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オイラー 2011

9月20日からまたこの町です。







途中、フランクフルト空港から濱田友緒氏が合流します。
日本の陶芸作家として最初に塩釉焼成と熱心に取り組んだのは、濱田庄司。濱田家一代目が益子に入植して、まずおこなったのは地元の窯場で仕事すること。


京都窯業試験場時代、濱田庄司は1万個のテストピースを作るなど、まさに化学的知識をしっかり蓄えていたのですが、その後バーナード・リーチの住むイギリスに数年過ごすうちに、なにか発想が違ってきたのでしょうか・・・そうして益子では地元の人々が何をしているか見て、そのテクニックを吸収することから始まります。


イギリスではスリップウェアという民陶にすっかり見せられた濱田ですが、益子の土にその技法があわないと判断した後は、きっぱりその技法に携わることがありませんでした。その辺化学を抑えた人の判断力のようです。

塩釉技法もイギリス経由で把握したのだと思います。

濱田庄司は優れた文筆家でもありますが、塩釉に関して書き残したものは少ないです。しかし窯の話の中に・・・窯は三基になって、最初に築いた小さな窯は最近もっぱら塩釉焼成に使っている・・という記載があります。

濱田家に伝わる塩釉はなにかさりげなく、濱田窯の独特な作風に溶け込んでいる感があります。そのように2代目庄司の息子、晋作氏も三代目孫の友緒氏もさりげなくしかし、しっかりと塩釉の技をそれぞれの作風の中に定着させています。





明日、濱田友緒氏がヴェスターヴァルトに向かう時、二つの場所の塩釉の歴史が交差し始めます。







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ポスターは濱田友緒氏講演を紹介するもの
『濱田窯 三世代の塩釉焼成』
9月24日 11時~
へーア・グレンツハウゼン ヴェスターヴァルト陶芸博物館にて
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by kokouozumi | 2011-09-19 16:13 | オイラー | Comments(5)

オイラー2010 あの窯屋

急に又、あの町
オイラーの町へ行ってきました。







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築140年の塩窯を持っている若夫婦の夫が、窯の焚口で薪割りをしていたので、一瞬「おっ!」と思いましたが、暖房用の薪作りでした。2008年の焼成後、窯床が沈下し始め全面修理が必修となりましたが、材料調達などのメドが立たないそうです。古い窯でも焚き続けていたなら、まだ大丈夫だったかもしれない。彼らが修復する前の50年間、窯が冷え切っている間に、窯内部に付着した塩がレンガに浸透しぼろぼろにした。

窯屋の中は相変わらずきれいに片付けられて、いつでも焼成ができそうです。2008年に焼いた塩釉作品は通路に一並べだけまだ残っていました。それから青絵付けの塩釉炻器を作り続け数年前に閉業した工房から、焼成のみ依頼された作品も通路の反対側にわずか残されていました。窯屋への入り口、製品の展示ルームに多分不在期日をインフォするための日付一覧が貼り付けてありました。それはまた年間12箇所のドイツ中の陶器市に出かけ、商売をしてくる記録でもあります。このブログ前回にキャンピングカーが出てきましたが、陶器市廻りをする陶芸家たちはあのような休暇志向のキャンピングカーではなく寸胴のワゴン車に製品を積み込み、市の場所に製品を下ろして出来る車内の空間で寝泊りしながらの放浪商売です。多分ホテルに宿泊するようなことはしない・・いえ出来ないでしょう。私は何人かの知り合い陶芸家が持っているワゴン車を知っています。なんとまあ面白いほど機能的に寝台やちょっとしたテーブル・椅子を内部に備えていることかと、これで商売するという厳しい状況を知らなければ、夢の移動手段に見えます。



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窯屋では夏の間、映画会が行われるようです

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片隅にビニールシートをかけ、こんなクラシックなオートバイが保管されている




さて、この町にはなくなったものとまだ残されているものが、渾然一体となって同居しています。町のある通りを辿ることは、19世紀のオイラー工房、19世紀の炻器工場、そして20世紀に設立された陶芸専門学校の建物を見つけることになります。



以前、この町の陶芸祭りのガイドパンフレットに45の工房が紹介されていました。昔からのオイラー工房として、私の知っている限りの名前は約5軒ほど。その他は昔ながらの工房に新世代の陶工または陶芸家が入れ替わって住んでいるか、全く新しい工房ができたかしていると思われます。

