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路上にて





土曜日には多くの大道芸人たちが並ぶこと、シュトゥットガルトの中央駅から王宮広場まで伸びるメインストリートでも例外ではなく、その中で最も多くの観客が取り囲み、それゆえ最も広い場所を確保して技を見せているのはTruCruチーム。

2007年にシュトゥットガルトで結成されたTruCruはブレイクダンスの5世代目ということ。現在のメンバーは、大学生、写真アーティスト、体育専門学校出身者、鋳物職人、バレーダンサーと本業は多岐にわたっている。次の映像から誰がどの職業人かを探ってみるのも一興かも。







TruCru 5世代目という数え方は、1970年代ニューヨークに発生したストリートダンサーたちを一世代目としているのだろう。
そのいわゆるヒップホップ初代のブームがアメリカで沈滞しつつある80年初頭、ドイツメディアにブレイクダンサーの映像が突如流れ込むことになった。1981年、レーガン政権が始まり自由主義経済政策の一環として、社会保障費削減がアメリカで実施されたことは、ドイツ内で非常に関心を持たれたメディアテーマで、連日のようにテレビ報道されていた。この政策によるアフロアメリカン(アフリカ黒人系アメリカ人)やヒスパニック系移民たちへの影響はいかに、というのが報道の要だったので、ニュースの背景には必然的にニューヨーク・ブロンクスの情景が映し出され、そこにあったのが三大ヒップホップシーン、落書き、ラップ、そしてブレイクダンスだった。(音楽性としてDJテクニックが4つ目の要素として組み込まれている。)ニューヨーク・ブロンクスの路上に出現した彼らの目指していたものは、ラップのようなリズムと言葉遊びを肉体で表現すること。体の形、足の上げ方、手の振り方にも記号的な意味があったそうだ。ニューヨークの初代ヒップホップはブラックな文化を根源にしながら、トゥシューズも劇場も、キャンバスもアトリエも、楽器もスタジオも、さらに武器もない人々が、自分の肉体や声、公共の壁を使ってぎりぎり勝負に出た結果だった。

この情景に目を奪われた世代がヨーロッパ・・多分世界中で生まれたヒップホップ2世という事になるらしい。

1990年代になると、ヒップホップは単なる各都市の風景的な装いにとどまらず、落書き、ラップ、ブレイクダンスのそれぞれの分野から傑出した存在がイコンのように浮かび上がってきた。特に落書きがすごいことになり、バンクシ―(イギリス)、キース・へリング、バスキア(イギリス)などの落書きを、多くの美術館が競って展示するようになった。芸術という事になってしまった彼らの作品は、現在でも画商たちにとって、時には億の単位を生み出す商品であり続けている。






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バンクシ―作品 




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キース・へリング作品



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バスキア作品





ブレイクダンスの世界でも世界大会、世界チャンピオン、世界セッションという催しが次々発生した。現在のブレイクダンス5世達から選ばれる世界チャンピオンクルー(Crew=チーム)はもはやニューヨークとは関係なく、(ブレイクダンスなら韓国と現在は言われているそうだ。それにも関わらず!)なんとドイツのあるクルーがここ数年トップの座に座り続けている。しかもファイナルで対抗したのは、地図帳で確かめないとどこにあるかわからない国、アゼルバイジャンのクルー。そのメンバーはソロセッションの上位から3位までを占めるという強敵だったのだが、この技で勝ってしまったの?というドイツクルーの調子も是非見てほしい。この変容ぶりはもはやヒップホップではない?いや都市の文化、その地のアイデンティティーにかかわるものとしてヒップホップの流れを立派に受け継いでいる?












おまけ 左側がDDCクルー




・・
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by kokouozumi | 2016-09-04 07:10 | 人々 | Comments(0)

作品 その2





もうすぐ10月。冬の準備や冬の前にやるべきこととか、いろいろなことをもう後回しに出来なくなった。木の柵や戸に保護ペンキを塗らなければ。そのペンキを探しにホームセンターへ出かけ、ついでに薪も買い込む。買い物を積み込んでの帰りがけ、こんな作品に出くわした。



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鶏小屋のある庭からは廃墟が眺められる。鶏小屋にはちゃんと鶏専用の入り口が開いている。一匹の雄鶏がいかにもうるさそうに鳴いているようなのはペーターソンとフィンドスの話を思い出す。私はペーターソンとフィンドスの動画でこの鶏小屋のつくりを知ることになったのだが、この町に引っ越したら、昔農家だったらしい造りの家が多く残っていて、そのような家の中庭にある納屋には隅のほうに必ず小さな鶏専用の出入り口が残っている。



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作品はある物体の周りをぐるりと取り囲んで描かれている。
このキツネさんの左右を見ればその物体がなにかばればれだが・・・






