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作品 その2





もうすぐ10月。冬の準備や冬の前にやるべきこととか、いろいろなことをもう後回しに出来なくなった。木の柵や戸に保護ペンキを塗らなければ。そのペンキを探しにホームセンターへ出かけ、ついでに薪も買い込む。買い物を積み込んでの帰りがけ、こんな作品に出くわした。



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鶏小屋のある庭からは廃墟が眺められる。鶏小屋にはちゃんと鶏専用の入り口が開いている。一匹の雄鶏がいかにもうるさそうに鳴いているようなのはペーターソンとフィンドスの話を思い出す。私はペーターソンとフィンドスの動画でこの鶏小屋のつくりを知ることになったのだが、この町に引っ越したら、昔農家だったらしい造りの家が多く残っていて、そのような家の中庭にある納屋には隅のほうに必ず小さな鶏専用の出入り口が残っている。



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作品はある物体の周りをぐるりと取り囲んで描かれている。
このキツネさんの左右を見ればその物体がなにかばればれだが・・・






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柔らかな白とグレーの陰影でやさしく描かれている羊が2匹。単純そうでなかなか丁寧な描きこみの、この部分から作品が始まったのではないかしら。







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羊や牛達の牧場と反対側には、のどかという言葉に対して理想的な家が。もちろん犬も猫も住んでいなければ。





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しかしこのワン君、遠目にはおとなしそうに見えるのに、玄関の注意書きをよく読むと、「噛み付く犬に注意」ということだ。






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鶏と羊と牛と犬と猫・・・は見かけたが、人間は一人も描かれていない・・・
しかしこの場所にもかつては領主が居て、領主の館が高台に聳えていた。さてこの館から建築様式を探り出し、この場所が何処なのかを割り出すことが出来る人は?
それが出来たら、絵の作者がこの車に乗って何処に行きたいのか、分かるだろう。








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制作者をちらりと見かけた。小柄なおばあさんだった。









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助手席側のバックミュラーに描く、ペンキを買いに来たのだろうか?
一体どのくらいの時間をかけて、この絵は描き続けられたのだろう?
どんな場所で?
おばあさんはさっさと買い物に行ってしまった。車の周りをひとまわりしながら絵を追いかけていると、聞いてみたいことが次々思いついて、おばあちゃん早く帰ってこないかな、とホームセンターの入り口につい目を向けてしまった。

いつか又この車とおばあさんに会えるかもしれないという楽しみが出来た。

この町に引っ越してからそろそろ1年。
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by kokouozumi | 2014-09-26 07:23 | 美術 | Comments(0)

日曜日




引っ越したばかりの昨年10月、薪ストーブの準備で朝が始まるという、この家の冬対策に追われることになった。やっとその仕事から解放された4月には、庭の草がぐんぐん伸び始めた。除草作戦第一弾は庭の石畳を覆っている土ごとはがしてしまえ・・ということで、同僚の寛太氏が何日もがりがりとスコップで土はがしをした。

6月の展覧会には、きっと10年ぶりぐらいに全貌を現した庭の石畳が会場の印象となった。しかし7月になると、きっと10年間のうちに増え続けたタンポポが石畳の間から、またぞろ葉を伸ばし始めた。草取りを始めると、表面の葉っぱがちぎれるだけ。タンポポって、ものすごく地下深くに根を伸ばしていることが分かった。大家さんの庭仕事道具から、それらしい根掘り武器を探し出し、石畳の間をカチカチ言わせながら、タンポポ掘りをやってみたが、とても全部の根を撤去することは出来ない。毎日少しづつやっと庭全体のタンポポ表層を撤去した頃には、始めに手をつけた部分にうっすら緑の葉が出てくる。

これを徒労というべきか、朝の時間を台無しにされていると思うべきか・・・
この家に住んで、朝の仕事は季節を変えて次々発生するし、時間を浪費しているはずだが、なぜかあまりその時間が惜しいとは思えない。これまでの人生で、はたしてこれほどの徒労に従事したことがあっただろうかと考えてみると、そんなことをしている暇が無かった時には、こんな家に住むこともなかった・・と気が付く。

ははは、そうかと思いながらタンポポの根をカチカチ切り取っている周りで、最近は猫の姉妹が駆け回るようになった。そういえばこの子達は良く食べ、よく排泄するので、猫砂掃除ということが、朝の作業として無視できなくなった。

ちょっと熱心に作業し、ちょっと熱心に遊んだ(これは猫たちだが)日の朝食はシンプルになる。コーヒーにバターを塗ったトースト一枚とヨーグルト。本を読みながらに適した朝食。語学学校時代、コソボからの難民学生が一服のタバコが朝食と、何も無いことを表現していたが、それに比べたら豪華な朝食。

