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夏の夜の夢




『夏の夜の夢』といえば、シェークスピアだが、そのシェークスピアの『十二夜』を歌舞伎座で観劇したのはある夏の夜のこと。歌舞伎に3次元を持ち込んだと、話題になった蜷川幸雄演出は鏡張りの舞台背景を使ったもので、幕が開いた一瞬、背景全面に舞台を見つめる客席全体が映し出されて、どよめいた。何百本もの帯状ハーフミラーを使う演出は蜷川の得意とするものらしいが、その夜は観劇中に地震があり、背景がきらきら揺れ動くというハプニングも加わった。



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歌舞伎を見に行くのは日ごろの憂さ晴らし、人々は楽しい夢のひと時を求めてそこにいるのだと思う。その昔々は一日中の興行だったというから、ひと時の夢どころか、観客は根性入れて座り続けていたのか、と想像するとおかしくなる。しかし私が歌舞伎に足を運んだきっかけは、ある人の夢が終わる時だった。とんぼを切りたくて歌舞伎界に入ったというその男性はまだ20代だったが、義経千本桜でとんぼを切る鼠の役を最後に引退することになった。家筋が問われる梨園の世界ゆえ、他所から入った人間はよっぽどのことが無い限り、潮時を考えるしかない。その男性は自分の花道として何人かの友人たちに、千秋楽のチケットを配り、公演後の食事会を用意した。若者の付き合いだったので、あきらめとか挫折感はなく、みんなで新しい門出を祝うように集い、日頃テレビの歌舞伎中継を退屈そうだと思っていた私などは、彼の最後の日に初めて実際の舞台を目にして、すっかり魅せられてしまった。

トンボを切るようなアクロバット芸もある歌舞伎は、そのようにけれんみ(当て字では外連味)が大衆をひきつけてきただろう。けれんは宙吊りや早変わりなどの奇抜な演出のことで、舞台における邪道な表現という意味があるようだが、私のようにそれが見たくて行く人も多いはず。学生時代に始めて足を運んだ時から、なぜか観劇の機会はいつも夏。その時期かかる納涼歌舞伎は怪談物が多く、まったくのところ、けれんみたっぷりの演出で、玉三郎が怖くなったり、美しくなったり、猿之助(三代目)が狐になって空を飛びはじめたり、舞台がはねて外に出ると、周りの都会風景がむしろ奇怪に見える中、家路につくことになる。夏の出し物は素人受けするものが用意されているようで、演劇にもシェークスピアにも心得が無くても、NINAGAWA十二夜が歌舞伎座にかかれば、びっくりしながら夢を見るしかないというもの。

けれんみの一役として、歌舞伎からはずせないものにツケ(附け)がある。歌舞伎役者独特の表現、飛び六方や大見得などの動作に附ける音だから、ツケという。拍子木とは別もので、舞台の袖に置かれた木板の上を2本の木切れを持った附け打ち人が叩き、音を出すらしい。役者の動作だけではなく、舞台上では役者や裏方へ場面変化を知らせる合図ともなるらしい。居眠りをしている観客に見所の始まりを知らせるかもしれないし。

今の流行り役者、成田屋海老蔵が在命中の父、 團十郎とパリ・オペラ座公演の際、出し物の勧進帳では父と子が交代で弁慶役を演じた。この芝居は弁慶が六方(ろっぽう)を踏んで花道を去るのが最後の見せ場だが、もとより花道なぞないオペラザ舞台には、客席へ向かって降りる急斜面の花道が仮設され、息子海老蔵の弁慶はそこを駆け降りた。その時の附け打ち人は、どれだけ冷や汗ものだったろう、と想像する。舞台の袖に去ることを選択した團十郎には附けが追いかけ、花道を降りる海老蔵のときは・・・
その違いを見たい方は



▶ 勧進帳 -團十郎弁慶 



▶ 「勧進帳」海老蔵弁慶 





人々が憂さを晴らし、一夜の夢を見る。そのことを作り出す役者とその周りで支える人々の、熟練の職人技がまた夢見心地にさせる。




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附けの音とともに、なにやら飛び出してきそうな納屋





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by kokouozumi | 2013-08-10 07:06 | オイラー | Comments(0)

オイラー 2011 その4 帰還








へーア・グレンツハウゼンのオイラー窯焼成は24日夕方7時ごろ終了。
多くの見物客は去っていき、その人々にビール・ワインからスープ・料理パンをサービスしていた学校事務局、学生も帰り、人々の応対に疲れ知らずの会話を続けていた所長のブランド氏の車も去り、最後まで残っていたのは焼成責任者のM氏。彼は焼成を終了して焚口や窯側面の塩穴を目止めしてからも、窯内部で蒸発している塩のガスが抜けきるまで、窯天上の煙突穴を少しづつ閉める作業を続けていました。塩のガスが残ったまま、窯を閉じてしまうと塩釉ににごりが生じるのだそうです。

そして誰もいなくなったのは9時過ぎでしょうか・・・いえ、オイラー窯の間、毎晩やってきていた近所の三毛猫が今日も最後の巡回を引き受けています。
濱田氏は夜半に窯屋へ侵入しようと試みたのですが、しっかり者のM氏がどの扉にもしっかり鍵をかけて帰ったため、断念。

