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地図








私の生家は渡波駅の目の前にあった。その駅を通過するのは石巻―渡波―女川を結ぶ
石巻線のみ。私の家は駅舎を出て左手、プラットホームの向かい側に並ぶ家々の一番始まりのところだった。駅舎から右手はプラットホームのスペースが無い分、家々は線路際ぎりぎりのところから、線路を背にして並んでいた。駅から出て、視線をまっすぐ伸ばすと橋が見えた。その下を流れているのは太平洋の水。地図の中では石巻線は殆ど海沿いを走っているようにしか見えない。

小学校に行く前の私の日課は、駅に面する窓辺に踏み台を置いて上り、目の前で展開する貨車の天井から氷と魚を投げ込む作業を、飽きもせず眺めていることだった。そのリズミカルな掛け声とシャベルの音は毎日のように聞こえていた。当時の駅には貨物用のホームがあり隣接してホーム側が片側開きになった魚を保管する大きな倉庫があった。

幼い私の印象では、駅はディーゼルカーに乗る人々以上に、貨車に積み込まれる魚のためにあるようなもので、今思えばそれは、町の漁業状況を目撃していたことになる。学校に入学して窓辺の私の日課はなくなり、その後の経緯、駅の魚倉庫に空の木箱が積み重ねられたまま放置されていた時期やその倉庫もなくなってしまったのはいつからか、覚えていない。

物心付いてから小学校に入るまでずっと、家族の中で唯一渡波出身である祖母と私は、一日中一緒に居たはずだが、祖母から海に関する話を聞いたのかどうか、これも記憶に無い。それでも駅の光景や、船の入港を伝える市場のサイレン、それに風と共に流れてくるにおいで、私は魚町の真っ只中にいた。

小学校4年か5年生になって、思いがけずクラスのあまり遊んだことも無かった女の子から誕生会に呼ばれた。たしか船主の娘だったと思う。「これが子供の誕生会の・・」と思うほど豪華な食事に舞い上がり、大宴会場のようにその料理が並ぶ部屋の、神棚の長く立派なことに驚き、遊んだ船具のある納屋の巨大さに、面食らった。その日は雨だったが十分かくれんぼを堪能できた。私は子供心に、海にかかわる生活がこれほど、なにかゆったりした豊かさを内包していることを感じた。それは部屋を横切る神棚の印象だった。

私の家は漁業と関係が無かったが、海のそばでの生活には違いなく、新鮮な魚をいつでも食べることが出来るという恩恵とともに海の怖さも知っていた。海水浴場に歩いていけたが、東北の浜で泳げる時期は短かった。8月のお盆のころには土用波という大波になるので、もう泳げなかった。隣家の船長の奥さんは夕方いつもラジオの前に立って、船の針路を告げる有線放送を聴いていた。私がまだ小学生のうちに、その船長は海で亡くなり、家族は引っ越していった。

だから誕生会に呼ばれた女の子の家で、正月でもないのに美しく飾ってある神棚を見た時、日々の生活が祈りと共に執り行われていることをすぐに理解できた。そこには女の子と学校で共有する秩序とは違った世界があった。祈ることを背景に持った彼女やその家族の生活が、とてもまぶしく感じられた

昨年3月以来、私は何度か同級生たちとの通信をしながら子供時代のこの感覚を思い出していた。子供ながらに祈りながら自然に服従せざるをおえないと知っているその土地の空気を感じていたのだと思う。今もその土地には私にそのような精神世界を伝えた人々が居る。その土地の地図は、精神地図というものがあるとしたなら、さらに色濃い書き込みが続けられていくのだろう。彼らなら叩かれてなお、人間が作り出せない自然の豊かさをますます感じているのではないか。

私の勝手な想像はこれくらいにして、その土地の確かな話がある。

 ☆ 確かな話
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by kokouozumi | 2012-03-13 07:12 | 人々 | Comments(21)

渡波の海

渡波に帰郷したら、海です。

滞在最後の日に、やっと海岸へ











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by kokouozumi | 2009-07-11 23:37 | Comments(8)