8月なのにドイツらしく、肌寒い日々が続いている。もうすぐ冬の仕事が始まったら、どれだけの時間を朝に費やすのだろうと思いつつ、そんな時になっても、みんな元気で過ごせたら幸いと、とりあえず今は、本のページをめくる。






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大事なネズミさんを失くさないように!
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by kokouozumi | 2014-08-19 06:56 | | Comments(0)

2月は覚悟していたものの















暖かな1月でしたが、末になってついに初雪。突然のように朝起きたら雪でした。天気予報では2月始めに最低気温・最高気温、共に氷点下の数値が現れ、そろそろ地下室も暖房する時期が近づいたようです。11月始め、家全体を暖めようと1週間ほど地下ストーブを試し焚き、その後2ヶ月は必要の無かった2箇所のストーブ焚き仕事が戻ってきます。11月には新しい家の生活習慣を身につけたいあまり緊張感のある仕事でしたが、その後の温かい冬にすっかり怠け者になっています。億劫になりながらも、地下のストーブの前に立つと、ここはひとつ陶芸家の意地で、最短時間で点火を完了してみようなどと、すっかり火遊び気分になってしまい、地下への階段上り下りも、冬場のアスレチックに最適!と浮かれてきます。

そうやって、台所のストーブに薪を放り込み、次は地下に降りてストーブを覗き、燃え具合を観察します。現在のところ点火用の木っ端材が不足気味です。地下ストーブの場合はずっと傍にいるわけではないので、序々に火を大きくしていくのではなく、いきなりブリケットの一塊を点火させる方法を検討中なのです。わずかに燃え始めたブリケットの上に次のブリケットを重ねるタイミングが肝心です。早すぎると、わずかな炎が全滅!!地下のストーブ脇にはエコ点火剤なるものが何箱もストックされていました。

この家の前住人シュテファンから、どうだい?震えていないかい?とメールが来ました。彼はこの家に10年住み、現在はカナダに暮らしています。彼がエコ点火剤の山積みを残していったわけですが、実際にストーブ焚きを初めてみて、彼が私と同じように素早く点火し、炎を安定させたかったに違いないこと、その手段がこれだったのか、と理解できました。
さらに地下には木箱の山済みがありました。初めそれは木やブリケットを運ぶために集めたものと思っていました。春先や夏に果物をまとめ買いすると入ってくるような、足でつぶす、ちょっと圧力を加えるだけで粉々になる代物です。実はそのやわな木箱も炎安定のための助けだったのですね

10年この家に住んでいたら、極寒の年もあったでしょう。とっさの手段をシュテファンは残していったわけで、それに私がやっと気がつく余裕があるほど、この冬は穏やかです。1月末の雪で覚悟したにもかかわらず、2月の2週間予報では氷点下より下のポイントが1回ぐらい。このまま暖かくなるようだったら、果物籠を集めたり、端材を集め切り刻んで、来年の冬に備えなければと、思ってしまう。

そんな油断をしていてよいのだろうか?


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朝、台所の窓に差し込む光も心強くなってきた






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この家のいつの時代の住人が、台所の雰囲気をこんな風にしたのだろう。コーヒーカップ柄は帯状の壁紙を張り込んだもの。







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このごろ、パンクもすっかりこの家になれて、お気に入りの場所を増やしている。
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by kokouozumi | 2014-02-02 07:50 | Comments(0)

彼女の工房 2013年










ストーブのことではなく、陶芸の話ですが・・・

薪ストーブ生活初心者の私は、彼女の工房にあるこの小さなストーブの威力に感歎。工房と一部の展示室、あわせて100平米ぐらいの空間には暖房設備としてこのストーブが1つだけ。12時前の訪問時には心なしひんやり感じられたその空間が、夜7時お暇する頃にはほっかり暖かな場所になっていた。

そうやって彼女は冬になると、時々ストーブに薪を一本放り込みながら仕事しているのね。しかし以前紹介したように彼女の工房
かつてFayence – Manufaktur だったから、家というより工場に近い構造のこの建物には、下の階全体が窯場、さらに下の階はリヒャルド・バムピ黒い森にひそむ 3
の記念博物館的な釉薬調合室や原料保管室が当時のまま残り(1920年-60年代)、さらに機械室(土を作る)、土置き場が続いているということになっていて、それらの地下2階部分には全く暖房が無い。彼女がこの家で仕事を続けていくには、年間仕事計画または季節別仕事場所プランのようなノウ・ハウが必要だよね。今回は残念ながら、その辺の事情を話し合う場面は無かった。





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今回の目的は、本の整理。わざわざ私が呼ばれたのは、その本というのが日本語のものだったから。独逸人陶芸家の家に、所有者が読めるとは思えない日本語の陶芸に関する書籍は雑誌類も含めて300冊ほどあった。