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柔らかな白とグレーの陰影でやさしく描かれている羊が2匹。単純そうでなかなか丁寧な描きこみの、この部分から作品が始まったのではないかしら。







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羊や牛達の牧場と反対側には、のどかという言葉に対して理想的な家が。もちろん犬も猫も住んでいなければ。





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しかしこのワン君、遠目にはおとなしそうに見えるのに、玄関の注意書きをよく読むと、「噛み付く犬に注意」ということだ。






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鶏と羊と牛と犬と猫・・・は見かけたが、人間は一人も描かれていない・・・
しかしこの場所にもかつては領主が居て、領主の館が高台に聳えていた。さてこの館から建築様式を探り出し、この場所が何処なのかを割り出すことが出来る人は?
それが出来たら、絵の作者がこの車に乗って何処に行きたいのか、分かるだろう。








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制作者をちらりと見かけた。小柄なおばあさんだった。









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助手席側のバックミュラーに描く、ペンキを買いに来たのだろうか?
一体どのくらいの時間をかけて、この絵は描き続けられたのだろう?
どんな場所で?
おばあさんはさっさと買い物に行ってしまった。車の周りをひとまわりしながら絵を追いかけていると、聞いてみたいことが次々思いついて、おばあちゃん早く帰ってこないかな、とホームセンターの入り口につい目を向けてしまった。

いつか又この車とおばあさんに会えるかもしれないという楽しみが出来た。

この町に引っ越してからそろそろ1年。
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by kokouozumi | 2014-09-26 07:23 | 美術 | Comments(0)

作品

作品制作の現場は大抵、秘密裏に行われているものです。
5月のこの場面も今日まで公開を控えていました。








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作品そのものは・・・後からの写真で分かるように、この彼がこつこつ作っていたものです





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2種類の作品を2重構造にする段階で
間にアクリル板を置き、3重の効果を作り上げようと、言うことで仕上げの場面に父が登場。





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3重構造が、美しい効果となるために、慎重な作業が続きます。
父の顔には疲労がにじみ・・・午後9時





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用意された夜食は現場撮影者の私が楽しむのみで
父と子には関係ない






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このトマトいいよね!
今繰り広げられている場面は、複雑な構造をまとめる仕事だけれども
実は、こんな新鮮なトマトを描くセンスが、隠されている。






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荒削りな一筆書きの中に、何でこんな靴下三本が隠されているの
作者が遊んだ瞬間が面白い






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別な構造コンセプト、
千手観音をすぐに思い浮かべるけど
観音様の本体はドイチェポスト、つまり郵便局の小包送り状に描かれている
周りは手の素描・・・デュラーの手まで
ドイチェポストは僕の意識を届けてくれるだろうか・・・






そう、この制作現場は美大受験の作品作り
彼の元に、今日合格通知が届いて

制作現場公開します
おめでとう!!
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by kokouozumi | 2014-08-02 06:45 | 美術 | Comments(0)

ドイツに戻っています










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10日余りの日本滞在を終えて、ドイツに戻っています。
滞在最後はいつものように東京の定宿に宿泊して、近くのデパートや本屋をうろうろするのですが
今回も・・・やっぱり日本のキャラクター文化の健在ぶりに遭遇しました。
高島屋1階のショーケースです。

舞い戻ったドイツではちょっとした猫騒動がありました。
それより、巻きっ子子ドリプラの報告もまだでしたね。

仕事は始めていますが、頭がなんだか働いていない。それを言うと、時差ぼけでも、今に始まったことでもなでしょうと四方八方から声が聞こえてくるのは気のせい・・・。

まずはキティーちゃんとともに、帰還のご挨拶にて
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by kokouozumi | 2014-04-11 05:00 | | Comments(0)

鳥人












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2013年12月撮影 von Kastin Joensson
スキー板よりも身体が前に来るような深い前屈姿勢。スキー板を平行にそろえるクラシックスタイルから、V字スタイルに変えるとき、この前屈姿勢が難しくなったというが、どのように克服したのだろう








葛西紀明の銀メダルは嬉しかったですね。
その前、今年1月14日オーストリア、バートミッテンドルフでのワールドカップ個人13戦、フライング・ヒルジャンプで196m、197mを飛び優勝している。ラージ・ヒルより高いジャンプ台からの飛翔は、周りの観客にとって圧倒的に見ごたえのあるジャンプ競技ということだが、このジャンプ台を持っているのは、スロベニア、ノルウェー、ドイツ、チェコ、オーストリアの5カ国だけ。なのでオリンピック競技種目には入っていない。より高いジャンプ台ということは競技者にとって危険度も高くなる。バートミッテンドルフで葛西が優勝した陰に、悲惨な話もあった。オリンピック金メダリストで今回のソチでも優勝候補だったオーストリアのトーマス・モルゲンシュタインが練習中、空中でバランスを崩して背中と頭を叩きつけるように落下。そんな事故の後も果敢に飛び続ける、鳥人たちのすごさを思い知らされる。

