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Haus der Kunst





映像 × 映像

Bilder gegen Bilder ( 映像 対 映像 または 映像に反抗する映像 )というタイトルから、一体どんな展覧会なのか想像できない。だから現代美術は面倒なのよと思いつつ、まあその映像とやらを眺めていれば何のことかわかってくるでしょうと、深く考えないことにして展示室(12室)に向かう。

現代の美術館では、額縁の中の絵画を壁に吊るすのではなく、プロジェクターを駆使して映像を壁に並べることが出来る。その映像は壁ではなく、ある展示室の真ん中に設備されたパネルへ投影されていた。床から3mほど高さがあるパネルが、その前に立つと部屋全体をさえぎって、作品のみと向かい合うことになる。音はパネルから約2m離れた場所に下がっている半球形の透明な傘の下に立つと、その場所のみ聞こえるようになっている。

白いパネルスクリーンの上半分に、赤いクレヨンを握る手が映し出される。赤いクレヨンが、ある箇所で執拗に渦巻状の点を描いている間に、くぐもった女性の声が聞こえてくるが、何を言っているのか聞き取りにくい。もう1つの映像、軍服を着た男の上半身がぼんやりと現れてくる。次第にその男の姿が明確になって、赤いクレヨンの点と男の右目の位置が重なり合った時、『私の父はScharfschütze・・・』という女性の声がはっきり聞き取れた。それが最後のナレーションだった。私の耳はScharfschützeという音に反応した。この言葉は、最近のテレビ、ラジオ、新聞に頻繁に登場していた。スナイパー(狙撃者)を意味し、シリア内紛を伝えるニュースでは、政府軍Scharfschützeが・・と、特にホムスの町で対立が激化するとともに、その言葉をよく耳にしていた。

狙撃者というヒントを与えられて、もう一度ビデオを見た。くぐもった女性の声は、日にちと数を伝えているらしい。11月2×日、兵士2、ドライバー1。11月2×日、兵士4。最後は『1992年12月3日、私の父、狙撃兵はもう一人の狙撃兵に、右目を撃たれた。』で終わっている。なんということだ。意味がわからないまま、シンプルで美しいと感じながら見ていた映像の伝えるものは、そういうことだったのだ。作者の女性は1982年にサラエボで生まれ、1992年―1995年のボスニアの紛争で父をなくした。2007年に『狙撃兵』というこの映像を発表している。

Bilder gegen Bilderの展覧会には19人の制作者による作品が集められている。そのうち3人がボスニア・ヘルツゴヴィナからの参加。他にレバノン、イスラエル、パレスチナそれにアメリカから複数の出品がある。戦争あるいは紛争を生々しく体験しながら育った、新しい世代人による映像作品であるらしい。

これらの作品群のどれもが、上記作品のように、自分の、自国の、あるいはメディアで目にした紛争というものを、直接的にドキュメントして反戦プロパガンダにしているわけではない。メディアアートを志す若者が、昨今日常生活の中で頻繁に流されるようになった紛争を伝える映像に、それぞれの観点で反応した作品郡といえる。それが世界の現状はどうなっているか?という設問を鑑賞者のなかに提供して、メディアの映像批判や政治的関心に結びついていくかもしれない。

たとえばドイツからの作品『夜』(1991年から1996年)のシリーズでは日常の場所、公園やアパートを暗視撮影している。この撮影方法は第2次湾岸戦争の際、スターライトシステムとして開発され、US軍がバグダットを爆撃する映像として、テレビに登場した。緑色のモノトーンで捉えられた夜景写真を、制作者の個性から生まれた作品であると鑑賞しながら、日常の場所が危険を帯びた空間に変貌していくようにも見え、そのような連想には、戦争・暗視撮影・爆撃という図式をいつの間にか与えているメディアの影響があるらしい。

2002年9月12日発行の世界中の新聞一面を収集した作品もある。ツインタワーに飛行機が突っ込んだ瞬間を捉えた有名なシーンを第一面に持ってきた新聞がどれだけあったかを並べて見せている。100以上の新聞が並ぶ。ある国際的な事件の際、写真配信会社の威力が、どのように機能するか一目瞭然に見て取れる。

紛争を伝える写真に対する批判的な姿勢が、前出作者以外の二人のボスニア作家に見られた。それは紛争の中で育ち、生き延び、今その国の映像アーティストとして、本当の証言を聞いて欲しい、という避けられないテーマなのかと想像した。その1つ、ボスニア紛争を伝える国際賞を受賞した写真に対して。爆撃を受けて倒れている若い女性(J)が被写体となっている。Jは片腕をなくしたが、一命をとりとめた。Jの友人は紛争後、映像アーティストを目指す中で、Jと国際賞を受賞した写真との関係をドキュメントしていく。タイトルは 『私たちに残されたものが、私たちの写真』