私の書架に日本語の陶芸書を数えたら30そこそこ。日本で持っていたもの全部をこちらに移動したわけではないにしても桁違いと、文字通り言える。数ばかりではなく、1974年に加藤唐九朗が自らサインして贈呈したらしい、原色陶芸図鑑初版がある。対抗する小山富士夫の著書も多い。興味深い本が次々目に付いたが、とにかくゆっくり読む暇はなかった。


はっきり言って私は大型図版の陶芸全集の類を、古代アメリカ、古代地中海とアフリカ陶芸の三冊以外に購入したことは無い。金額の問題以上に、それらを日々眺めて学べる目が無かった。この家には日本陶芸、日本現代陶芸、東洋陶芸の全集が、それぞれほぼ全巻積み重ねられている。

所有者は日本語を読めないと言ってしまい申し訳ないが、その本を収集した彼女の8年前に亡くなった夫、カースタンは日本の陶芸書をよく観ている。付箋が付いている箇所を開くと、かならず窯の構造に関する図があった。カースタン氏は1974年から10年間毎年のように日本や韓国へ出かけたらしいが、1977年に独逸で第一号といわれている穴窯を自ら築いた。それ以後、カースタンのあらゆる経歴や紹介文には、東洋陶芸に影響を受けたというような一文が、必ず書き加えられることになる。

師匠であり、この家をカースタン氏に譲ったバムピは釉薬研究に夢中だったが、弟子のカースタン氏は無釉の素地を穴窯の中で灰に任せることに夢中になった。以前書いたエピソード、師バムピの釉薬調合を盗んだといわれた事件が尾を引いているわけではないだろうが、カースタンのこの情熱は東洋からの影響とか、禅の思想何タラという表現では済まないだろうと、300冊の本を前にして、私はこの家に流れる、陶芸に対する鬼のような情熱を目の当たりにする思いだった。









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オイラーの本を1冊見つけて、ちょっとだけ休憩






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昼食に並んだ器は彼女がこの家に嫁ぐ時、工房の師匠・・つまり彼女の旦那様から課題を与えられた自家用器シリーズ。5種類をそれぞれ60個作って引き出物にもなった。





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これは旦那様が気に入っていたフランス人陶芸家の器






この家の広い空間に漂う情熱の亡霊、その中で彼女は仕事している。さらに仕事で使う設備は旧体制のものだから、彼女はそのための労働も受け入れなければならない。しかしそんなことはどうでもいいほど、彼女は陶芸の仕事が好きだ。この家の各所に、この家の雰囲気の中で生まれた彼女の作品が並び始めた。

彼女は薄い磁器土の素地が好き。使っている釉薬はぼってりと厚がけにして効果的なものだから、土と釉薬の組み合わせに無理があるのだろうか。狙っている課題、それがどのように抑えられていくのか、次の訪問の楽しみだ。












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by kokouozumi | 2013-12-26 06:49 | 人々 | Comments(0)

薪を買って迎えた第2アドベント












1922年建設当時の基本システムがそのまま残るこの家には、独逸に来てから当然と思っていたセントラルヒーティングではありません。頼りは薪ストーブ、それに補足のガスストーブです。

住み始めたのは10月中旬。普通の家では暖房をつけるのにまだちょっとはやい時期でしたが、外のほうが暖かく感じるほどこの家は冷え切っていました。薪、ブリケット(練炭)、豆炭・・・まるでこの家に付随する家具調度のように、とりあえずの燃料が残っていたので、早速家を暖めることにしました。

それからというもの毎朝の始まりは、コーヒー豆を挽くことに始まるという優雅な朝から一変して、ストーブの灰掃除。起きるなり作業着に軍手着用という姿に抵抗を感じないですむのは、陶芸家の利点かもしれない・・・。台所のストーブから灰の溜まった箱を取り出し、その上に空になった薪とブリケットの箱を重ね持ち、地下に降りる。地下から中庭に出て、灰を捨てる。今日分のブリケットを箱につめる。薪の束から焚きつけ用の細い薪と、本焚きの太い薪を選ぶ。そんなことをしているとあっという間に30分は経過。これじゃ何のために電車通勤を返上して、この家に住んだの?という嘆きを、いや時間の問題ではない、自分の空間を動きまわれることのほうが大事!と、打ち消す。

12月になって、そんな生活にもだいぶ慣れてきました。慣れないとこなせない課題が増えたから・・・。地下のストーブも焚かなきゃ。家が冷え切っていた原因は地下部分の冷たさにもある・・というので、住居部分では全く無い場所でせっせと薪焚き。
今度春が来たら、これまでの人生で最大に嬉しい季節になりそう。

