地の白に、青みを帯びた透明感から白そのものに見える濁りを与え、その中に描かれる赤の効果をより明確にするため、図柄に白の余白を多く残した。

学生時代、この赤絵の技法を学んだ。 使っていた赤顔料や他の上絵顔料はすべて学校で調合していたもので、赤には二つの調合があった。その1つが明赤と記されている。いかにも中国明代の景徳鎮で施されていた赤に由来するようだが、もう1つが暗赤と記されているので、単に明るいまたは暗い赤を意味するのだろう。
その明赤はむしろ朱にちかく、宋代の赤を思い出させる。宋代の赤絵は白化粧を施した素地の上に赤い素朴な絵があるもので、中国窯跡の発掘品から、宋代のものと判断されるようになったのは20世紀になってからのことらしい。しかし九州のことだから・・すでに柿右衛門はもしかしたら、この宋代の赤を目にしていたのではないか?柿の実のようなこの赤が良いと判断したのでは・・・なかろうか・・・などと発想してみるのは楽しい。

赤の顔料と一言にいっても、定まった色彩度に持っていくまでは、一筋縄ではいかない。
800度まで焼かれても赤く発色する基本材料は、鉄という金属。その鉄の純度はとかなんたらで、何処産の鉄かということになる。さらに添加物の割合に寄っても発色は変わってくるだろう。柿の朱色ってそう簡単なものではない。
さらに発色ということは、光の反射作用によるものだから、顔料の粒子が問題になる。より細かいほうが鮮やかに発色するので、必死で鉄+添加物をすりつぶすことになる。大学時代からの調合赤顔料で、私は最低6時間擦ることにしている。電動の擦り器もあるから、その機械のように出来ればもっと短時間でよい発色にこぎつけるのかもしれない。しかし人間のやることなので、赤で描きたい時はそのぐらいの時間を覚悟している。もう一日がかりで、くたくたになった頃に、絵付けという運びだから、柿右衛門さんの仕事場でも、擦り職人のころあいを見計らって、絵付け職人が登場したのだろうと想像する。さらに絵付け職人は顔料の濃度によってどんな発色かを熟知しているのだろう。

さらに焼成という工程がある。焼きすぎると赤顔料の発色が飛ぶ。私は電気窯で温度設定できる焼成しか経験していないが、窯の中に水蒸気が残ると色がちぢれるなど、知っておかなければならないことがある。昔々は薪で焼くしかなかったわけだから、ここでも熟練の職人が登場か。

ちなみに私は、その伝統的な赤を使って苺を描いていたなあ。(柿から無理やり話を春に戻したわけではありませんが)

その場所の、その季節の色彩をうっとり眺めながら、自分の感覚を写し取りたいと願う時、その感覚の根拠なるものが、既に記憶として存在しているのだろうと、結論してみよう。
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by kokouozumi | 2013-04-29 05:51 | 陶芸 | Comments(0)

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ひさびさに削りカンナの刃出しをしました。





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鉄カンナは学生時代に用意したものが、いまだに活躍しています。。
陶芸専攻が始まった春、初心者がまずやるべき課題は、自分の道具をそろえることでした。品目のリストがあるわけでもなく、その科の新入生としては、ひたすら耳をそばだてて、機会を逃さないようにする・・・あの頃の印象を正確に伝えるとしたら、そのようなことでした。

「おい、うお、鉄帯注文した?」
「鉄帯?なにそれ、いらない。」
「おいおい、削りカンナの材料だよ。高台を削るの!」
「そおだったか、じゃあ30本ぐらい」
「おいおい、削りカンナは10種類ぐらいあれば・・よくない、とりあえず」
「そお、ではとりあえず10本」

