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気付かれない存在










Stuttgartに住むようになり、頻繁に利用するSバーンの駅。ホームからエスカレーターを上って駅の連絡通路にたどり着いたところに、その販売人はたたずんでいた。

駅の地下連絡通路や地下エントランスという場所には、スタンドカフェのあるパン屋とかキオスク風のショップが点在していても、人々にとって通過するところでしかないし、出来れば早く地上に出て、この駅に降り立った本来の目的に向かいたいと思い、用事が終わって駅に戻っても、まっしぐらに切符自販機へむかう。その場所にたたずむ人、それはいろいろな人がいるだろうけれど、たとえある姿を目の端に捉えたとしても、いちいち気にしない、普通は。いちいち気にするほうが変かもしれない。そのように私は、切符自販機とホームに降りるエスカレーターの間で、新聞のようなものを持ってたたずむその人をいつも見かけていながら、多分何かのキャンペーン紙を配っているのか、StuttgartのことだからS21反対運動の小雑誌かな?と想像するぐらいで、気に留めなかった。

あの本を読まなかったら、ストリートペパーを販売する人という存在に、気がつかないままだったと思う。

『ボブという名の野良猫』にはThe Big Issue(ビッグイシュー)というロンドンで発行されているストリートペーパーのこと、その販売システムについて、作者ジェームズ・ボーウェン自身の体験として詳しく述べられている。ホームレスたちが路上で新聞を販売することで、彼らに仕事を提供し自立を支援する目的と、ホームレスの問題に世間の注意を向けよう、という狙いがあるストリートペーパーのヨーロッパ第一号は1991年にロンドンで生まれた。(雛形はUSAにあったらしい)そのビジネスモデルはたちまちヨーロッパ各国に波及して、ドイツでは1993年にミュンヘンやハンブルクに、さらにベルリン、デュッセルドルフ、ドルトムンと続き、今ではドイツ主要都市に拠点を置く30紙のストリートペーパーが数えられ、月ごとの発行部数総計は25万部になるという。

そんな訳で、野良猫ボブの本を読みながら、そういえばあの駅にたたずんでいたあの人も・・・と気付かされたのだが、その後も切符自販機の前に立つと、次の電車は何分発、急げー、という行動パターンになってしまう。ボブの本は日本語版も出たので、あまり内容に触れたくないがボーウェンも、人々が新聞に興味を持つ余裕が無い、地下鉄駅の入り口で販売することは難しいと書いている。だから販売許可証のための顔写真をボブと一緒に写してもらい、ボブの存在が販売力としておおいに貢献することになる。
全くのところ新聞の束を抱え黙って立っている人は、駅構内の壁に溶け込んでいくように、地味で気がつかない存在である。もしかしたらベストセラーになったボブの本は、いや一匹の野良猫ボブが、世界中のストリートペーパー販売人をスポットライトの中に立たせる役割を果たしたのではないだろうか。

うちのパンクにも何かそれくらいの力がないものだろうか、と顔を覗きこんでいると、パンクはすっかり勘違いして『もうご飯の時間ですか?』と擦り寄って来る。駄目だ・・・。しかし悲壮感漂うプロパガンダによって無理やり突きつけられるのではなく、猫によって社会の一面が浮かび上がってくるのは面白い・・と猫好きはポジティブに受け止める。

そしてついに、次の電車に乗らなくても、次の次の電車に乗ればいいということにして、
2,10ユーロのTrottwar紙を買った。そのうち1,05ユーロが販売人の収入になる。つまり販売人は新聞を半額で仕入れ、倍の値段で売ることで、仕入れた数を完売すれば、いくらかの収入とさらに仕入れる元金が手に入る、という仕組み。ストリートペーパーは、路上で彼ら販売人から購入できる新聞であり、StuttgartのTrottwarというタイトルは、この土地の方言シュベービッシュとさらに南の方言アレマン語にも共通する『歩道』という意味があるらしい。バーデン・ヴュルテンベルグ州全域の読者を対象にしたTrottwar紙は毎月の発行部数2万7千部。リストを見ると最も発行部数が多いのはハンブルクのHinz&Kunz紙で6万8千部(最新の数字)販売者数500人。1993年の創刊号は10日で3万部を完売したという実績を持つ。最近ニュースダイジェストという日本語新聞でストリートペーパーに関する特集記事が掲載されていた。ミュンヘンのBISS、ドルトムントのBODO、ベルリンのStrassenfeger、デュッセルドルフのfiftyfifty、そしてハンブルグのHinz&Kunzなど、サイトを覗いてみるとその土地でストリートペーパーが生まれた理由、難民問題、地場産業の低迷、など背景を知ることが出来る。