約1ヶ月半のストーブ焚きで、冬の間に必要な焼成燃料の量や、種類の割合が読めてきました。薪を買わなければ。日本のホームセンターに相当する建築資材屋では、各種の暖房用燃料材を売っています。が、暖房燃料専門店つまり昔の炭屋さんや薪屋さんを探してみることにしました。驚いたことに、重いブリケットの束を担いで配達するような炭屋さんはもう存在しない。代わりにホームセンターで配達まで請け負っています。薪屋さんはありました。が、専業ではなく自分の家でも薪ストーブを使っている人が、いわばホビーで他人の薪を用意している。私がコンタクトした薪屋さんは、親の代から薪ストーブのある家に住み、薪調達はもっとも安価で手に入る、市の木材競りに参加するのだそうです。市の広報誌を注意していると、5月ごろ競り情報が載り、そこで自分の家で使う以上の木材を競り落とし、薪にする手間賃を加算して販売しているのです。私が電話した時、即座に『ストーブの大きさは?』と聞かれ、一瞬戸惑いましたが、ストーブの焼成室の深さ、焚き口の縦横寸法を知っておくことが、薪割りに大事なのだと気が付きました。そこで私のストーブの各寸法を伝え、適したサイズの薪を注文することが出来ました。ちなみにその薪のサイズはホームセンターで売っている標準規格品の寸法です。昔、薪ストーブが暖房の主流だった頃には、薪割り人、薪屋さんが商売しやすい規格サイズが必要だったと思います。

昔、薪、とくればどうしてもオイラーの世界を思い出します。オイラーたちも春先に、今年営林署が競売にかける樹を見つけるために、森へ散歩します。彼らは切り倒される前のその樹が何処に育ったものかを重視します。南斜面か、北斜面か。それによって同じ量を買い込んでも、窯焚きの際のエネルギー量が全然違うのです。春先の日曜日、山の中で何人ものオイラー達がうろうろし、時に同僚として、ある樹の根元で評価を交換し合う。競り落とした樹は、山から直接窯場に運ばれるのではなく、それぞれのオイラーが確保している材木置き場に一旦保管されます・・・。

話は尽きないですが、昔の窯業地には窯屋の煙突ばかりではなく、独特の光景が四季を演出していたようだ。日本の田園地帯、秋の稲掛け風景などのように。


さて、薪が庭に積み重なり、ブリケットはホームセンターに注文し、遅まきながら越冬の準備が整ってきたところです。毎朝のストーブ準備も、オイラーの話を思い出しながらという余裕が出てきました。






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台所のストーブ



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上のダフト部分から熱は台所と背中合わせの部屋に流れます





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太い薪、細い薪、ブリケットが場所をとる、台所入り口









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隣の部屋はこうなっています







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地下のストーブ
奥の丸いストーブは、かつての風呂沸かし用






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ガスストーブも年代モノ
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by kokouozumi | 2013-12-10 07:51 | 人々 | Comments(0)

引越し完了 2013













新しい家での通信が可能になりました。
1ヶ月前テレコム(電話会社)に引越しの連絡をした際に、顧客番号、現住所、引越し先住所を伝えると、対応者はたちどころに双方の家の回線状態がわかってしまうらしい。「引っ越す先の回線はまだ解約されていません。しかも他の電話会社が入っています」やれやれ面倒なことだな・・とぼんやりしていると、電話の向こうでは「貴方のために特別チームを組織します。貴方は前の住人をご存知ですか?」前の住人・・ああシュテファンのことか、「え~と、名前は知っていますが、姓のほうはなんだったかな?」「xxさんです。」なんだ、他社と契約していた住人の名前まで判るんだ・・・。

結局シュテファンは引っ越す際にちゃんと解約をして、しかも外国に住むと伝えたにもかかわらず、契約期間がまだ数ヶ月残っているという理由で即時解約不可能だったという事情が、本人と直接連絡を取って判りました。

電話回線がつながるのは荷物を運び込んだ翌日。その日、特別チームとかの一団ではなく、たった一人の担当技師がやってきました。部屋の中の電話差込口と地下の配線盤になにやら計器を当て、それから10分ほど路上の箱(何の箱?)を調べに行って帰るなり「OK」の一言でルーターを接続。それだけで、スタンバイしていた私のパソコン上に接続マーク。今回はまったく私の出番が無い!というのは10年以上前初めてルーターなるものを装備した際には、テレコム職員(もちろん独逸人)が日本語バージョンのPCにルーターを認識させるために、彼がやりたい操作を代行しなければならず、2年前の引越しでは、電話で指示を聞きながら一人で操作することになりました。今回はもしもの場合のトラブルに対応する専門技師が派遣されたおかげで、楽な通信再開でした。