葛西紀明はずっと、ヨーロッパのスポーツジャーナリストたちから注目され続けてきた。ワールドカップで船木が好成績を出している時にも、葛西の周りに記者たちの輪が出来ると、そのことが記事になっていたのを何年か前に読んだ。今年のバートミッテンドルフでも彼のジャンプの後、一緒に競技に臨んだ彼より20歳も若いようなライバルたちが、素早く彼の好成績を察知して、結果アナウンスの前に次々葛西を取り囲んで祝福の挨拶をしていた。葛西のすごさを最もよく知っているのが彼ら若きライバルたちで、その光景はとても自然だった。船木もマルティン・シュミットも、もう誰も居ないけど、葛西はまだ飛んでいる。葛西はジャンプ競技の伝説を作った、脅威という言葉は葛西のためにある・・・いろいろな形容で賛美の報道が飛び交っているが、『葛西はジャンプ競技の現象(特異なできごとの意味を含めて)』といわれ続けて欲しい。



今回の冬季オリンピックはメダルの数よりも、ビックな勝利のニュースが嬉しい。









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              バートミッテンドルフで、若いライバルたちから祝福の挨拶を受ける葛西
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by kokouozumi | 2014-02-17 07:24 | 人々 | Comments(0)

立体万華鏡







昨日の日曜日はついに第一アドベントの日を迎え、大事な日曜礼拝なので、ご近所の教会でもさまざまな音楽家がアクセントを形作ったようです。これは工房や最近私が引越しした家の大家さん家族から聞いた話しで、工房の大家さんはクラシック音楽、私の大家さん(工房の大家さんの娘さん)はポップ系ですが、昨日は両者とも違う教会で演奏していました。

ワンテンポはずしてしまいましたが、第一アドベントに相応しい映像はこれでしょう。
立方体万華鏡の内部をカメラが覗いたものです。


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美大同級生の作品(本人山崎氏の映像より)






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(園田氏 写真)
ワークショップでは自作の箱にタイトルも考えるのですが・・・
『ハレルヤ』
どうして!!こんなタイトルが思い浮かぶの!!すごっ







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(園田氏 写真)

で、その『ハレルヤ』作品。お友達同士男の子二人の共作








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(園田氏 写真)
こちらはモダンな赤と白・・・しかし・・・
この赤と白、鮪の乗っかった鮨ではと、限りなく思えてくる。
タイトルは『大晦日』
ご両親様、大晦日には彼に鮪鮨を万華鏡内に見えるだけ、振舞ってください!
とつぜん、近眼の親にならないでくださいよ。






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(園田氏 写真)

こちらは、そのお姉さん作
タイトルは『クリスマスの森』
一見、兄弟の感性は似ているようで、意図は全く違う・・・







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(園田氏 写真)

そのお母さん作
朝・昼・晩を描いている
にぎやかだけど、こんなに静かな時間は、この箱の中にしかないのよね?





この立方体万華鏡、最近では3D万華鏡ともネーミングされましたが、1970年代後半に、私の美大時代の同級生が1年次の課題制作に提出した作品が起源となっています。
その課題は『増殖する形』というものでした・・・確か。現在も過去においても怠け者だった私は、自分がどんな作品を提出したか全然覚えていないのですが、記憶に残っているのは、電球をいくつかぶら下げて遅れて講評会にやって来た一人が、この電球を部屋に吊るしてモーツアルトの音楽を聞いていると、音が部屋中に増殖するといって、みんなを煙に巻いたことと、この鏡ボックスの中に形を増殖させた作品です。後者は当時の教授の絶賛を得て、同級生一同その箱を覗いて、彼の頭の構造が我々よりも数段優れていることに、素直に感嘆したものです。裏面塗装を点または線で剥がした6面の鏡で構築された立方体の内部には、その塗装を剥がされた部分から光が差し込み、線や点の形が鏡張りの内部に何処までも増殖していくという考えです。

その作品は雑誌に取り上げられたり、販売もされるようになって、多くの人の目に触れることとなりましたが、この作品を目にしたある化学物理学者が、この作品を考えたのは誰だ!と追求したお陰で、独逸のぼんくら同級生も、かつての課題優秀作品が今、ユニバーサルアートとして、世界中で紹介されている経緯を知ることとなりました。