プロフェッショナルな写真技術に関することにはお手上げだったが、Bilder gegen Bilderという展覧会のタイトルは、映像との出会いから、またつぎの映像が生み出されることを意味しているらしいと、作品を辿りながらわかってきた。




この展覧会が開催されたのはミュンヘンのHaus der Kunst(芸術の家)美術館。国立でも州立でもなく、財団が管理する美術館だが、とにかく建物が大きい。私がよくその美術館を訪れていたのは10年以上も前のことで、いつ行っても何か面白い展覧会をやっている、という印象があった。1999年には友達の画家夫婦に誘われ、何の展覧会か判らないままフライブルクから4時間車に乗ってたどり着いたら、パウル・クレーとライオネル・ファイニンガーとマックス・エルンスト展を一度に見ることになり、へとへと・・・なんて感じている間も無いくらい、まさに血眼になって鑑賞した。
最後は画家夫婦が疲れ知らずの絵画論など交わしている脇で、私は入り口の外階段に横たわりながら、唯一の感想『この建物は大きすぎて広すぎる』を述べると、『ここはヒットラーの美術館だったのよ』の返事が返ってきて、階段の上で思わず起き上がったことを覚えている。

1999年のあの近代絵画狂乱のような時代が過ぎると、2000年からは建築ドキュメントの傾向になり、2003年からはデザイン・モードへと変化してきたのは、館長の交代によるもの。19世紀にバイエルン王の要請で、ドイツ絵画の展覧会に相応しい建物として建設され、1937年からドイツ国家社会主義の政権下、国家美術館となり、1945年の終戦直後はアメリカ軍の社交クラブ、それから博覧会会場となり・・・複雑な変遷の歴史を持つこの美術館は、その足跡ゆえに、常に批判的な視線も浴びているようだ。その圧力に対立せざるをえない館長として2011年に就任したのは、なんとナイジェリア出身のEnwezor(エンヴェツォーア、正確な読み方かどうか?)氏。ニューヨークで文学、政治学、映像技術を学び、2002年のカッセル・ドクメンタはじめ、多数の国際美術展ディレクターを務め、キュレーターとして高く評価されている人物。Haus der Kunstは所蔵作品を持たない美術館なので、Enwezor氏の手腕がむしろ生かされるのだろうか。財団では館長職を5年交代としている。その限られた時間の中で、Enwezor氏がさらに何を構成していくのか興味深い。
まず美術館訪問者に優しい改革として、どの展覧会も一度チケットを購入したら、会期中何度でも入場できるようになった。










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美術館前面。現在3つの展覧会がおこなわれているが、私は半日かけて、一つの展覧会しか見学できなかった。



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入り口は建物の大きさに対して、控えめなこの白いドア






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美術館に隣接するのはイギリス公園。美術館を訪れた機会に、この公園を歩いてみたいと、いつも思っているのだが、展示室を歩きまわった後、さらに散歩なんて不可能で、実現したことがない。イギリス公園を流れる渓流 小川は美術館の隣でちょっとしたウェーブになっていて、夏の午後はサーファーがきている。
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by kokouozumi | 2012-08-21 07:10 | 美術 | Comments(7)

カメラのお話、これも!

骨董品?


ドイツ陶芸チーム同僚が、M野さんの記事を読んで、つい書いたそうです。
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by kokouozumi | 2007-12-14 18:37 | Comments(0)

カメラと小麦粉で第2アドベントを迎える!

 カフカの「アメリカ」(池内紀訳では失踪者)は―
・・・故郷のドイツで年上の女中に誘惑され、子供まで宿してしまった16歳のカール・ロスマンは両親の手でアメリカへ追い払われた・・という唐突な書き出しで始まる物語です。カフカ研究はその親戚にも及び、つまり父方の従兄ローベルト・カフカは1896年、女中に誘惑され子供が出来た。ローベルトの兄オットーは1904年にアメリカに渡り首尾よく成功者になった。ローベルトの弟フランクは16歳の時、やはりアメリカに渡った・・・カフカはこの親戚3人を総合して、カール・ロスマンを作り出したのだろうか??

私がこの物語を思い出したのは、時代の為です。もともと1800年後半の30年にドイツからアメリカに移住した人達が多かったという話から、今回のテーマは発生しました。それで確か、カフカのこの小説がその時代の背景を捉えていたはず・・と。
カフカはアメリカはもとよりニューヨークにも行ったことは無かったのですが、多分従兄弟が送信しただろう、マンハッタンの絵葉書や読んでいた雑誌などが、後から執筆当時の資料として発見されています。雑誌にはその頃の著名なジャーナリストによるアメリカ記事が連載されていました。アメリカが、パリよりもロンドンよりもイメージの中心だったという印象をカフカも持っていたのでしょうか。カフカとカフカの親戚だけで、当時を語るなと言われそうですが、全くそうなのですが。
ヨーロッパからアメリカへの移民は、1841年から60年まで約450万人、そのうちアイルランドから35%ドイツから30%。61年から80年まで、アイルランドからがぐ~んと減って、ドイツは同数。1881年から1900年までは総計900万人の移住者でドイツからの約200万人がトップ。その後ドイツからは急激に減ってしまいます。
時代のことは、特にヨーロッパにおいては国ごとに考えるより、各国の歴史や経済の事情が重なり合っていると思いますが。