さて、引越し先ですが・・・初めてその家に案内された時、気になったのがこの地下室。


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正確には地下2階部分というべきか、地下室にある木製の扉を開けるとさらに数段降りた場所。すっかり地中にもぐった位置のはずなのに、なぜか小さな窓が付いている。巨大なワイン樽が二つ並んで置かれ、ドイツの古い家によく見られる、地下の自家製果実酒倉らしいが、今では大家さんのジャガイモが保存されている。小さな窓が気になった。単なる窪みとしての用途なら、壁に続いて塗りこめてしまえばいいものを、なぜわざわざガラスがはめ込まれているのだろう?その向こう側は土に埋もれているようだが、実は何かの際、叩き割ればこの空間に空気が流れこむようになっているのだろうか?猫ならともかく人間が抜け出すには小さすぎる。「ここは戦争中空襲があると、家族が避難所にも使っていた」と案内人の説明。

この家の建築は1922年。第一次大戦直後に一市民がいざとなったら避難部屋になるよう酒蔵を設備したのだろうか?調べてみると確かに第一次大戦後、防空連盟というような組織が出来、雑誌を発行して民間人へ防空に関する提案をしたり、民家が防空手段を設備する場合、公的な補助が受けられる・・・という情報も提供していたらしい。が、補助金制度が効力を持つのは1927年以降のこと。1922年建設の家に防空を考えた設備をするのは早すぎる?

大家さんとジャガイモの話をした。あそこの保存状態は完璧なのだそうだ。「昔、冷蔵庫が無かった時代だから、そのような地下に埋もれた部屋を食料保存に利用した。外気に影響されない常温食料保管室ということ。当時はパンも各家庭で焼き、そこに保存していた。」さらに大家さんの説明によると、第一次大戦中の大問題は食糧難だったから、戦争直後に建築されたこの家にとっても、食料の保存が第一条件だった、ということだ。

だがやっぱり、あの小さな窓がいったい何か疑問は残る。ガラス戸の向こう側がレンガなのか、なになのか良く見えず、ガラスを割ってみたいと、一瞬思ってしまうような。






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by kokouozumi | 2013-10-18 07:00 | Comments(0)

夏の夜









暑い日でした。

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そんな日の夜、集まるのは外がいい







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家の中にはだれも残っていないようで・・・











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窓1つ横に移動したら
あらあら、トイレに集まっているのは誰?
水遊びをたくらむ、女の子たち
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by kokouozumi | 2013-08-01 07:46 | 人々 | Comments(2)

ダリヤを見る夏 2013




早春のころ、アトリエの窓下で大家さんがなにやら庭仕事をしていた。
「それは何?」
「ダリヤの根よ」
「ダリヤ?この庭では見ないね。山のほうに?」

この大家さんも家の庭以外に近所の丘陵に畑を持ち
さまざまな果樹のほかに花を咲かせているらしい

「そうね、コンポストに植えておきましょう」
その場で二株ほどのダリヤの根を
窓の向かいのコンポストに無造作に配置した。

だから、今年のコンポストには次第に緑が茂り始め
夏らしい暑い日が続く今週、赤い花が咲いた。

ドイツに来てから、さまざまな夏を過ごしたが
今年はダリヤを見る夏・・・

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コンポストの横には中庭から表の家、表の道路に続く木戸がある。
猫ドアが付いている
もちろん今ではパンクが通行しているが

かつて、この家にはどんな猫がいたのだろう・・・







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さくらんぼの実が付き始めた。


いつも、中庭を捉えたアングルは、窓からカメラを向けている視線と
気が付かれているかもしれない。
アトリエから中庭に出るドアが無いので
窓から眺めていることが多かった。


最近、表側の壁は、ペンキ塗り替えがあって、
これまで、無造作に壁へ立てかけていた自転車を、中庭に置くようになった

それだけの変化で
中庭の存在がぐんと近くなった。

フライブルク時代の家のコンポストは
住人が野菜ごみを捨てていたので
鼠がちょろまかし
パンクやロックの恰好の狩場だった。
パンクの後ろに控えていたロックが待ちきれずに、前へ飛び出し
パンクから「さがってろ!」と、よく頭を叩かれていた。

ここのコンポストには食べ物が入らないので
鼠もいない
パンクは植木の世話をする大家さんの手元を見ながら、寝そべっている。
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by kokouozumi | 2013-07-18 07:32 | 人々 | Comments(4)