私が買ったTrottwarは2013年に出版された本に関する特別号で、方言シュベービッシュ語源学について、本を読むという人間の脳の特性についてとか、ホームレス人生を書いた本のこととか(その作者はStuttgartの町でホームレスが大事にしている場所のガイドツアーも企画した)、なかなか興味深い内容が紹介されている。




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by kokouozumi | 2014-03-02 09:16 | | Comments(0)

Roma 2010

市長選を控えた4月の末ごろ、地元新聞にはコソボ難民ロマに関する記事が連続して掲載されました。ロマに関する興味深い写真展を見たことはこのブログにメモしました。
その時から、フライブルクで生活するロマのことを知りたいと思っていました。







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昔々インドから千年もの年月をかけて、ロマたちはビザンチン帝国時代のバルカン半島にたどり着いた。ヨーロッパには現在約一千万人のロマ・・その殆どが東ヨーロッパと旧ユーゴスラビア地域に住んでいるとのこと。(しかし彼らの世界組織=ロマニ・ユニオンは1979年からNew Yorkに本部を置く。)

バルカン半島の内陸中央部分、セルビアとアルバニアの間に位置するコソボでは、スラブ系セルビア人とアルバニア人(インド・ヨーロッパ語族)との民族間の争いが続いてきた。社会主義連邦国の旧ユーゴスラビア崩壊を機に、1990年アルバニア人の自治州コソボはセルビア政府からの独立を宣言。それを軍隊で押さえようとするセルビア。やがてコソボ解放軍というアルバニア人過激派の登場。NATOの介入。何が何だか良くわからないまま2008年またもやアルバニア人の一方的な独立宣言によりコソボ共和国となる。長い戦争の間、その地に住むマイノリティーのロマたちからも犠牲者が出ていたはずだが、戦争が一応終結して平和が訪れたと思えた時から、ロマたちの新たな悲劇が始まった。アルバニア人過激派が、ロマは戦中セルビアに加担していたとして、今度は彼らを迫害し始めた。現在隣国マケドニアに集まるコソボ難民の殆どがロマたちだという。

今年1月からアルバニア人とボスニア・ヘルツェゴビナ人はヴィザ無しでEU諸国に(90日間)旅できることになった。EUのこの措置によって、心配されていたとおり、多くの難民がEU諸国に流れ出した。フライブルクにも1月から約140人のロマがやって来てそのまま不法滞在している。彼らコソボ難民ロマに公営住居課がとりあえず用意したのは12㎡のコンテナの連なり。さらにトイレやシャワー施設は24人に対し一組。この状況が市長選挙前に、緑の党、緑のオルタナティヴ党(緑の党から分かれた数名が組織)、SPD(社会民主党)の間で論争となった。結論を言ってしまえば、この論争は市の住居供給政策に対する見直しを迫り、特に難民住居を早急に改善する起爆剤となったし、公共住宅政策にフライブルク各党派の考えを示しながら、ロマの存在に市民の関心を引くことにもなった。



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写真出典 Badische Zeitung

しかし、コソボ難民ロマたちにとって、コンテナ住居などはもしかしたらどうでも良く、恐れは全く違うところにあった。コソボに送り返されることだ。
市長再選後、第一回市議会の日、議会場を見下ろす傍聴席には多くのロマが集まり、外ではロマ滞在権運動メンバーがバルカン音楽とともにデモを展開した。
議会における市議会議員たちは『コソボ難民ロマはフライブルクに留まるべきだ』という意見で一致した。