海 その3


今回の帰郷で写した写真からもう一つの話。

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このぼろぼろになった扉はかつて塩の専売公社として使われていた建物の入り口です。
小学校に入る前の私は父に連れられてこの建物の中に入った記憶があります。事務所というより何か研究室のようだったことを覚えています。その後何十年もの間、殆ど使われることもなくただ建っていました。

海を背にしているこの建物の古風な研究所といった雰囲気と周りの環境が気に入って、手に入れ文化施設にしたいという人と、見に行ったことがありました。それから向いの歯医者さんが買い取りたいという話も聞きました。が、こんなにいたんでしまい、ついに今年取り壊されるそうです。



d0132988_925988.jpg完全にお化け屋敷!












渡波には塩田がありました。それはもっともっと昔、江戸時代に開拓されたようです。日本中の海辺に点在する他の塩田と似たような経緯があるのだろうと思いますが、伊達藩の所有として塩が作られていました。軍資金調達にこれも日本全国の各藩は大変だったと思いますが、米・塩・陶器は藩専売品でした。伊達藩も大阪だったか江戸だったかの商人に多額の借金をしていて、米だけでは返済できず、塩に力を入れていたようです。

それから幕末になりと、時代の変遷と共に塩田の管理がどのように移行していったのか・・・そんなことは役場にいって調べるものなのでしょうが、私はただこの老朽化した建物を写してきただけです。

母の友人で渡波の古い慣わし、現存する遺物的場所について、調べている方がいて、写真と文章を丁寧に組み合わせた、一冊の本と呼べるファイルを見せていただきました。その中に塩田のページもあり、初めて塩田の中でどのようにして塩を作っていたか詳しく知ることになりました。思ったより複雑で天候に左右され、労力の要る方法でびっくり。

入り浜式というその方法は
潮の満ち退きを利用して、塩田の地盤は満潮時に海水を含み、潮が退いた朝、その広い地盤一面に砂を撒くと、毛細管現象で砂に海水が浸透する。昼間の太陽熱で水分が蒸発し、砂には塩が付着する。午後(多分炎天下の最も暑い時間)四角い下が、ろ過装置になっている井戸の中に塩のついた砂を集める。上から海水を流すと、ろ過装置を通過して、濃縮塩水だけが井戸の下から横の穴に流れ出す…。

ここまで、読んでくださった方有難う。字を見ただけでも、とっても大変そうな、塩田の仕事です。江戸時代この塩田では30組以上の塩作り業者が入って、仙台藩(伊達)の所有する塩田の中で最も多くの塩を産出していたようです。天保11年(1840年)の記録で、宮城県内の塩生産総量、一年分20万俵のうち、渡波は5万俵、隣の流留(ながる)が4万9千俵で、万石浦からの生産高で半数を占めていたようです。

しかし、今となっては原始的におもわれるこの塩田での塩の生産も、生活文化の変化(重労働に対する)、生産性の改革で、割りの合わないものとなっていき、1930年代から廃田が続き1960年に完全に廃止。(なんだかこの年号はオイラーの歴史に符合するような…)オイラーといえば、海の少ないドイツでは、始め岩塩というものすごく高い塩を商っていたらしい。フライブルクの町の真中にSalzstrasse(塩通り)が横切っています。ここは塩が運ばれたというより、塩が商われていた裕福な通りだったそうです。

渡波の塩業者は全て藩に、その後専売公社に収めたのですが、裕福だったという話は??聞かないな~。


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by kokouozumi | 2008-04-05 09:25 | Comments(29)

復活祭ですが、海その2

今日からドイツは復活祭の連休に入ります。キリストが十字架にかけられてから、三日後によみがえったことを祝うキリスト教の祭日ですが、そこにグレゴリオ歴とかユリウス暦とか、よく判らんのですが、天文学が加わり毎年祝日の日が移動します。ちなみに昨年は4月8日、今年は3月23日の日曜日、来年は4月12日です。

ドイツの春は黄色から始まるといわれています。白い雪景色の中に何時の頃から連翹の黄が目に付くようになり、復活祭のころは「復活祭の鐘」と呼ばれる黄色のラッパ水仙が、庭先や公園に次々花開くことになります。復活祭が春を実感する季節の節目でもあることは、日本のお彼岸に似ています。