レンバッハ美術館の物語



ミュンヘン・レンバッハ美術館は2009年から改築のために閉館していた。増え続ける訪問者に対応できるよう、エントランス部分の増築が改築理由の一つだった。




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私も再び開館することを心待ちにしていた一人で、4年間の工事を終了し、今年5月の再オープンから約1ヶ月後、ミュンヘンでの仕事途中に、美術館閉館時間が17時ならぎりぎりの15時に、とにかく館内を一目見るだけでもと訪れたそこは、3つのチケット売り場とも、このような行列で30分ほど並ぶことになった。ミュンヘン市が管理する美術館は最近20時まで開館時間を延長するようになったので、15時は午後の訪問者ピーク時だったようだが、確かにこの美術館は人気があるらしい。

チケットを求めて並ぶ人々の背景にある黄土色の壁が、旧美術館建物の一部であり、増築はその旧外壁を内側に取り込むという方法で行われた。その黄土色の建物が美術館の名前に冠せられたレンバッハ氏の邸宅であり、改築前は表門をくぐり、庭園を横切って、画家であり貴族であったレーンバッハ氏がアントワープ・ルーベンスの家を真似したかったという支柱のある円形張り出しのバルコンから入るのだから、見学前からなかなか優雅な気分になれる美術館だった。そしてフランツ・レンバッハ自ら4000点も描いたという作品の一部と彼のコレクションの間をさ迷う内に、突如グループ『青い騎士』たちの作品群の部屋が出現するのだった。

増築後、黄土色の建物の一部を覆うゴールドのエントランスからは、『青い騎士』の部屋へ直接向かう裏道が堂々と用意されている。かつては階段踊り場に待機していた係り員がいちいち訪問者に示していたルートが、エントランス上方に一目瞭然の表示として掲げられている。多くの人々はそちらへ流れる。『青い騎士』が人気なのだろうか。彼らの作品群が持ち込まれたことによって、このレンバッハ美術館の知名度は世界的になった。だがそうなった経緯に潜むある男と女の出会い、二人の画家の遭遇から始まる物語に、あるいは人々の関心があるのかもしれない。

1877年ベルリン生まれのガブリエレ・ミュンター(Gabriele Münter)は1897年、二十歳になって、当時女子の方向としては稀有の絵画技法を学び始める。女性が芸術家としての道を究めることは難しかったはずだが、女流芸術家協会という門戸はすでに用意されてたいた。日本では明治というこの時代の女性たちを考えると、マイナーかもしれないが私は芸大出身女性漫画家、一関圭の作品を思い出してしまう。彼女はその時代に医者や画家へと、自分の道を求める女性たちを描いていた。
ドイツのミュンターさんもそのように、当時を突っ走った女性だったのだろうか。
デュッセルドルフ、コブレンツ、そしてミュンヘンへと学ぶ場所を移動し、それは受け入れてもらえる絵画学校を遍歴しながらということだが、絵画修行を積み重ね、やがて運命的な出会い、カンディンスキーが教鞭を取る絵画教室に所属する。
*1902年のこと、ミュンター25歳、カンディンスキー36歳、カンディンスキーがロシアでのキャリアを捨てて(弁護士)絵の道に入ったのは30歳になってから。画家としてのキャリアは殆ど同じ年数なのだが・・・
カンディンスキー率いる夏季講習という写真がある。彼の傍には女生徒ばかり写っているのだが、進歩的な教師であったカンディンスキーは女性たちにもきっちりと、芸術の本質を伝えようとしていた。彼の指導はミュンターにとって、画家としての道を切り開く大いなる力だった。いつの間にか個人的指導者のような彼に付き従ってミュンヘンからオランダ、イタリア、フランス、北アフリカまでも制作旅行を共にしている。
1909年、ミュンターはミュンヘンからアルプス山脈に近づいた、山の麓にある田舎町、ムルナウに小さな家を購入する。旅行の日々からミュンヘン近郊に制作基地となる場所を求めたのはカンディンスキーの意向でもある。

その家のことを私はフライブルクに住んでいた時、大家さんから聞いた。大家さんはガラス絵を描く人だったが、黒い森地方に伝わるガラス絵イコンは、基を辿るとロシアイコンにつながるということから、「カンディンスキーのガラス絵がそこにあるのだよ。しかし彼のガラス絵はバイエルンの農民芸術からの影響だが・・・」という話が忘れられず、いつか行ってみたいと願っていた家で、数年前にその機会を得た。

カンディンスキーはムルナウでその土地に伝わる農民芸術、家の家具に絵を描いてしまう風習に狂喜して、ミュンターと共に家の壁や家具にペインティングしてしまう。さらに彼らを訪れた画家仲間のヤウレンスキーが、その村の居酒屋で農民たちのガラス絵を発見した。ガラス絵はまず黒い線描によって対象物の形を分け、その中に明確な色彩が与えられ、絵全体がそれぞれの形に区分けされはっきりとした色彩によって輝きを持つ。ガラス絵のこの印象が、彼らの絵画技法に対する新たな研磨につながり、カンディンスキーやミュンターの画家仲間をマグネットのように結びつけ、フランツ・マルク、アウグスト・マッケ、ハインリッヒ・カンペンドンクなどが、彼らの絵の中に新たな色彩の輝きというテーマを求め始める。