その科学物理学者の園田氏はリチウム電池の研究では世界で何本かの指に入る方で、世界中を駆け回っている。その分野のすごさは私にとって計り知れないものですが、もっとすごいのは立体万華鏡作りをそのいく先々、つまり世界中でワークショップしていることです。ワークショップの展開はホスピスの子供達にも・・ということになり、彼らに許された制作時間や扱うことの可能な軽さを求めて、素材キットの開発に着手されたのです。ガラス版は紙のように薄い樹脂ミラーが探し出され、裏面塗料を削る作業も小型ルーターを利用することになりました。

その素材研究によって、とても扱いが簡単になったキットを利用して、Stuttgart日本人会行事の一環としてチャリティーワークショップを行い、生まれたのが上記の作品です。チャリティーの目的は、郷里渡波の子供達が対象でした。その辺の背景や園田氏の活動を、このように駆け足の説明で今回は省略してしまい、申し訳ない限りですが、また機会を捉えて話しを続行させていきたく、お許しを。
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by kokouozumi | 2013-12-03 08:23 | 美術 | Comments(0)

デューラーを観るには










2010年日本、2011年合衆国、そして昨年はデューラーの故郷、ニュールンベルク。先週からフランクフルトでの展覧会が始まり、同時にロンドンで初期作品のみの展覧会。デューラーの作品は世界中を駆け回っているようです。


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行列でした。外に入場券売り場が特設されていました






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2010年、日本の西洋美術館が用意したタイトルは『宗教・肖像・自然』でした。看板となった作品はデューラー1500年の肖像画。これってキリストと同じ髪型よね、と連想させる美しい衣装の両肩に広がる長髪カールの自画像は「神が作り給もうたこの世界を、自然を、私は捉えようとしているのだよ!」と言いたげな自身に満ちたまなざしを、まっすぐに鑑賞者へ向けています。なるほど『宗教・肖像・自然』は、このデューラーのまなざしにぴったりな、テーマ。

今回訪れたFrankfurt Städel Museum (1815年、銀行家だったStädel氏の遺言によって、氏の収集品【14世紀-19世紀】をもとに生まれた私立美術館) でのデューラー展テーマは『芸術・芸術家・コンテクスト』。そしてテーマに付随して選ばれた作品は1497年作の「Fürlegerin」というタイトルがついている若い女性の肖像画。

「Fürlegerin」って何?とWeb検索した人はやっぱり他にもいて、
*中世にFürlegerin(フュアレーゲリン)という職業があったの?もし個人の苗字だったら、デューラーのタイトルはeiner Fürlegerinではなく、der Fürlegerinとなるでしょう。
の、質問に対するベスト回答として(独逸Yahoo)
*中世の君主のところにFürlegerという役所があって、そこから派遣された女性が、君主の食卓を準備して、主人を食卓に着かせていた。(この回答は40%の支持率だが信憑性はいまいち薄いような)それ以外にも、いややっぱり個人の苗字であるとか、Wikiにも出てこない言葉で謎であるとか、少数の意見が並んでいるだけで、結局良くわからない。テーマに掲げられた『コンテクスト』は脈略、文脈や背景の意味があるけれど、この展覧会に赴く人々は、デューラー作品を目にする前から、彼の時代背景を探ることになるのだろうか?デューラー代表作の1つ、銅版画『メランコリーⅠ』は世界中で謎解きが試みられているから、その作品を所有するStädel Museumとしては・・そうさせたいのかもしれない。

とにかく観るしかないのである。

そして観た後、彼の時代の背景どころか、一つ一つの作品にどんな場面が描かれていたのかもはっきり記憶していない・・・。デューラーの線描が美しすぎる。木版、銅版、鉄版、それぞれの素材による微妙な線の違いも興味深いが、巧みすぎる技巧に目を見張り、その線に目が張り付いてしまう状況だった。史上最高の版画家という彼のタイトルは本当だとうなずいた。時代背景としてわかったと言えることは、美術史的にしろ、この美しい線で構成された版画に接しながら聖書の物語を目にし、楽しんだ人々が多くいたに違いない時代をデューラーが作り出した、ということ。

会場では、携帯電話のようなトーク機を耳に当て、ある女優が吹き込んだという解説を聞きながら歩いている人々が多かった。解説が無ければ、展覧会の目玉作品を見のがすかもしれない。3枚折の祭壇画を、これはいいやと通り過ぎてしまったが、後からその大作はデューラーとグリューネワルトの共作であることがわかった。しかしさらに後から判ったことは、中心の画面は火事で失われており17世紀の画家がコピーしていたというので、通り過ぎた感覚にも一理あったかもしれない。