築140年の窯場に住み、制作をするこの夫婦が一例になるような、持ち主の入れ替えは、現代になって始まった現象ではないはずです。この窯が築かれた頃1860年からの窯場数統計数値だけを読み取ると、1862年にへーアで32の工房が記録され、1879年にはへーア42、グレンツハウゼン13。(こちらの地域には水瓶製造者が多くこの年40人の従業者が記録されている。また両地の炻器工場は含まれていない。)へーアとグレンツハウゼンが統合された1938年の工房総数は39。戦後の1948年に37とわずかに減っただけだったが、1961年ついに6軒の数字が記録されています。この数値から代替わりしたのか、持ち主が変わったのかという事情は読み取ることができません。カトリックのへーアとプロテスタントのグレンツハウゼンでは、窯場が維持され方にも違いがあり、へーアでは就業した弟子が工房を受け継ぐケースが多く、グレンツハウゼンでは家族の次世代へと引き継いでいくことが多かったようです。
 この町のオイラー窯業の時代が過ぎ去った現在も多くの陶芸家が住んでいるのは、いまだに窯業に関連する公的な機関が多いことにも起因するでしょう。陶芸祭りガイドには7箇所の施設が記されています。ヴェスターヴァルト陶芸博物館、陶芸・ガラス原材料研究所、陶芸テクノロジーと原材料センターの他、4箇所は専門学校です。IKKG(陶芸・ガラス造形研究所)のことは既に最近このブログにメモしました。IKKGと同列でコブレンツ単科大の専門分野として陶芸技術部門の専門研究所もこの町にあります。さらに地域の職業訓練学校の陶芸部門がやはりこの町に置かれています。残る1つは公立(国立)陶芸専門学校です。

学校の所在地から、オイラー時代商館に開設された初めの窯業学校につながるのはいったいどの学校か、突き止めるのは不可能です。このような窯業の町ゆえに専門学校が次第に枝分かれして、今は4つもあると曖昧に理解しておきます。と言うのも、どの学校にどのような指導者がいたかで、時代により学校の番付が入れ替わりながら、現在に続いているからです。深く考えると頭の中がごちゃごちゃになるのです。どの学校にも造形指導、技術指導のカリキュラムがあり、体育の授業があるかないかの差になってきます。う~ん、それを決め手とするならば、私は体育のないIKKGに軍配を上げたいような・・・手仕事に体育は必要かもしれず・・・

続く


参考までに
2008年のこの窯屋訪問時のメモは下記に↓


オイラーが・・ 塩釉炻器窯 焚口部分
オイラーが・・ 塩釉炻器窯 2 窯内部と窯屋
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by kokouozumi | 2010-10-29 03:56 | オイラー | Comments(39)

オイラーが・・ 塩釉炻器窯から出てきた


1ヶ月前の続き、ちょっと記憶が戻ってきたかな。


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一ヶ月過ぎると、記憶がこんなにも薄れるのかと思いつつ、7月末に訪ねたオイラー窯に舞い戻っています。昨年の訪問時には2004年に初めて成功したときの作品が残っていました。そのひとつが私の手元にもあります。今回はは2008年早春に焚いた作品を見ることができたのですが、確実に焼成コントロールの腕が上がっていると思いました。肝心の作品がこんなに小さいので、それについてはまた適切な写真を用意して・・・・私の撮影の腕はぜんぜんあがってないのが苦しいです。





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思わず逆さの写真を撮ったのは、生素地を重ねて窯詰めした後が、よく見えたからです。手前側にクッションとなるシャモット土が置かれて重ねられたのでしょうか。後でこの写真を見ながら、塩釉の下に施されているのは、化粧土なのかまたは鉄釉の一種だったのかと、判断しかねています。釉の縮みよってできた黒い縁取りが、益子焼きの鉄釉、蝋抜きの絵の周りに似ているように思い出します。面白い効果だと思います。





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何気ない台所の片隅ですが、なかなか魅力的・・・
ドイツ陶器の博覧会のような片隅です。
実はこの台所、あのボルコの父親とオイラーものを拾い集めた方が住んでいた家のものです。
奥にあるのはこれもシュレジエン陶器でお話した泥土釉の器。オイラーが ・・ : 西の塩釉 東の泥釉
これは古いものではありません。ドイツの北のはずれに住む陶芸家の作品です。彼はオイラー窯の修復を手伝いに、わざわざ800K以上の距離を飛んでくる人で、東の泥土釉炻器も試しています。その手前は同じ人の塩釉作品、右横は昔の塩釉。左横の乳鉢に関しては、M野さんのコメントに返信しています。