ミュンターにとって、ムルナウの家は、彼女の絵画的発想を刺激する場所に他ならなかっただろう。その場所にある自然から拾う色彩、その場所に住む人々の精神的よりどころ、それを捉えるパートナー、カンディンスキーの解説。カンディンスキーはその家に集まる仲間と共に『青い騎士』という新しい集まりを発足させた。その頃のクレーの日記に次のような記載を見つけた。
「・・カンディンスキー、この男は人をひきつける魅力に溢れている。1ブロック隣に住んでいる。・・・このロシア人の絵は対象のない、奇怪きわまる画だ。・・
カンディンスキーは、芸術家の新しい集まりを作ろうとしている。近所の酒場で偶然出会ってから、私は親しく付き合っているが、つきあえば、つきあうほど、彼にますます深い信頼感を寄せるようになる。彼は平凡な男ではなく、並外れて明晰な頭脳の持ち主なのだ。・・・私は『青い騎士』の仲間に入った。」

ミュンターもカンディンスキーという教師であり、パートナーである人間の傍で培われていた。その温床はしかし時代に押し流されてしまう。カンディンスキーは1915年、革命のロシアに消え去って後、ミュンターの元へは二度と戻ることが無かった。当時ロシアとドイツとの関係は怪しく、ロシア人のドイツ入国が許可されなくなり、ミュンターはスカンジナビアに出向いて、カンディンスキーとの再会の機会を待っていた1917年、彼がロシアで結婚したことを知った。

それから10年、ミュンターが失意のうつ病を克服して、再び制作に向かい始めた頃、カンディンスキーから、ムルナウに全部放り出して行った彼の作品返却を求められ、1年近く法的な争いをすることとなる。
*カンディンスキーから自分の作品の返却を求められたのは1922年、法的な結論が出たのは1926年。その間に法的な争いとなった年数はわからない。
結果的に大作の数枚を返しただけで、殆どの作品は彼女の元に残るが、それはある金銭的な代償というよりも、むしろミュンターのほうが家賃を払い続けてミュンヘンの倉庫に保管するなど、負担を背負いながらも、守るべきものを確保したということだった。さらに第二次大戦直前にはナチスの目から逃れるべく、当時ミュンターの新たな伴侶であった、美術史家のアイヒナー氏とともにムルナウの地下室に隠し持つことになった。戦時中ミュンターはアイヒナー氏と共にその家でひっそりと暮らしていた。

戦後50年代になって、アイヒナー氏はレンバッハ美術館館長と知り合いになる。それからさらに5年の歳月が過ぎ去った時、美術館長は初めてムルナウの家の地下室に案内される。翌年1957年、80歳の誕生日を機にミュンターは大事に隠し持っていたカンディンスキー90点を含む、『青い騎士』たちの作品と自分の作品、カンディンスキーの書簡や写真をレンバッハ美術館(ミュンヘン市)に寄贈した。それだけで終わらずアイヒナー氏と共名の基金を美術館長に託し、ガブリエレ・ミュンターが亡くなった4年後の1966年からその基金は活動権をもち、ミュンターが残した大いなる遺産(作品群)を基に、ミュンターとカンディンスキー及び青い騎士メンバーの画家たちに関する研究が続けられている。

蛇足だが、カンディンスキーはバウハウスの指導者として再びドイツに暮らしながら、ミュンヘン、ムルナウを再訪することはなかった。また戦前にその土地で制作した自分の作品を再び目にすることも無かったし、当時の友人たちとの交流も途絶えてしまった。しかし同じくバウハウスの教師となったクレーと再会し、昔の仲間ヤウレンスキーにファイニンガーを加えて、1924年デッサウにて『青の4人』を結成した。







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by kokouozumi | 2013-06-09 02:39 | 美術 | Comments(0)

電車の中

電車の中で読む本は、気分のおもむくまま、とりとめもなく手にしていくのだが・・






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1時間の通勤時間(ドアからドア)のうち、電車の中に座っていることは30分ぐらい。往復では一応数字上、1時間の読書時間が一日の中に規則正しく確保されることになる。帰路は集中できなかったり、疲れて読めなかったりすることもあり、確実なのは通勤ラッシュ時間の後、乗り合わせる人の少ない往路30分。30分とはいえ毎日この時間があるということは、1冊の本を読破するのに有効なのだと、このごろ思うようになりました。