ところで例の『Fürlegerin』だが、会場にはなんと2枚の若い女性の肖像画『Fürlegerin』があった。そこで熱心に解説を読んでみたのだが、両者の絵はどちらも1497年、デューラーがイタリア旅行から帰った直後に描かれていて、どちらの背景にも後から付けたしたような紋章がある。その紋章はニュールンベルクの豪商Fürlegerin家のものだというので、『Fürlegerin』の謎にひとまず苗字という答えが出たわけだが、
次の謎々が始まった。一枚の『Fürlegerin』は質素な服を身につけ、髪を下ろし、胸の前で手を合わせ、祈りをささげているのに対し、もう一枚の『Fürlegerin』は当時ニュールンベルグのダンス服と名づけられた胸の開いた華やかな服、髪は頭上高く結い上げられて、視線はまっすぐこちらを見ている。この対照的なモチーフとなっている二人の女性は同一人物だったのではないか?と。

イタリアでルネッサンスの気運に触れてきたデューラーが、この2枚の肖像画の間で何を試みたのか?という部分に今回の展覧会テーマ『コンテクスト』の意味がありそう。独逸の1497年。いまだに中世的な観点に縛られている流れと、イタリアから起こったルネッサンスの影響によるヒューマニズム、人間性、個性を尊重しようとする二つの流れが重なり合っているような時代のこと。現代人はそのように観念的な言葉で簡単に言ってしまえるが、そのような当時に同一の若い女性を、二つの流れとして絵の中に表現したとしたら、イタリアから帰ったばかりのデューラーの自意識そのものが、かなり高揚していたのではないか。それ以降、人間を描くというテーマにデューラーがどれだけ思考と試行を重ねてきたかを捉えて、西洋美術館では『肖像画』を前面に出し、Städel Museumでは『コンテクスト』としてデューラーの年代から彼の制作意識を謎解きする。ちなみに『メランコリーⅠ』の画面右上には4×4魔方陣の中で、デューラーは15と14を並べて、その作品の制作年代1514年を暗示して、彼自身が年代で遊んでいる。

展覧会を観るのに、美術館側が一生懸命準備しただろうテーマを追いかけてみるのも面白いが、会場の中では、勝手なささやきもさまざま聞こえてくる。独逸で初めての裸体画であるらしい『アダムとイヴ』を見ながら、イタリアからもっと素敵なプロポーションを研究してきて欲しかったと、つぶやいている人もいた。デューラーは漫画家だったのか・・という人も。工房に戻って作業をしていると、あの線を描いているデューラーはいったいどんな顔をしていたのか?と思ってしまう。

これまで、デューラーの名とその作品しか知らなかったが、彼の作品が世界中を駆け巡り、鑑賞した人々の頭の中におぼろげなデューラーという人間像が百人百様で浮かんでいるとしたら、3Dコピーマシーンも太刀打ちできない・・・だろうね。















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デューラーの母 肖像画、左は1490年、右は1499年







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by kokouozumi | 2013-11-07 07:50 | 美術 | Comments(4)

広告



いつものように、作業中に見つけた新聞広告は
こんな煙の中に人の手がわずかに見える奇妙なもの。
広告主はこの日刊紙発行元のFAZ(フランクフルター・アルゲマイン)だから
贅沢に見開き2面全面を使って、こんな煙にまくような広告を堂々と掲載している。


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左下の小さな囲いの中に、唯一広告的な文章がある。
『その背景には常に賢明な頭脳が隠されている』

その一文を頼りにFAZのサイトで調べたら、なんと
この青い煙はタバコの煙で、喫煙者Helmut Schmidt (ヘルムート・シュミット)ということだ。
三代前のドイツ首相が、右手しか写っていない写真を広告に使うなんてさすがに強気の新聞。
Schmidt氏、現在93歳は今なお健在な喫煙愛好家なそうだ。
撮影の合間にSchmidt氏がつぶやいた言葉として、
「政治家は彼の領域においてよい見本となるべきだが、人間生活のすべての領域に関してというわけには行かない・・・」


ああ、そういえば広告の右端にHelmut Schmidt の名前が入っている。

ちなみにSchmidt氏は毎日8紙の新聞に目を通しているそうで、FAZの記事では文芸欄がお気に入り。

FAZは1995年から、時の話題の人・場所・物事を自社の広告に反映させている。
たとえば、前の週はアメリカのコミック作品が使われていたから気が付かずにいたが、これまで80人の人物がこの新聞読者を募るキャンペーン広告に登場しているということだ。今回のように見開き全面の広告に目を留めた人は、Web上でその事柄の背景を知ることが出来る。その人物や事柄が最近のいつから(何年の何月何日からと明記されている)多くの新聞・雑誌メディアに登場しているかということまで、知らせていることから推測すると、この見開き広告を担当しているチームはモチーフとして、最近の記事として登場回数の多い人物や物事を選んでいるのだろう。