17日はお彼岸の入り日ですと…このブログを覗いてくださった郷里の同級生からお便りがありました。「…始め渡波の風景とは思えなかった。ゆっくり見るとそれは船だまり、それに『つんしょ』だとわかってきた…」
d0132988_4423418.jpg『つんしょ』?テトラポットを沈める場所、沈所が訛って『つんしょ』と呼ばれるようになったのでは..と。しらなかった~。つんしょ、つんしょとつぶやいていると、だんだん懐かしくなってきました。郷里独特の語感があります。そう思ったらこの言葉に詰まっているものが一挙に頭の中に流れてきました。






「つんしょ」を突端に向かわず、逆戻りすると浜に続いています。
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その浜は長浜と呼ばれて、昔は文字通り広い砂浜から遠浅の太平洋の海が続く、絶好の海水浴場でした。私もまだ小学校に入る前から浜に通いました。家から浜までは子供が歩いて15分?か20分。家から水着になって、最初の水着は腰にひらひらのついた真っ赤な、まるで金魚のようなのでしたが、金魚になりきって、ぞうりをぺたぺたさせながら歩きました。母か叔母、祖母が必ず付き添いについてきましたが、日傘をさし、麦茶の入った水筒やちょっとしたおやつの入った籠を下げた彼女達の姿を想像すると、今も楽しさがこみ上げてきます。

その様に女性陣の付き添いは優雅なものでしたが、彼女達の都合がつかないとき、男達、父や祖父、伯父がついてくる場合もありました。その場合の思い出はちょっと喜劇的です。

砂浜の一角に日傘をさして坐っている女性達と違って、彼らは一緒に泳ぎます。まず父、この人は水に入ると、ツイスト踊りを始める。「おー何してる!父」とあっけに取られる私の目の前に、父は器用に足の指で捕まえた蛤を、誇らしげに掲げてみせる。「…」。

次に祖父、この人はスポーツ万能を自負する人だから、孫の付き添いという立場を忘れて、自分の技に没頭する。鼻を摘まんで、海の中に潜ったと思うと、孫が待てど暮らせど、たとえおぼれてしまっても、なかなか現れない。孫は祖父の捜索に忙しく、海水浴どころでなくなる。

そして伯父、これがまた付き添われたものにとって、たいへんな存在だった。何せ水泳部出身。だから姪っ子の扱いもそののりで来る。ゴムボートに乗せてくれるのはいい、だけど何でそれを沖でひっくり返すかね?波の中に投げ飛ばす、その他の鍛えでたらふく塩水をのんで、厳しい海水浴終了後、母だったら絶対に許さない「海の家」の掻き氷を食べさせてくれる。罪の意識も混じって、複雑においしいと思いながら氷水をすする私の頭の上で「あっ!きた!」と伯父は叫ぶ。何事かと伯父の視線を追うと…町で一番の美女N子嬢がやっぱり姪っ子を連れて、波打ち際を歩いている。もう一度伯父に視線を戻した時、既に伯父はさっき着替えたばかりの洋服を脱ぎ捨てながら、「一人で帰りなさいね」と言い残し、ぴょンぴょンはねていく後姿がありました。

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つんしょの突端と対岸の半島が、海を区切って、狭い通路となり出入りする船の玄関先になっていました。
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つんしょから内側は湾になっていて、漁港がありその横に漁から帰ってきた船の並ぶのが「船だまり」です。この名称も「つんしょ」同様、なつかしい響きがあります。。前回の「船だまり」写真、奥に写っていた白い橋の向うは万石浦という名の湾で、牡蠣だなが並ぶ場所です。

郷里で写した写真をやっとPCに取り込んでみたら、無意識にシャッターを切っていたつもりなのに私の思い出した事の舞台背景がちゃんと写っているではないですか。
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by kokouozumi | 2008-03-22 06:26 | Comments(8)

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by kokouozumi | 2008-02-16 13:54 | Comments(10)


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