1849年、19歳のドイツ青年ボシュ、21歳のロムは偶然同じ年にアメリカにわたります。それからまたまた偶然にニューヨーク州オンタリオ湖岸のロチェスターで出会い、やがてボシュロム社が生まれます。コダック、ボシュロム、ゼロックスなどの光学企業で知られるようになる前のロチェスターはなんと小麦粉の町といわれたそうです。

ここからはM野さんにバトンタッチです。

アメリカの写真工業(カメラのことだけで無く、印画紙やフィルムまで含めたこと)に、有名な企業ではボシュロムがあります。レンズメーカーでもあったし、シャッターメーカーでもありました。
 なぜかよくわからないけど、ロチェスターにレンズ職人とか家具職人とか集まってきていたらしいです。コダックはアメリカ人が創業者ですが、その拡大にはロチェスターに集まっていたドイツ系移民に負う所がある様です。ドイツ語ができる事でドイツの光学技術を導入しやすかった事もある様です。
 なお1910年に完全機械式シャッターを作ったのは、ルドルフ・クラインとテオドール・ブルックのドイツ系移民です。大発明なのですが、あまり知られていません。
お気付きのことだと思いますが、第一次世界大戦以前の古い話しです。
 それにしてもカメラの輸入大国であり続け、フィルムの消費も世界一を続けていた国、アメリカでは、世界的に有名な機構を持ったカメラが生まれなかったのは、かなり謎なことです。
 実は簡単で、家庭での記念写真ばかり撮っていてそんな複雑なカメラはいらなかったから、が答えです。このため木製大形カメラが家庭用であった(5×7インチのフィルムとか)し、特にこだわらない人は本当にやすいカメラ(それでもフィルムは六センチ幅)だったりしたのです。それじゃプロはどうなるか。報道写真でも4×5インチのフィルムを使っていたのですよ。古いアメリカ映画で報道陣のバカでかいカメラあれです。スポ-ツ用のカメラにいたってはみ みかん箱くらいの巨大な箱だったりしました。これって1920以前の話でしょう、と思うでしょう。なんと1950まで続きます。でかくても重くても体力で勝負!そんなカメラの使い方です。
 ドイツ製やヨーロッパのカメラは高級品で、主に金持ちか軍用、一部プロのものでした。それでも売れました。アメリカではやすい商品を中心に大量生産を目指します。それが崩れるのが大戦後、カラーフィルムに切り替わったからでしょう。一時高級品も出ますが、アメリカからカメラの生産は無くなります。これはアメリカのほとんどのカメラメ-カーをコダックがもっていたため、不採算部門を切り捨てたためです。
 それではアメリカの写真工業は、なにかオリジナルな物をつくり出していたのでしょうか。第一次世界大戦前には、木製のアンソニー社のスタジオカメラ(写真館の木のカメラといえば分かりますかね。折り畳みできない、カメラと脚が一体のものなのですが、基本的な操作は現在の大形ビューカメラと同じ事ができるものです。後にスコビル社と合併、アンスコになりアグファと提携する)がありますが、それ以外では、実は軍用品です。特に偵察カメラなんか一流です。
 一般にはドイツカメラのオリジナリティが言われますが、アメリカはそのジャンルに見向きもせずに、オリジナルな軍用品ばかり作っていたので一般に知られる事が無いのです。
 戦後のアメリカのカメラでオリジナルな物があると、大抵どう考えてもアマチュアの航空写真用だったり、報道用だったり、徹底的に記念写真用だったりします。
 こんな事が起きるのは、アメリカが初めからカメラ輸入大国だったせいでしょう。逆にヨーロッパはイギリスを除いて(実はイギリスも途中からカメラ輸入国に変わる)輸出する側なので、オリジナルと高機能を目指して開発せざるを得なかった結果でしょう。特にドイツで進んだのは、まったくこのためだと思われます。実はイタリアやスイスでも高級品カメラが作られたのですが工芸品に近く、量産でドイツに負けたとおもわれます。
 ちなみに、カメラは第一次世界大戦までほとんど木で作られていました。カメラは以外とお国柄を表しています。特に第一次世界大戦前のものは木製がほとんどなので、面白い物があります。工芸品のイギリスとか、どこかいいかげんなフランスとか、徹底して合理主義(作る側にとって!)のアメリカとか。初めにオール金属で作ったドイツとか。

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by kokouozumi | 2007-12-07 04:30 | Comments(9)


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