なんだかよくわからない紙面上の広告を見て、Web上でその意味を知り、さらに関連する記事を過去に遡って読むことが、興味を持てば出来るわけで、新聞を読むということを促す、面白い戦略だと思う。最近紙面をなくしWeb上のみに切り替えた新聞もあるが、FAZは逆にこのような広告や前面カラー写真、さらにイラストを効果的に使って視覚的にも面白い紙面へと、どんどん変化させている。




この広告紙面撮影に関するフィルムがある。
過去に取り上げた80人の人物の中で、好評だった場面の撮影風景がドキュメントされている。


下記のサイトを開いたら、写真が並んでいる左下のStartenをクリックすると映像が出ます(または真ん中の→を)
Making of Film: Die Klugen K�pfe hinter der Zeitung - Kluge K�pfe - FAZ











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しかし、私の周りで新聞といえば・・・パンク
新聞紙を開くと当然のように乗ってくる





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・・・
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by kokouozumi | 2013-08-25 06:31 | Comments(4)

レンバッハ美術館の物語



ミュンヘン・レンバッハ美術館は2009年から改築のために閉館していた。増え続ける訪問者に対応できるよう、エントランス部分の増築が改築理由の一つだった。




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私も再び開館することを心待ちにしていた一人で、4年間の工事を終了し、今年5月の再オープンから約1ヶ月後、ミュンヘンでの仕事途中に、美術館閉館時間が17時ならぎりぎりの15時に、とにかく館内を一目見るだけでもと訪れたそこは、3つのチケット売り場とも、このような行列で30分ほど並ぶことになった。ミュンヘン市が管理する美術館は最近20時まで開館時間を延長するようになったので、15時は午後の訪問者ピーク時だったようだが、確かにこの美術館は人気があるらしい。

チケットを求めて並ぶ人々の背景にある黄土色の壁が、旧美術館建物の一部であり、増築はその旧外壁を内側に取り込むという方法で行われた。その黄土色の建物が美術館の名前に冠せられたレンバッハ氏の邸宅であり、改築前は表門をくぐり、庭園を横切って、画家であり貴族であったレーンバッハ氏がアントワープ・ルーベンスの家を真似したかったという支柱のある円形張り出しのバルコンから入るのだから、見学前からなかなか優雅な気分になれる美術館だった。そしてフランツ・レンバッハ自ら4000点も描いたという作品の一部と彼のコレクションの間をさ迷う内に、突如グループ『青い騎士』たちの作品群の部屋が出現するのだった。

増築後、黄土色の建物の一部を覆うゴールドのエントランスからは、『青い騎士』の部屋へ直接向かう裏道が堂々と用意されている。かつては階段踊り場に待機していた係り員がいちいち訪問者に示していたルートが、エントランス上方に一目瞭然の表示として掲げられている。多くの人々はそちらへ流れる。『青い騎士』が人気なのだろうか。彼らの作品群が持ち込まれたことによって、このレンバッハ美術館の知名度は世界的になった。だがそうなった経緯に潜むある男と女の出会い、二人の画家の遭遇から始まる物語に、あるいは人々の関心があるのかもしれない。

1877年ベルリン生まれのガブリエレ・ミュンター(Gabriele Münter)は1897年、二十歳になって、当時女子の方向としては稀有の絵画技法を学び始める。女性が芸術家としての道を究めることは難しかったはずだが、女流芸術家協会という門戸はすでに用意されてたいた。日本では明治というこの時代の女性たちを考えると、マイナーかもしれないが私は芸大出身女性漫画家、一関圭の作品を思い出してしまう。彼女はその時代に医者や画家へと、自分の道を求める女性たちを描いていた。
ドイツのミュンターさんもそのように、当時を突っ走った女性だったのだろうか。
デュッセルドルフ、コブレンツ、そしてミュンヘンへと学ぶ場所を移動し、それは受け入れてもらえる絵画学校を遍歴しながらということだが、絵画修行を積み重ね、やがて運命的な出会い、カンディンスキーが教鞭を取る絵画教室に所属する。
*1902年のこと、ミュンター25歳、カンディンスキー36歳、カンディンスキーがロシアでのキャリアを捨てて(弁護士)絵の道に入ったのは30歳になってから。画家としてのキャリアは殆ど同じ年数なのだが・・・
カンディンスキー率いる夏季講習という写真がある。彼の傍には女生徒ばかり写っているのだが、進歩的な教師であったカンディンスキーは女性たちにもきっちりと、芸術の本質を伝えようとしていた。彼の指導はミュンターにとって、画家としての道を切り開く大いなる力だった。いつの間にか個人的指導者のような彼に付き従ってミュンヘンからオランダ、イタリア、フランス、北アフリカまでも制作旅行を共にしている。
1909年、ミュンターはミュンヘンからアルプス山脈に近づいた、山の麓にある田舎町、ムルナウに小さな家を購入する。旅行の日々からミュンヘン近郊に制作基地となる場所を求めたのはカンディンスキーの意向でもある。