そのように、私は物知り同級生の忠告に従いながら、うろうろと、上級生の持ち物などを盗み見るようになるのです。

鉄帯がきました。これをどうするの?親切な先生が、こんな形の刃が使いやすいよと、図面を書いてくださる。両サイドを直角に折り曲げて、さまざまな刃の形を作るらしい。だけどどうやって・・・そこへタイミングよく漆科所属の同級生が登場。2年間の基礎課程を終えて、各専攻科に分かれたばかりの私たちは、その道の先輩たちの前でかしこまりつつ、この状況を他の科に散らばった同級生たちはどうしているものかと、様子伺いに各科の教室、いえ作業場を覗いて歩いたものでした。漆科でも今道具つくりをしていて、鉄帯を温めながら万力を使えば直角に曲げるのなんか簡単。刃出ししやすいように根元を三角にちょん切ってあげるよ、と役に立つ同級生は図面と鉄帯を持ち去ったのでした。しかし後でよく考えたら、彼は私と一緒に途方にくれていたもう一人の女子学生の鉄帯を引き受けたかったわけで、ついでに私のも・・・

正確に直角に曲がった鉄帯が届きました。正確にと言う点ですが、鉄帯の両端は上下反対方向に曲げるのですが、それから刃出しする側の直角の角を三角に切り落とす際、注意しないと右利き用にならないのです。その辺を打ち合わせたわけでもないのに、ちゃんと出来上がってくるのですから、職人の卵たちも隅に置けないのです。私ではなく漆科の彼がですが。しかし漆科の彼はそれだけで引き下がりません。
鉄帯の胴部、作業中手にする部分は、手に優しい布紐を巻くべきだ。しかもその紐は漆で固定すべきだ。あの、そこは陶芸という野蛮な職場ゆえ、漆などもったいない、ボンドで固定ということでどうでしょうか?恐る恐る進言して、妥協してもらいました。

さて、次の問題、刃出しはどうする?そこへまたまたタイミングよく鍛金科の彼女と出くわし、うちの科のグラインダー使えばと、彼女も既に自分の仕事場を熟知しているようです。私はただひたすらに、ではお邪魔します。これも今になって思うのですが、毎年春には、そのように新入生たちが入り乱れて、あっちの万力、こっちのグラインダーを使いしていたのでしょうが、各科の教授たちはなにも言いませんでした。もっとも、その教授なる人物も、腰に手ぬぐいぶら下げ、頭に鉢巻姿でしたから、こちらも殆どその存在に気がつかなかったのですが。

そうやって出来た10本の削りカンナが今も私の手元にあります。卒業後は長い間、金属ヤスリで刃出しをしていたものですが、今はボーラーを使います。

もう一種、磁器カンナという一組もあります。こちらは九州発祥の超硬タンガロイ製という既製品です。何しろ学校で磁器土を扱う場合はかなり神経質で、カンナのように道具を別にするだけでなく、磁器専用の土練り台まで用意します。卒業してから、土物・磁器物の仕事の切り替えは、周囲を丁寧に掃除することでクリア。学生時代の神経質な指導がそうさせたといえます。

ドイツに来て事情が変わりました。こちらで磁器土といえば、たいがいフランス、リモージュ産です。それを磁器カンナで削ったら、ぼろぼろ刃こぼれしました。

そういえば、私の知る限りの独逸人陶芸家で磁器土を扱う人は少ないのです。私がフライブルクで一番最初に知り合った陶芸家の女性は、作陶歴30年でしたが、それから数年後の会話で、その年はじめて磁器土の制作を始めたと聞きました。それは一過性の試みだったようです。

一体ヨーロッパの陶芸道具で、いわゆる磁器専用カンナというものが存在するのだろうか?陶芸辞典やインターネット上を探しましたが、どうもそのような使い分けの情報が見つかりません。手元の陶芸関係本からも『削り』の項目を拾い読みしていたら、磁器カンナのことではないのですが、イギリス人陶芸家の技術書に、面白い記載がありました。
「ルーシー・リーは、ハンス・コパーから鉄帯で作ったカンナをプレゼントされるまで、釘を削りの道具に使っていた・・・」