住居と仕事場が一体化していたとき、いつもゆっくり本を読みたいと願っていなかっただろうか。ある本を読み始めても、仕事場を持つ自営業者として、急ぎが発生すれば何を差し置いても、一日中、いや昼夜を忘れてその作業にかかりっきりになるもので、案外規則正しい生活とはいかない場合が多いのです。昔ながらの手工業者のイメージ、早朝から日暮れまでの労働は、肉体労働者の時間的限界や能率性を捉えているもので、それが昼夜を忘れる状況になるのは、どこかでサボっているだけの話だが。
話が矛盾するようですが、面白い本を読み始めたら止められなくなって、本来の仕事に取り掛からなかったという勇ましい話、手工業者の端くれになったばかりの学生時代なら・・・春闘の季節、長期交通ストを予測して、吉川英治の宮本武蔵全8巻を用意したのに、1日で終結して、翌日宮本武蔵を抱えて山手線を2周しました・・・なんて・・・言えたけど、仕事場を抱えた身分では、これが縛りというのか・・そうはいかない。
ですから、その場から離れ、短くても毎日の継続した読書の時間があるのは効果的なのです。

堀田義衛の『方丈記私記』もそのように、長い間読むことを中断していた一冊だった。日本からどの本をどの時点でドイツに持ち込んだのか、今となってははっきりしないが、学生時代に『ゴヤ』を読み、その後この作家の本をかなり集めた記憶があるので、その収集の1冊を、ドイツに来る時点で選択したのではないかと想像する。初版は1970年代だが、私の持っているのは文庫本1988年第1版で、以来30年t近い年月が流れる中で、読破したのは今回が初めて。

方丈記のあの有名な始まり、ゆく河のながれ・・・の部分はこの本の後半になってやっと出てくる。『方丈記私記』の冒頭は、目の前に起こっている大火の様子がまるで方丈記で描写されていることではないかと、堀田義衛が東京大空襲の最中に方丈記を再発見したことから始まる。そして鴨長明が実際に京の都で大火を見ていたのが長明20歳代のころなら(1177年)、堀田義衛が空襲にあったのも20何歳かの時。そして鴨長明が方丈記を書き始めたのは58歳、堀田義衛が『方丈記私記』を書くに至ったのも50歳半ばという700年をも経た年齢のオーバーラップがわかったところで初めて、ゆく河の流れは絶えずして・・・と、序の章が登場する。

若かりし時に体験した、大火、竜巻、遷都、飢饉、地震を鴨長明は50歳半ばを過ぎて、克明に描写しているのだが、堀田義衛は源平合戦から鎌倉時代へ、朝廷から武家社会への政治的移り変わりの説明を加え、その時代の朝廷衰退のような気運のなかで、中世日本文学はその世の中の騒ぎを無視しきった、世界に比べるもののないほどの抽象的世界、幽玄の表現であった、それが絶対だった。としながらも、その幽玄調をその時代の人としてただ一人鴨長明が、皮肉っていた。「あいつらがやっていること、三百年前の言葉で歌を作るなんて本当はたいしたことではないのだ。現在の言葉でものを考えるほうがずっと難しいのだ。」と、長明の弁を拾い上げる。しかしまたすぐ、長明はとげのある人だが、歌はあまりうまくないよね。やっぱり定家のすごさにはかなわない。自分も中世文学の幽玄を否定できないと、続くから鴨長明の面目はどうなるのかと思いながら、気が付けば藤原定家、源実朝、西行から吉田兼好までも、中世歌人の歌や文章を次々読んでいる。このように堀田義衛は中世の文学者たちを、まるで電車の中、隣の席に座る人たちのように話したあげく・・

諸行無常という言葉は、世の中のあきらめに近い観念的なことではなく、「冷静にして精確な認識のことを言うのである」と文学者の言葉の鋭さに出会う。この本は鴨長明の方丈記の鑑賞でも、また解釈でもない。それは私の経験なのだ。と冒頭にある。堀田義衛は明日をも知れない戦火のなかで、鴨長明の描写、定家の歌という、それぞれの中世文学者の冷酷な世の中とその騒ぎに対する距離感に、驚愕しながら自らの文学者としての自覚を持つことになる。そこから発したこの本は、鴨長明を棘があるとか、浮かれやすいとか、意地っ張りで付き合いにくいやつだとか、散々に分析した後、方丈という意味を優しく捉える

どんでん返しで、


終えている。









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カナダの姉の書(2012年)
あしべゆく 鴨の羽交に 霜ふりて 寒き夕べは 大和しおもほゆ

写真を撮った際、少しパースが付いてしまいました。ごめんなさい。
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by kokouozumi | 2013-01-15 08:20 | 美術 | Comments(2)


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