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いつごろ焼かれた塩釉かな。私個人としては、これくらい顔料の淡い絵のほうが好きです。









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薪窯の還元状態が様々だった塩釉が並んでいます。特に真ん中の無地のものと、下の写真右端のものを比較してみてくださいね。塩釉は塩の蒸気が飛んできて素地に付着する際、素地の中にあるガラス質形成素材と結びついて釉を形成します。したがって釉の色合いも素地となる土の色によって違ってきます。下の写真右のは一般的に塩釉の器としてよく、知られているものですが、鉄分の多い(赤土)の場合です。
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一昨年まで、コバルト絵の塩釉炻器を薪窯で焼成していた工房が営業していたそうです。
ついにやめてしまったのですが。そこに残っていた素地に青絵付けのできる、これも最後の女工になるのかな?が絵付けして今回の修復窯で焼いたものです。
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by kokouozumi | 2008-08-08 06:18 | オイラー | Comments(7)

オイラーが・・ 西の塩釉 東の泥釉

ここにも窯を見に来たのです。外に無造作に器が並んでいます。あれ、ちょっと違うのが・・・そうこうするうちに管理人がやってきて・・

ボルコ・ぺルトナー氏の父親はかつてシュレジエン地方といわれた東からやってきた。この一言で私の興味は窯から離れてしまった。ずっと気になっていたドイツ東西の炻器窯業地。西側がここヴェスターヴァルトを含むラインラント、そして東はシュレジエン地方のブンツラウ陶器。私が知っていたのはこの2箇所がドイツ内で良質の炻器土が産出した場所であり、もしかしたらシュレジエン土の方が質良ではという話。

d0132988_0491078.jpgかつて土の輸送は簡単ではなかったから、炻器産業はドイツ全体に広がることなくその地に閉塞していた。一般的な情報は大雑把にそう伝えているし、東西の壁時代に隔てられて、マイセン磁器以外の東の窯業の歴史はよく知られていない。


「まずシュレジエンの歴史を頭に入れてほしい」とボルコ。然り、だがそのレクチャーは長かった。民族大移動まではともかく、13世紀中期シュレジエン国が形づくられていたところにモンゴル人の進撃で人口が5分の一に減ってしまい、新生ローマ帝国からの入植、つまりドイツ人のコロニーがいくつも出来て教会を建て、カトリック信仰をもたらした。しかしポーランド支配になってビショップは追い出され・・やがてオーストリアのハプスブルク家、ドイツプロイセンとくるくる支配が代わり文化の基盤となる宗教もかわる。
結局第一次大戦後、工業の起こりとともにシュレジエン地方の石炭産出がドイツとポーランドの争いともなる。

第二次大戦後シュレジエン地方の殆どがポーランド領になるとき。ボルコのおじいちゃんは敬虔なカトリック信者で、やがて来る社会主義の中で暮らしたくはなかった。一家はドイツに逃げる。異国なのか里帰りなのか。ボルコのお父さんはミッションスクールで学び神父になるはずだったがロシア戦線で90%の聴覚を失い、それでも出来ることを新しい土地で探すことになった。


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話は炻器土のことに戻り、ドイツ中世後期(15世紀)職人の組合ギルドが町ごとに組織され、その町で仕事できる親方の人数も決められたりしている。ライン河に沿った窯業地では大抵一つの町に5人の親方しか商売できなかった。修行した職人は他の場所へと移り住むことになるが、ライン河沿いの良土を知っている職人は当然のように同じような土を求めて移動していくと、それは図らずもシュレジエン地方への横移動となった。ドイツの中で陶土として地質学的な好条件、古生代デポン紀地層が新生代の火山活動で地表近くに隆起している場所は、ライン流域のアーヘン、ケルンから始まりヴェスターヴァルトから西に向かい数箇所を点在しながらブンツラウまで全くのところ横に移動している。

そこを陶工たちは移動した。ブンツラウの窯業開花に西からの職人達が影響しているとも考えられる。
ブンツラウ陶器の素地となる炻器土は焼結範囲が広くて高温で焼けたが、ちょっと荒くて焼きしまりが悪く、その為に表面に土化粧した。その土地の他のある土が釉薬のように艶を持って溶けることが発見され、ヨーロッパ中でまだ鉛釉が使われているとき、その地域だけは泥土釉を使い始めた。鈍い光沢を持つ茶色の陶器は地味だったが、当時の日常陶器として愛用され盛んに生産された。