1938年、ルーシー・リーは生地のウィーンからイギリスへ。1939年、ハンス・コパーは生地ドイツ、ケムニッツからロンドンへ、さらにカナダへ渡り、1942年再びイギリスに戻る。イギリスで出会ったユダヤ人の二人は1946年から10年ほど、共同の仕事場で制作する。

特徴あるルーシー・リー作品は、ハンス・コパー製の鉄カンナから生まれたのか。いや二人の10年間は、殆ど共同制作で、ハンス・コパーが成形担当だったというから、一見、高台部分が深く見えるあの形は彼の考案だったのか。鉄製カンナのプレゼントは、いよいよ彼がリーの仕事場を出るときのことだったかもしれない。

ひさびさに削りカンナの刃だしをしたら、さまざまな話がよみがえる。






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ルーシー・リー、ハンス・コパー削りカンナの話の脇に載っていた写真。一番左にあるのがハンス・コパーのカンナということ。尖っているものだろうか・・




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by kokouozumi | 2013-02-15 08:08 | 陶芸 | Comments(4)

サーカス 2

サーカス その2は、さまざまな写真をお借りしてきて、ライオンの話を。







白いライオン、パンジャの息子レオは船の中で生まれた。その船が嵐の中で沈みそうになると、母ライオンからジャングルに帰って父のようなジャングルの王者になれと諭され、アフリカ大陸に向かって泳ぎだす。・・それが手塚治虫のジャングル大帝レオの始まり。

レイシー・ジュニアのもとにやって来た白いトンガも泳ぐのが好きで、よく一緒に泳ぎに行ったそうだ。対岸に気球が着陸した時、トンガはそれに向かって泳ぎだそうとして、あわてたという話がある。同じネコ科の猫が水を嫌うといわれているのは、発祥がサバンナだったりジャングルだったりするから、水と馴染みが薄いということらしい。
*クローネサーカスに白いライオンがやって来たのは、2006年にレイシー・ジュニアがモンテ・カルロでシルバーを取ったときらしい。その時はまだ仔ライオンだった。

白いライオンは氷河期に保護色としてそのような毛色の種が生まれ、その頃は白熊のように氷や水の中で生活していたのだろうか。白いライオンには水が好きな遺伝子があるようだ。氷河期が過ぎ、環境が変わると白は保護色でなくなり、むしろ目立ちすぎるので狩に失敗する率が高くなり、やがてほぼ絶滅していった、といわれている。
アフリカのある場所のみで、原住民の白いライオン伝説、森の神を欧州人が耳にしたのは、ずっと後、1930年代のこと。





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Foto von Laceys - Lions トンガとレイシーはお話しているのか、お互いの夢を見ているのか・・




サーカスは人間と動物の悲惨な歴史、そんな見方もあるだろう。
『人にとって必要なのはパンとサーカス』と、政治家が発言したというイタリア古代に、その人間に必要な娯楽として、円形劇場の中で展開されたのは戦車レースや奴隷とライオンの戦いだったのか。メディチ家の人々もサーカスが好きだったらしい。メディチ家をヨーロッパ中に知らしめたコジモ・メディチ、その子供の名前がピエロだが、これはいくらなんでもサーカス好きが嵩じた結果ではないよね。孫のロレンツォ・メディチにいたっては、当時珍しい虎やライオンなどの野生動物を収集していたそうだ。
それから飛んでしまうが現在のローマ法王もサーカス好きなのだ。

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Foto von Laceys - Lions カサンガの息子はローマ法王の祝福を受けた



300kの体重をもつライオンには、重さだけでも人間に勝ち目はない。レイシー兄弟が披露するような(弟も猛獣使い)ライオンが人間に甘えているように見える芸は、調教師にとってもっとも危険な技といえる。彼らにそれが可能なのは長い間接してきた経験から、ライオンや虎の行動を知り尽くしていることだと前にも書いたが、長い間というのは、毎日長い時間を猛獣と共に過ごしていることでもある。サーカスの猛獣使いとして生きる彼らに必要なのは、家ではなく、キャンピングカー。あとはライオンや虎のそばで過ごせばいい。そのようにレイシー・ジュニアは天気のよい日、ライオンの横で本を読み、一緒に午睡もする。もちろんそうできるのは彼だけだが。