『コソボ紛争を逃れて、フライブルクには1999年から難民ロマたちがやってきた。総計690人(半数近くが年少者)が既に長い年月この町に住んでいる。今年になって更に約140人(子供66人)の難民ロマがやって来た。2006年、市議会は彼らを保護する決定を出した。就労して経済力を持ったロマ人には長期の滞在許可を発行すること。家族を養うのに十分な経済力が持てなくてもフライブルク市での滞在年数によって(家族として6年、個人として8年)長期滞在許可が発行される。現在230人が既に滞在許可を取得し、140人が2011年末までに取得のチャンスが与えられている。

2008年にドイツ連邦とコソボ共和国の間で、難民帰還受け入れの協定が結ばれた。それによってこれまで難民ロマを受け入れてきた都市では保護政策を変更するしかないのか?しかし彼らが帰還すべきコソボでは一般市民の失業率50%、ロマ人においては90%の数値が報告されている。紛争後の確実な再生プランも用意されていない。難民ロマには更に特別な事情がある。彼らの居住区は戦火で破壊されたまま、また過激派の暴力的迫害が待ち受けている。・・』
市報に掲載された議会報告には、だから今、ロマを故郷に返すべきではないという理由が説明されている。しかし彼らは一人あたり4,5㎡の空間と一日1,35€(約150円)で生活しているのが現状だ。その中から弁護士や通訳への費用を捻出してチャンスを掴もうとしている。ヨーロッパ福祉基金からの補助もあるが、市の財政的負担も大きい。

そこで、フライブルク市は州議会に難民ロマ保護を他市にも助けてもらえないかと手紙を書いた。5月末に届いた返信は、きっぱりと冷たいものだった。違法滞在の者たちを他市で助けるよう要請できない。州都Stuttgartの新聞にもフライブルク市が州議会にお願いした経緯が掲載されたが、記事への一般コメントには『フライブルクは陶酔している』とか『2006年の市議会決定は難民ロマへの招待状じゃないか』といったニュアンスだ。

そうなのだろうか?もうこれで新聞報道も立ち消えて、市民も彼らのことを忘れてしまうのだろうか。判らないのはもっと大きな場所での不調和音にもある。2008年に難民返還受け入れ協定がありながら、なぜEUはその難民がやって来た場所でフリーパスを実行したのか?新たにフライブルクへたどり着いた難民ロマは、強制送還を待つだけのために旅してきたのか。州議会のなかにも送り返し中止を主張する議員が現れ始めたが、ギリシャ経済危機もあるし、その件が中心テーマになる可能性は薄い。





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曇天の休日、私は彼らの住居地へ走ってみた。
そこは商・工業地域の中にあるので休日には道路にも建物の中にも人影がない。だから彼らの場所は直ぐわかった。ひっそりと人々が寄り添っていた。フェンスの外に自転車を止めたところへ、ちょうど数人の子供達が外から帰ってきた。すかさず尋問された。「何しているの」「ここを見に来たの」「ふ~ん、何で?」「新聞で見たから」
今度はこちらから質問した。「ここに住んでいるの?ドイツ語上手だね」「私は2年ここに住んでいるの。この子はここで生まれた8歳、でもまだドイツ語下手よ。こっちの子は今年来たばかりだから、私が通訳しないと駄目ね。」もう一人の女の子は可笑しそうに「私はドイツ人よ」学校でお友達になったそうだ。それで休日に一緒に遊んでいる。

なんということだ!子供達には言葉の壁なんか無い。今年来たばかりの子ももう直ぐ、何でも理解するようになるのだろう。8歳の男の子が私の自転車に触ると、通訳のできる女の子が「指を離して!彼らはそういうこと好きじゃないのよ」と、注意した。

向こうで大人の男がこちらを見ている。「あの人はドイツ語はなさないよ」「でも手とか足とか使えば話せるよ」とドイツ人の子がフォローする。

外交官にしたくなるような、素晴らしい応対を受けた帰り道、あの子たちの未来を考えるフライブルク市のヒューマニティー!なんとか頑張れないかと考えてしまった。



昨年のロマ写真展に関して
 ・・ : Roma  ロマ
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by kokouozumi | 2010-06-06 06:42 | 人々 | Comments(25)