19世紀末にオーストリアに倣って国立(後に州立)の陶芸専門学校ができた。
同じ19世紀後半にヴェスターヴァルトで炻器工業(オイラー工房とは別)が始まると東側のベーメ地方(シュレジエン地方を含む、ドイツ・チェコ国境近く)から磁器工場で労働経験のある職人達が入植してきた。
第二次大戦直後ヴェスターヴァルトに陶芸専門学校ができた時にはブンツラウから9人の陶芸技師が講師に迎えられている。陶工の里帰り。


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耳の聞こえないボルコの父親が陶工を目指したのは全くの偶然ではなかった。一時シュトットガルト窯業工場で働き、、1949年ヴェスターヴァルトを目指してやってきた。陶芸専門学校に通う昼間は奥さんが青絵女工として働き、自分は夜仕事に出た。5年後に自分の工房を持ち、陶工として町で一番目初めにトラックの運転を始めた。故郷ブンツラウの陶器を作りたかったという。でもヴェスターヴァルト物を作るしかなかった。そうしないと仲間に入れてもらえない。まだそんな時代だった。

その地の窯業が傾きかけているとき、町の人々は山積みの陶器に全く興味を示さなかったという。処分の方法は単純に廃棄。道路建設のトラックがその上を無残に踏み潰していく。よそ者の父親には700年間培われた特別な技術の陶器がその様に扱われることをどうしても許せなかった。時々工事現場にビールを運び工人達を休憩させて、一つでも良いものをと拾い集めたそうだ。しかしそこでも、よそ者は勝手に土地のものに手を出すなと言われた。その町出身の同調者が現れた。二人でとにかく拾いに拾った。

その後ボルコの父親は70年代、80年代も90年代もフランクフルトメッセで散々売りさばいたという。そのころはもうブンツラウ陶器を製作していた。茶色の泥釉陶器はヒットラーが茶色好きで奨励したため戦後そっぽを向かれていた。だから製造したのは泥土釉の次に19世紀ブンツラウで盛んになった孔雀の目模様である。それはイランからイタリアにもたらされた技法で、天然スポンジを使い、顔料をぽんぽん素地に軽く叩きつけていく。輪や大小の丸い平面スポンジを色を変えながら叩き、多色の顔料が孔雀の羽模様に器全面に広がっている。(上の写真左手二つが孔雀の目製品)


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父親が死んで、美術史を学んだボルコは母親の面倒を見ながら難しい工房経営を続けている。父親と一緒に塩釉炻器を拾い集めた人物も死んで、その娘と結婚した陶芸家があの塩釉炻器窯を修復し、昔ながらの方法で焚いた。
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by kokouozumi | 2008-08-06 01:05 | オイラー | Comments(2)

オイラーが・・ 塩釉炻器窯 2

焼成室側(42㎥)

穴窯や登り窯だったら窯の前後は、焚口の方が前で煙突のほうが後ろと、直ぐに判断できます。それがこの塩釉炻器窯はちょっとややこしい。
焚口は内部の一番奥に見える壁の下部分外側に位置します。そちらは窯の後ろ、炎はそこから床下の登り斜面の焔道を窯入り口方向、つまり前に向かって走ります。焚口が窯屋の外にあるので、後ろと観念付けられたのかな。窯屋の存在でもう一つ起こりえるのは、焚いている人には焼成室内の色や炎の状態が全然見えないこと!!


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三箇所の焚口からつづく三本の焔道を走る火は隙間だらけの床から入り込み、焼成室を垂直に通り抜けて天井の穴(煙道)から抜けていきます。東洋の穴窯や登り窯の倒焔に対して、炎が垂直に昇る昇焔式と分類したいところです。が、この地の塩釉炻器窯の形式は思いがけない混合型があったりするので無理矢理の分類は止めにして、この窯屋にあったのはこうだったとしましょう。このタイプは塩釉炻器窯の中で最も古い基本タイプで、大きさからも、燃料節減のため石炭併用という訳にはいかない、薪で焚くことを前提とした窯です。

三本の焔道に蓋をする方法は時代によって変化してきましたが、写真を眺めていると、それぞれの焔道には横切る橋が等間隔で何本か架けられ、橋と橋の間に渡された細い何本ものレンガが焔道の蓋であると同時に窯床を形成している・・(さらにその上に棒状粘土が横たわっているのはそこに器が乗っていた跡)・・・電気やガス窯のしっかりした床の上に耐火シャモット板を積み重ねて窯積めする現代人にとっては、見てるだけで足の裏がもじもじしてきます。