ショーの場面でレイシー・ジュニアは、彼のライオンたちのプライドを傷つけないよう役割や配置をしているようだ。雄ライオンは最後まで雌ライオン軍団の演技を高みの見物している。芸達者な、例の言うことを聞かない悪女を演じる一頭が混じっているグッドレディースと呼ばれる4頭が総数10頭ほどの軍団を盛り上げている。かしましい女性軍が引き上げた後に、レイシー・ジュニアはこれまで見物していた雄ライオンともっとも危険な技を披露する。それは火縄くぐりでもジャンプでもなく、寝そべったライオンの上にレイシーも寝そべるというものだ。つい最近26年間レイシー・ジュニアと共に育ち、21歳のレイシーがショーを始めてからは、ずっと一緒に出演していた雄ライオンが、最後のショーの後、眠るように死んだそうだ。現在雌軍団を見守るのはその息子、レイシーファミリーのライオン世代としては10代目のベネディクト。

白いトンガについて、『彼は自分が美しいことを知っている』とレイシーは考える。
だから軍団の中に登場させるようなことはしない。黒いマントを着たレイシーとともに360度のパノラマでその姿を披露するのみである。



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Foto von Laceys - Lions


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Foto von Laceys - Lions





トンガは父親になった。2011年に一頭の息子が産まれ、2012年夏にはなんと6頭の子供達が・・・。まるでレオのように白く、ふかふかの可愛い子供達だ。 

続く
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by kokouozumi | 2012-12-04 07:52 | 人々 | Comments(5)

オイラー 2011 その4 帰還








へーア・グレンツハウゼンのオイラー窯焼成は24日夕方7時ごろ終了。
多くの見物客は去っていき、その人々にビール・ワインからスープ・料理パンをサービスしていた学校事務局、学生も帰り、人々の応対に疲れ知らずの会話を続けていた所長のブランド氏の車も去り、最後まで残っていたのは焼成責任者のM氏。彼は焼成を終了して焚口や窯側面の塩穴を目止めしてからも、窯内部で蒸発している塩のガスが抜けきるまで、窯天上の煙突穴を少しづつ閉める作業を続けていました。塩のガスが残ったまま、窯を閉じてしまうと塩釉ににごりが生じるのだそうです。

そして誰もいなくなったのは9時過ぎでしょうか・・・いえ、オイラー窯の間、毎晩やってきていた近所の三毛猫が今日も最後の巡回を引き受けています。
濱田氏は夜半に窯屋へ侵入しようと試みたのですが、しっかり者のM氏がどの扉にもしっかり鍵をかけて帰ったため、断念。

25日、IKKGのゲストルームで濱田氏と私は、日曜朝の子供番組、チンパンジードラマを見ながら朝食を食べ、バーナード・リーチの独特な性格について話をしていました。
異邦人であるゆえに大変フレンドリーに誰とでも付き合ったリーチが、濱田庄司と柳宋悦を、富本憲吉と宋悦を結び付けたのだそうです。日本人同士なら接点の起こり得なかった人脈がそのように成立したのだそうです。









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それから私たちはコブレンツを経由し、ライン河沿いの電車の旅を楽しみました。
へーア・グレンツハウゼンから観光で訪れたラインとモーゼル河の合流地点を、今度は車窓から眺めました。

へーア・グレンツハウゼンを中心とする塩釉焼成の窯業地では、土や木の入手にライン河の交通を利用する必要はありませんでしたが、昔の製品出荷には重要な経路だったはずです。船に荷物を積み込めばライン河の要所に流通のシステムが整っていたはずです。いえそれ以前にこのラインをローマ人が辿ってきたことから、この土地の窯業の歴史が始まります。もっともっと遡れば、ライン河とその流域に豊かな土の産出を可能にした土地の成り立ちがあります。オイラーはライン河方向から西風が吹く季節の窯は、どう焚くべきか知っていたでしょう。その土地の成り立ちと、そこに住む人間の頑固さは切っても切り離せないものとして、その土地に影のように付随していることを、面白く思い出しながら、へーア・グレンツハウゼンの町から遠ざかって、それぞれの帰路につきました。