Roma  ロマ










 ロマ?故国から出てさすらう人々を、ジプシーといったほうがわかりやすい。彼らの言語のなかに、今でもサンスクリット語起源のロマニ語が残されている。近年、彼らの言語を追及した説が有力となり、インドから移住してきたロマ民族と、ヨーロッパでは言い換えられるようになった。ジプシー「エジプトから来た人」ではないという民族意識より、ジプシーという名とともに蔑まれてきた過去を嫌って、ロマを名乗ることや、逆に自分達はインドから来た民族とは違うと主張する人々もあり、全てのジプシーがロマに言い換えられたというのでもなさそうだ。

 デンマーク生まれ、ヘルシンキで写真を学んだカメラマンJoahim Eskildsenとスウェーデン生まれ、ヨーロッパ数箇所の大学で哲学・歴史・言語学を学んだ女流作家Cia Rinneの二人組みが2000年から2006年までロマとの出会いを求めて、ヘルシンキからフィンランド国内さらにインド、ロシア、ルーマニア、ギリシャ、フランス、ハンガリーを旅した。その写真とエッセイが『ロマの旅』という本になり、現在ヨーロッパ各地を『ロマの旅』展が巡回している。

 1997年、ドイツの作家ギュンター・グラスは夫人と共にロマ財団を組織した。ロマの独自性を理解し、歴史の中だけでなく、現代の中で彼らの文化的、社会的状況を明らかにしようとの意図があった。
「この少数民族はヨーロッパ中の国々に暮らしているのだが、違う見方をすれば全く存在していないともいえる。彼らはヨーロッパ人の意識の盲点である。しかしさすらいの民である彼らは、この地に留まっているものを見ている。」とギュンター・グラスは発足の言葉に記し、ロマのルーマニアからポルトガルまでの滞在を保証するパスポートを要求したという。
グラス夫妻は25万マルクを財団の資金に提供した。財団はロマ救済活動やヨーロッパロマを多くの人に知ってもらう報道活動に、賞を与えることも役割として、1999年、2006年に各一組が選考された。今年2月に選ばれた2組のうち、『ロマの旅』は奨励賞を受けている。

 写真展の会場には、訪れた国ごとのエッセイ、ロマの歴史やエピソードからの抜粋が解説パネルになっていて、私は始めてロマに関するものを読んだ。ギリシャ、インド取材メモからジプシーとロマが混同された経緯を想像してしまう。

 ギリシャで最大の少数民族ロマは、ビザンティン時代からその地に生活していたそうだ。8世紀にはビザンティンの小アジアにいたと、いわれている。1347年コンスタンティノポリスにジプシー「エジプトから来た人」や奴隷を乗せた船がやって来た。彼らはペストから逃げてきたのだが、その後ヨーロッパでも黒死病が広がっていく。それ以前にロマはヨーロッパ領域のビザンティン帝国(東ローマ帝国)に到達していたらしい。統治者アンドロニコス王(1282-1328)時代の歴史家がNatという軽業師達を王が連れてきたと記録している。『ロマの旅』インド取材では、ビザンティン時代と同じようなアクロバットに遭遇している。Natはサンスクリット語でダンサーを意味し、インドの村人の楽しみと豊作祈願のために、命知らずのアクロバットをやってみせるプロフェッショナル階級だった。しかし14世紀の歴史家は彼らをジプシーの軽業師と記している。

 約35万人のギリシャロマの半数は、今一般市民と変わらない生活を送っている。しかし半数は社会の縁で、警察や官僚の無関心から全く保護されることなく生活している。

 バルカン半島から次第に広がっていったロマには行く先々で、自由な放浪を許されない状況が待っていたことを、ロシア、ルーマニア、ハンガリー取材に読んだ。

 フランス取材では現在を扱っている。1969年から、国の社会教育機関が、移動生活者の子供達のために移動学校を始めた。先生の朝一番の仕事は、「今どこ?」と電話し、椅子とテーブルそれに黒板や教材を積み込んだバスで彼らを追いかけることだ。移動生活者にとって、同じ場所に彼らのキャンピングカーを止めることが、年々難しくなっている。ロマを受け入れるという住民の署名運動が起こったりもしたが、不動産会社が多くの駐車場に車の高さ制限を書き加え、キャンピングカーが入れない。移動学校は毎日違う場所で、次第に町から遠く離れた場所で子供たちに授業する・・・。