天井から浮いた状態で伸び、窯内の空間を横切っている3本の腕。これは窯の中の大事故を少なくとも最小限に食い止める役割がありました。それは窯詰めに、いわゆる耐火性の窯道具を使うことなく(そんなものがなかった時代の窯)製品は直接積み重ねられていたので(間に生乾きの土をクッション代わりに使った)重ね方の失敗や床の破損による傾きが起こった場合、ドミノ倒し状態の被害を腕と腕の間で食い止めようというものです。昔の窯詰め風景で私はこの腕の上に重ねにくい形の器(皿類)がまるで天井裏に隠すように並べてあるのを見たことがあり、ずっとずっと素材が何か不思議に思っていましたが、鉄製だった・・・。そのように聞いたとずっと思い込んでいました。

今回順番が逆になりなりましたが、鉄製ではないと確認しました。シャモット石でした。


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天井にはボツボツと穴が開いています。
天井の煙道となる火穴だけでこの窯(42㎥)の大きさで41個あります。(そのほかに窯側面両サイドに塩撒きの穴がそれぞれ10個つづありました。)

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これは窯屋内に包み込まれている窯の外郭。

窯内部は丸天井ですが、外側は四角の箱です。窯両サイド側面に並ぶ穴(塩以外のときは四角いシャモット板で塞がれている)が塩穴。窯天井両端の列が塩穴と煙道を兼用するもの、さらに天井中央よりに2列煙道のみに使われる穴が並んでいます。焼成の後半には天井部分の火穴(兼塩穴)から炎が飛び出してくるので木の屋根てっぺんまで約8mの距離があります。この木の屋根が原因で起こった窯屋の大火事は全くなかったということです。

続く・・

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by kokouozumi | 2008-08-02 21:16 | オイラー | Comments(17)

オイラーが・・ 塩釉炻器窯

メ止め土の白さが新鮮でした。今年2008年3月に塩釉の焼成がおこなわれています。
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約3m幅の壁、0,7mほどの高さに焚口が三箇所並び、その下にそれぞれ灰溜りが続いていますが、すべて泥土で塗り固められています。塗りこめられた跡を見ると、かなり緩い泥状にした土を使ったようです。(シャモット以外に何かの繊維も混じっている)

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この窯があるのは既にオイラーの家として紹介した、ヴェスターヴァルトの再びあの家です。 
正確には窯屋というべきでしょう。日本では窯のある場所を窯場と表現しますが、ここでは窯が完全に家屋の中に収められています。

この窯は1870年に築かれています。それ以前にもオイラーが何かしらの窯で塩釉炻器を焼いていたはずですが、この窯をすっぽり覆う窯屋がはたしていつ建設されたかは断言できません。
1870年、日本ではゼーゲルコーンでお馴染みのゼーゲル氏がこの地を視察した際、「・・これらの窯は全く雨ざらしにされている・・・」と報告している・・・

その後1907年に持ち主のオイラーが代わり、そのオイラーによる1954年の最後の焼成以後、文字どうり窯の火は消えていました。

ところが驚いたことに1994年からこの工房に入った陶芸家夫婦と友人陶芸家(ロストック近辺の北ドイツに薪窯を持っている。そんなに遠くからわざわざこの窯の修復に参加している、よっぽど薪窯好きの陶芸家らしい)がこつこつ修復を初め、10年後の2004年にオイラーの火が消えて以来50年ぶりの焼成が実行されました。その修復第一回目の焼成はしかし、途中で窯天井が落ちたところで終了。私はそのとき窯につめられていた陶器が、その上に降りかかった窯天井のレンガをくっつけたまま当地の美術館に展示されているのをたまたま見てしまい、びっくりしました。

あとから聞いた話ですが、その時昔々オイラーだった老人を急いで窯屋に呼びアドバイスを求めたそうです。天井が落ちてしまっては後の祭りかもしれませんが、現場で意見を聞くという判断はその瞬間にまたチャレンジする意気込みからだったのでしょうか。事故の場をオイラーに見てもらうという判断そのものに、私はその土地の窯業のつらなりを感じたものです。