さて、塩釉焼成に関しては、徐々にまとめてみます。
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by kokouozumi | 2011-09-26 05:35 | オイラー | Comments(7)

オイラー 2011 その3


しっかり働いています

形から入る日本チーム



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いろいろな国からやってきた参加者
地元の陶芸家たちが次々、作品を持ち込み窯が一杯になりました。
今日は外国からのゲストが窯の周りをきれいにして
ちょっとだけお手伝い


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ゲスト全員分のカメラを預かり、シャッターを押し続けた、カメラマン君。
他にもお手伝いの学生が数人。フランスからやってきた学生が
益子に行ったことがあるよ!とぽつり
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by kokouozumi | 2011-09-22 05:42 | オイラー | Comments(9)

オイラー 2011 その2

さて一行は無事にへーア・グレンツハウゼンの町に到着しました。
IKKG(陶芸・ガラス造形研究所)で所長のブランド教授にご挨拶すると
「もし、お疲れではなかったら・・・」
と、すぐに案内されたのがあの140キュービックの巨大窯を持つ、
へルフリッヒさんのところ。

昨年10月に私たちが訪問した直後、体調を崩されて
窯づめ作業は中断かとおもったのですが
今やっと、殆ど窯室全体を埋めるほどになりました。

ブラント教授が、そっと教えてくださったのは
へルフリッヒさんにとって、採算云々はもはやどうでもいいことで

とにかく、もう一度焼成にこぎつけたいのだと思う・・・という話
ブランド教授も時間が有る限り、土つくりから轆轤成型など手伝い続けている。


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この工房はもともと土管つくりの作業所だったので、こんな機械があります。
この機械を利用して
あの若い陶芸家夫婦のところの窯焚きには、カプセルを援助しました。

土管の胴体部分となる筒は上から降りてくるのですね。



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上から伸びてくる筒がちょうど良い長さになったら、スイッチを止め
巨大な弓で切り取りますが
その時下から底の部分となる円盤状の土板を載せた回転台が競りあがって
上の筒と合体します。



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それを轆轤台に移動して、手びきして仕上がりです。
こんな時代がかった、大仕事をするヘルフリッヒさんの顔は、なんだか穏やかです。




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石膏型轆轤機械も100年前からの年代物です。
唯一変わったのは皮のベルトからゴムベルトになったこと。





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工房で使う土はすべて近所の採土場から自分で持って来るそうです。(といっても専属の採土業者がいるのではないかな?) ほんとにすぐ傍の現場を見てきました。
遠くの池は既に採土し終わった跡地。







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こちらは現在土を掘っている場所
この土を水肥するだけで、一切の添加物なしで使っている
「こんなに一杯あるのにもったいない・・・」と、濱田氏の感想

それは、この町の窯場の多くが既に休業していると聞いたからです。
ブラント教授が手伝っていた30年前は、町中の煙突から煙が立ち上っていたそうです。

ここは最も小さな採土場、もっと巨大な場所があちこちあるのがヴェスターヴァルトの土地柄




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土地柄といえば、帰りにスーパーに寄ったら、やっぱりこんなビールを売っています。
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by kokouozumi | 2011-09-21 06:59 | オイラー | Comments(5)

ロイトに乗って





正式名Lloyd Alexsander TS (ロイト アレクサンダー TS 1960)を車好きの人は良く知っているかもしれません。私は何も知らずにその後部座席に積み込まれオールドタイマー集会なるものに出かけてきたのでした。

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Lloyd Alexsander TSは小型車ですが、後部座席に納まってみると独逸人ならいざ知らず、私には十分なスペース。横にはトナカイちゃんと飛行士がゆったり同乗しています。