 しかし、パリの傍にいるロマ、特に女の子達は、おしゃれな感じ。
取材先のどの国のロマにも、時々インド人の面影を見つけるのは、インドから来た人の末裔と、思ってみているからだろうか。そして彼らの目がどこか、その場ではないものを見ているように感じるのも、私の潜在意識からか。『ロマの旅』の写真とエッセイは人々の見てきたもの、見ているものを捉えていると思う。





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ハンガリー、1949年ロマたちに割り当てられた居住区に住むおばあちゃん。両親はこの土地を耕しながら森のコルホーズでも働いた。
写真出典Joakim Eskildsen



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ギリシャのロマ居住区はゴミで覆われた耕地に隣接する。
写真出典Joakim Eskildsen



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パリ
写真出典Joakim Eskildsen



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ヘルシンキ、キャンピングカーの中の食事
写真出典Joakim Eskildsen
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by kokouozumi | 2009-08-16 07:56 | 人々 | Comments(8)

Unen Enkh













日本へ帰国する前、Enkh(エンク)さんから案内が届いていた。
フライブルク・モラートインスティテュートでの展覧会で、モラート財団は美術のパトロンとして、モランディという静物画家の作品をまとめて所蔵し、その作品カタログを何冊も作っているが、最近は現代作家の展覧会を続けている。モラートインスティテュートで作品を発表すると「ついに、あそこでやったか」と、友人・知人から祝福されることになる。だからEnkhさんの展覧会をその会場で見ることを楽しみに、日本から帰ってきた。



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モラートインスティテュートは土曜日しか開いていないが、会期が2ヶ月以上と長いので、見たいものを見逃すことは無い。二つの会場があって、どちらも広い。在庫の作品を適当に展示してもつような空間ではない。そんな会場を二つとも使いこなすのは難しいのか、一つの会場のみと制限があるのか、大抵は二つの展覧会が同時におこなわれる。

今回はEnkhさんの「針金?鉄棒?作品」と、もう一つは写真展Roma(ロマ)という放浪の民をヨーロッパ中に訊ねたものだった。



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Enkhさんの会場の入り口に、「会期中に本人撮影の会場写真を網羅したカタログが出来上がります」の案内があった。そのインフォメーションと入り口からちらっと覗いた光景で、すっかり私の撮影意欲がなくなってしまった。単体としても群としても美しいマチエールを描く会場風景だが、今回のそれぞれの作品は背が高すぎて、アングルが選べない。それにあの細い針金の集積に、空間を持たせて写すなんて・・・

それより、本人がどんな撮影をするか、つまりそれはこの作品の作者が何を考えているのかに迫るようで、もう待ちどうしモードになってしまい、写真撮るのはヤーメタ、ということでのんびり見ることにした。

でもこの馬はすごい3mあるかな!
なんと向こうには作りかけのパオまである・・・



どうしても、職人的な見方をしてしまうが、Enkhさんが針金をジョイントした痕跡は、どれもが作品の美しいディティールとなっている。やった仕事の全てが、使った素材の要素を邪魔しなければ、つまり素材を殺さなければ、そのように見える。繊細な計算で、できることだろうか?私の職人の頭では、どうしても手で覚えたとしか、考えられない。余計な説明でEnkhさんごめんね。


Enkhさんのことは以前にもメモしています。
Unen Enkh

展覧会は8月14日、22日、29日の土曜日にまだ見ることができます。
会場 Morat-Institut für Kunst und Kunstwissenschaft
Lörracher Str. 31, 79115 Freiburg I.Br.
Samstag 11 - 18 Uhr
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by kokouozumi | 2009-08-09 07:10 | 美術 | Comments(4)


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