そして2006年本当に2回目の焼成がおこなわれ、塩釉炻器焼成の過程を最後までやり切ったということです。今年が復活3回目。

特に塩が振りまかれる窯は内壁にも塩穴の外回りにも、塩が付着して残留し湿気を取り込んで窯壁をどんどん侵食していくので、3年に一度は壁の表面を削り、新しい漆喰を塗りなおすという修復が必要だったようです。ですから塩釉炻器という窯にとっては過酷なオイラーの仕事に耐えて築窯から約80年間窯が維持されたということだけでも、代々の持ち主が相当丁寧に費用をかけて扱ったのだろうと思います。もし最後の窯焚き以降、全くその様なメンテナンスを施さずに放置されていたとしたら、その後40年全く焚かれなかった時間は、もっと恐ろしい窯の傷みをもたらしたのでは、と簡単に想像できます。私が今回訪れたのは先の窯焚きから4ヵ月後だった訳ですが、既に窯内部の壁はきれいに掃除されていました。10年の歳月を費やして修復をした現在の持ち主は、すばやいメンテナンスの必要性を骨身にしみて感じているのかもしれません。 

・・・続く。


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窯屋の表に出ていた看板。
1907年のオイラーメニンゲンMenningenから明記されています。それ以前のティヴァルトは・・・現在の持ち主である陶芸家夫婦はその日、陶芸市に出かける準備で忙しそうだったので、厄介な話はしませんでした。今またティヴァルトに関して読むと、場所的な記述からは、やっぱりこの場所に工房を持っていたはず。どんどん昔にさかのぼると取り止めがないので20世紀以降の記載になったのかな・・・確かめなければ・・・
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by kokouozumi | 2008-07-31 21:41 | オイラー | Comments(14)

オイラーが…  塩釉 女工の仕事

19世紀、オイラーの窯業地で作られていた塩釉のコバルト絵付け
当時、取っ手付けと青絵の仕事は全て女性の仕事だったといいます。

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オイラー工房では、近所の主婦や母親が、家事の合間に手伝をしていたのですが、その中には14歳ぐらいから数年、個人的な訓練を経て、70歳になるまで、取っ手付けや青絵付けに携わる生涯を送った、そんな女性も少なくなかったようです。世間一般で、職業的教育を義務つけるようになったのは、第一次大戦後のことで、炻器産業が近代の過度期にはいった19世紀後半、1860年ごろの女工は、入った先の工房での扱われ方と、自分の資質が頼りの訓練を経て、仕事に従事ました。

ある女工は、一時間で100個の器に手伸ばしで両サイドの取っ手付けをおこなったそうです。一日700個こなしたそうです。エッ!私は思わず感嘆詞。息つく暇も与えなければ18秒に一取っ手。できるかもしれない?それはでも、その土の伸び具合や手につける水の量を覚えこんでいて可能なスピードでしょう。
一日8時間労働で700個となると、一日中手を水につけているような、厳しい仕事だったと思います。

だから多くの女工は青絵付けの方を好んだといいます。青絵つけ担当になると、道具も自分で作ります。肉屋さんにいって、あらかじめ豚の剛毛を頼みます。
それは屠殺時に熱湯をかける前の毛先が完全に残っているものが必要だからです。もらってきた剛毛を自分で束ねていきますが、房の真中が少し尖るように重ねていきます。描き具合は、この筆作りの器用さから問われていくことになります。筆先を鋏で切ることは禁じられています。これは私も経験ありますが、ちょっと使いにくいからと、穂先を切ってしまうと、全く使い物にならなくなります。青絵の作法は全部書いたら十ページにもなるくらい、まだまだあります。ここではもう一言、日本の染付けとは、扱うコバルト顔料の製造方法や描写方法が違うので、青絵としていることのみ書き加えておきます。

一日に700個と聞いて、女工の仕事は時々の臨時仕事だったのではないかと、思ってしまいますが。女工の給与帖というのが残されていて、週5日から6日働いて週給幾らという記録もあります。給与計算は単純な時間給でなく、製品の種類によっては、先のような両サイドの取っ手付け100個に対して幾らと計算されています。青絵つけの場合も同様です。ちなみに1963年、1リットル量の器、両サイドの取っ手付け100個分で!!たった0,9マルク。当時のお金の価値観を現代のものと正確に換算できないのですが、たった..と思います。
その様に一日働いても男性職人の日当の三分の一にしかならなかったようです。

写真の器は塩釉還元特有の灰青色の素地ではなく、窯の中で酸化気味になってしまったか、あらかじめ赤土が混じっていたようです。規格品ではなく単品注文で、贈答用に制作され、その家で大事にされて現代まで生き残ったようです。
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by kokouozumi | 2008-04-19 08:41 | オイラー | Comments(12)


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