オールドタイマー集会が一体どんな様子なのか興味津々でした。現在私が居候している家の大家さんがそもそもオールドタイマー!5月から10月までのシーズンには出かけようと思えば、殆ど毎週末のようにオールドタイマー集会があるそうです。一個人のオールドタイマーの元にそれだけの招待状や案内が届くということは・・ドイツ中にいったいどれだけの集会がこのシーズンにおこなわれているのか、計り知れないものがあります。

Stuttgart近辺では、ついこの間ラジオでオールドタイマーという名称が2日間に渡って連呼されたものです。車が発明されてから7年後にはスポーツカー競技というものがフランスに始まり、もちろんドイツでも。1903年にはこのバーデン・ヴュルテムベルク州、Stuttgart東に位置する貴族の館、ソリテューデ城を取り囲む森の中を走る一般道路でフォーミュラー1、フォーミュラー2が始まりました。しかし一般道路でのカーレースは1965年に安全上の問題で中止されます。

今年2011年、ベンツ創業125周年を記念してオールドタイマー・ソリテューデがかつてのコースと同じ一般道路で46年ぶりに開催されたのでした。

うちの大家さんはその際、朝の6時から夜遅くまで、なにやらお手伝いに出かけていたので(オールドタイマー協会員がコース沿線に配置され、オールドタイマーとはいえイツ暴走するかわからない車を見張っていたようだ。)私もやっとオールドタイマーの人々がただ古い車に乗って喜んでいるわけではないのかなと感じたものです。



ではその集会に行ってみると・・
会場には次々トラクターが集まってくるのでびっくり。そうかブルドックたちは壊れもせず、ある農家の納屋でひっそりと時の過ぎ行く中、生き残っていたのか。トラクターが大量に一般道路を移動するとなると、それは迷惑な話に違いないので、このトラクターたちは会場のご近所から集まってきたようだ。この会場での集会は今年初めて企画され、なんでもあり・・トラクター、バイク、自転車、手作りの乗り物らしきもの。
そして招待されたオールドタイマーの中には


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この車はコンラッド・アデナウアー首相(1940年代から60年代)が公用車にしていたベンツ



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こんな車始めてみました。
戦時中にガソリン入手が困難だったので、薪を燃やして走ったとか!後部座席には買い物籠ではなく薪籠が乗っています。



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ドイツ軍の初代ジープ



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この車は今回参加したオールドタイマーの中でもっとも古い年代、1930年初頭または20年代後半製造の車。二人乗りで


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後ろのトランクを開くと、もう一人・・オープンカー状態で乗せられます。
誰が乗るの?
お姑さんだよ
あは・・・



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こんな人も嬉しそうに走り回っています。
手作り、ワイン樽・・バイク・・?



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そして、いよいよロイトの兄弟
Borgward Isabella (ボルクヴァルト・イザベラ 1960年代 )の登場。

ロイト・アレクサンダーTSも ボルクヴァルト・イザベラも、カール・フリードリッヒ・ウィルヘルム ボルクヴァルトという人物の作った自動車会社から生まれたもの。
戦後ドイツの小型車としてVWやポルシェに継いで3番目の地位を築いたこともありました。
しかしボルクヴァルト氏はかなり独自性あるいはワンマンな性格の人だったようで、生産性を考慮するより、好きな車が作りたかったようです。

詳しい軌跡はこちらで → 004.gif ボルクヴァルト - Wikipedia



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大家さんのロイト


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会場のテントのなかで一休みしていた時 大家さんの奥様がぽろっとはなしていたことがオールドタイマーの気持ちかな・・・

スムーズに音もなく動く車より、ガタピシ揺られながら、絶えず変な音がしてないか耳をそばだてて乗っている時、車も自分と同じ生きている存在に思えてくるのよ。いったんその感覚に慣れたら、止められないものよ。

時速80Kmの車窓に映る田舎道の風景はのどかだった・・
燃費だってリッター14Kmとそんな悪くないよ。
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by kokouozumi | 2011-08-08 15:13 | 人々 | Comments(41)


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