その家のことを私はフライブルクに住んでいた時、大家さんから聞いた。大家さんはガラス絵を描く人だったが、黒い森地方に伝わるガラス絵イコンは、基を辿るとロシアイコンにつながるということから、「カンディンスキーのガラス絵がそこにあるのだよ。しかし彼のガラス絵はバイエルンの農民芸術からの影響だが・・・」という話が忘れられず、いつか行ってみたいと願っていた家で、数年前にその機会を得た。

カンディンスキーはムルナウでその土地に伝わる農民芸術、家の家具に絵を描いてしまう風習に狂喜して、ミュンターと共に家の壁や家具にペインティングしてしまう。さらに彼らを訪れた画家仲間のヤウレンスキーが、その村の居酒屋で農民たちのガラス絵を発見した。ガラス絵はまず黒い線描によって対象物の形を分け、その中に明確な色彩が与えられ、絵全体がそれぞれの形に区分けされはっきりとした色彩によって輝きを持つ。ガラス絵のこの印象が、彼らの絵画技法に対する新たな研磨につながり、カンディンスキーやミュンターの画家仲間をマグネットのように結びつけ、フランツ・マルク、アウグスト・マッケ、ハインリッヒ・カンペンドンクなどが、彼らの絵の中に新たな色彩の輝きというテーマを求め始める。

ミュンターにとって、ムルナウの家は、彼女の絵画的発想を刺激する場所に他ならなかっただろう。その場所にある自然から拾う色彩、その場所に住む人々の精神的よりどころ、それを捉えるパートナー、カンディンスキーの解説。カンディンスキーはその家に集まる仲間と共に『青い騎士』という新しい集まりを発足させた。その頃のクレーの日記に次のような記載を見つけた。
「・・カンディンスキー、この男は人をひきつける魅力に溢れている。1ブロック隣に住んでいる。・・・このロシア人の絵は対象のない、奇怪きわまる画だ。・・
カンディンスキーは、芸術家の新しい集まりを作ろうとしている。近所の酒場で偶然出会ってから、私は親しく付き合っているが、つきあえば、つきあうほど、彼にますます深い信頼感を寄せるようになる。彼は平凡な男ではなく、並外れて明晰な頭脳の持ち主なのだ。・・・私は『青い騎士』の仲間に入った。」

ミュンターもカンディンスキーという教師であり、パートナーである人間の傍で培われていた。その温床はしかし時代に押し流されてしまう。カンディンスキーは1915年、革命のロシアに消え去って後、ミュンターの元へは二度と戻ることが無かった。当時ロシアとドイツとの関係は怪しく、ロシア人のドイツ入国が許可されなくなり、ミュンターはスカンジナビアに出向いて、カンディンスキーとの再会の機会を待っていた1917年、彼がロシアで結婚したことを知った。

それから10年、ミュンターが失意のうつ病を克服して、再び制作に向かい始めた頃、カンディンスキーから、ムルナウに全部放り出して行った彼の作品返却を求められ、1年近く法的な争いをすることとなる。
*カンディンスキーから自分の作品の返却を求められたのは1922年、法的な結論が出たのは1926年。その間に法的な争いとなった年数はわからない。
結果的に大作の数枚を返しただけで、殆どの作品は彼女の元に残るが、それはある金銭的な代償というよりも、むしろミュンターのほうが家賃を払い続けてミュンヘンの倉庫に保管するなど、負担を背負いながらも、守るべきものを確保したということだった。さらに第二次大戦直前にはナチスの目から逃れるべく、当時ミュンターの新たな伴侶であった、美術史家のアイヒナー氏とともにムルナウの地下室に隠し持つことになった。戦時中ミュンターはアイヒナー氏と共にその家でひっそりと暮らしていた。

戦後50年代になって、アイヒナー氏はレンバッハ美術館館長と知り合いになる。それからさらに5年の歳月が過ぎ去った時、美術館長は初めてムルナウの家の地下室に案内される。翌年1957年、80歳の誕生日を機にミュンターは大事に隠し持っていたカンディンスキー90点を含む、『青い騎士』たちの作品と自分の作品、カンディンスキーの書簡や写真をレンバッハ美術館(ミュンヘン市)に寄贈した。それだけで終わらずアイヒナー氏と共名の基金を美術館長に託し、ガブリエレ・ミュンターが亡くなった4年後の1966年からその基金は活動権をもち、ミュンターが残した大いなる遺産(作品群)を基に、ミュンターとカンディンスキー及び青い騎士メンバーの画家たちに関する研究が続けられている。

蛇足だが、カンディンスキーはバウハウスの指導者として再びドイツに暮らしながら、ミュンヘン、ムルナウを再訪することはなかった。また戦前にその土地で制作した自分の作品を再び目にすることも無かったし、当時の友人たちとの交流も途絶えてしまった。しかし同じくバウハウスの教師となったクレーと再会し、昔の仲間ヤウレンスキーにファイニンガーを加えて、1924年デッサウにて『青の4人』を結成した。







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by kokouozumi | 2013-06-09 02:39 | 美術 | Comments(0)

キャラクター文化はなんといっても










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日本へ帰国するたびに、びっくりさせられるのがキャラクターの拡散かもしれない。
たとえば、バスの中から見つけた道路工事現場を隔てるガードの愛嬌あるキャラクターたち。仙台・石巻間をこれまで何十年も利用していた電車は、あの震災以来まだ全線復旧していないので、バスを利用することになったが、仙台駅前を出発してすぐこのケロガード遭遇した。工事現場を通過する際、一時停止や減速を求められるドライバーのイライラを和らげるためにと、2007年頃北海道で始まったらしいゆるキャラガード。

しかし郷里、渡波の町を歩き、特に海沿いの道路で次々このキャラクターガードを見かけたときには、工事現場を隔てる和みとしてよりも、記憶している場所とその変容を隔てる表示のように思えて、一瞬ドキリとした。 が、このようなアイデアに行き着くほど、キャラクター文化は日本の独創でダントツ世界のトップを独走しているという思いがセンチメンタルな気分を押さえ込んでしまう。

日本のキャラクター市場はアニメも含めて4兆円の巨大産業に成長しているらしい。
他の産業との割合はどうなのだろうと、細かい詮索をする前にドイツ日常の中でもその一端は感じられる。

ポケモン、特にピカチュウ、ガンダム、さらにはトトロ、ドラエモン、ハローキティなどはドイツの子供達の口から自然に出てくる単語であり、子供達が陶芸教室で作りたいものベスト10もそのキャラクターがまず並ぶ。駅構内の本屋などでは漫画コーナーが広がりつつある。スーパーマンやバットマンを脇に押しのけて中央に並ぶのはドラゴンボールシリーズ。そして同じく日本のソフトタッチな漫画がその両サイドを固める。その横でアメリカンコミックスのアクション画法はすっかり古典になってしい、漫画の歴史書的に置かれている感じがする。翻訳物の日本漫画を読んだことから、日本語や日本文化に興味を持ったという何人もの独逸人若者にこれまで出会ってきた。各場面のせりふが日本語の下にドイツ語訳を入れた本もあり、対応して字を覚えてしまうらしい。

日本のキャラクター文化は日本に滞在する機会を得たドイツ人にとってもインパクトがあったようで、日本滞在経験を持つ独逸人デザイナーの捉え方として「日本のキャラクター51」というのがシュピーゲル誌に取り上げられている。51という数は日本のひらがな51字にあやかったものだが、カルタ遊びのように、あ、い、う、え、お、の文字でキャラクターを探しているわけではない。受験生、コスプレ、忍者、芸者、痴漢、オタク、暴走族、駅員などをおんなじ形態の中に服装を変えただけで、表現している。
「日本社会に見られるいくつかの典型的な人々や社会現象を陳列することによって、楽しい日本へのアプローチです」ということだが、独逸人の考えるキャラクターの意味がそもそも日本のキャラ文化と違う。



日本国内で今白熱しているのは、各県のマスコットキャラクターだろう。くまモンなんて熊本物産の売り上げ30億に貢献しているというし、それだけの成果があるから、マスコットたちの地位も向上して県職員という肩書きまである。さらになんと!あの伝統あるテディ・ベアを生んだドイツ・シュタイフから1500体限定のくまモンぬいぐるみが発売されて、5秒で売り切れたそうだ。ebayでは既にアメリカ経由で2体のくまモンが2倍から3倍の値段で出てきている。

シュタイフ社が日本との提携に踏み切ったのは2011年だった。ドイツでは日本との友好150周年ということで企画が目白押しに計画されている時に、あの震災が起こった。シュタイフ社も日本復興を願って何かをしたかったようだ。その年9月になでしこが女子ワールドカップで優勝。ピンクのなでしこ・テディ・ベアが生まれた。

1つのキャラクターマスコットはデザイン力と、積極的なのりの気分によって、どれだけの道が開けるか、くまモンストーリーからうかがい知ることが出来る。
未来のロボット化時代にも、日本では楽しいキャラクターを生み続け、人間とロボットの間に和みを関与させることが出来るかもしれない。












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私にとって
郷里渡波のキャラクターは
これなんだけど






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by kokouozumi | 2013-05-23 06:24 | 人々 | Comments(22)


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