25日、IKKGのゲストルームで濱田氏と私は、日曜朝の子供番組、チンパンジードラマを見ながら朝食を食べ、バーナード・リーチの独特な性格について話をしていました。
異邦人であるゆえに大変フレンドリーに誰とでも付き合ったリーチが、濱田庄司と柳宋悦を、富本憲吉と宋悦を結び付けたのだそうです。日本人同士なら接点の起こり得なかった人脈がそのように成立したのだそうです。









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それから私たちはコブレンツを経由し、ライン河沿いの電車の旅を楽しみました。
へーア・グレンツハウゼンから観光で訪れたラインとモーゼル河の合流地点を、今度は車窓から眺めました。

へーア・グレンツハウゼンを中心とする塩釉焼成の窯業地では、土や木の入手にライン河の交通を利用する必要はありませんでしたが、昔の製品出荷には重要な経路だったはずです。船に荷物を積み込めばライン河の要所に流通のシステムが整っていたはずです。いえそれ以前にこのラインをローマ人が辿ってきたことから、この土地の窯業の歴史が始まります。もっともっと遡れば、ライン河とその流域に豊かな土の産出を可能にした土地の成り立ちがあります。オイラーはライン河方向から西風が吹く季節の窯は、どう焚くべきか知っていたでしょう。その土地の成り立ちと、そこに住む人間の頑固さは切っても切り離せないものとして、その土地に影のように付随していることを、面白く思い出しながら、へーア・グレンツハウゼンの町から遠ざかって、それぞれの帰路につきました。



さて、塩釉焼成に関しては、徐々にまとめてみます。
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by kokouozumi | 2011-09-26 05:35 | オイラー | Comments(7)

オイラー 2011 その3


しっかり働いています

形から入る日本チーム



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いろいろな国からやってきた参加者
地元の陶芸家たちが次々、作品を持ち込み窯が一杯になりました。
今日は外国からのゲストが窯の周りをきれいにして
ちょっとだけお手伝い


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ゲスト全員分のカメラを預かり、シャッターを押し続けた、カメラマン君。
他にもお手伝いの学生が数人。フランスからやってきた学生が
益子に行ったことがあるよ!とぽつり
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by kokouozumi | 2011-09-22 05:42 | オイラー | Comments(9)

オイラー 2011 その2

さて一行は無事にへーア・グレンツハウゼンの町に到着しました。
IKKG(陶芸・ガラス造形研究所)で所長のブランド教授にご挨拶すると
「もし、お疲れではなかったら・・・」
と、すぐに案内されたのがあの140キュービックの巨大窯を持つ、
へルフリッヒさんのところ。

昨年10月に私たちが訪問した直後、体調を崩されて
窯づめ作業は中断かとおもったのですが
今やっと、殆ど窯室全体を埋めるほどになりました。

ブラント教授が、そっと教えてくださったのは
へルフリッヒさんにとって、採算云々はもはやどうでもいいことで

とにかく、もう一度焼成にこぎつけたいのだと思う・・・という話
ブランド教授も時間が有る限り、土つくりから轆轤成型など手伝い続けている。


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この工房はもともと土管つくりの作業所だったので、こんな機械があります。
この機械を利用して
あの若い陶芸家夫婦のところの窯焚きには、カプセルを援助しました。

土管の胴体部分となる筒は上から降りてくるのですね。



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上から伸びてくる筒がちょうど良い長さになったら、スイッチを止め
巨大な弓で切り取りますが
その時下から底の部分となる円盤状の土板を載せた回転台が競りあがって
上の筒と合体します。



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それを轆轤台に移動して、手びきして仕上がりです。
こんな時代がかった、大仕事をするヘルフリッヒさんの顔は、なんだか穏やかです。




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石膏型轆轤機械も100年前からの年代物です。
唯一変わったのは皮のベルトからゴムベルトになったこと。





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工房で使う土はすべて近所の採土場から自分で持って来るそうです。(といっても専属の採土業者がいるのではないかな?) ほんとにすぐ傍の現場を見てきました。
遠くの池は既に採土し終わった跡地。







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こちらは現在土を掘っている場所
この土を水肥するだけで、一切の添加物なしで使っている
「こんなに一杯あるのにもったいない・・・」と、濱田氏の感想

それは、この町の窯場の多くが既に休業していると聞いたからです。
ブラント教授が手伝っていた30年前は、町中の煙突から煙が立ち上っていたそうです。

ここは最も小さな採土場、もっと巨大な場所があちこちあるのがヴェスターヴァルトの土地柄




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土地柄といえば、帰りにスーパーに寄ったら、やっぱりこんなビールを売っています。
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by kokouozumi | 2011-09-21 06:59 | オイラー | Comments(5)

オイラー 2011

9月20日からまたこの町です。







途中、フランクフルト空港から濱田友緒氏が合流します。
日本の陶芸作家として最初に塩釉焼成と熱心に取り組んだのは、濱田庄司。濱田家一代目が益子に入植して、まずおこなったのは地元の窯場で仕事すること。


京都窯業試験場時代、濱田庄司は1万個のテストピースを作るなど、まさに化学的知識をしっかり蓄えていたのですが、その後バーナード・リーチの住むイギリスに数年過ごすうちに、なにか発想が違ってきたのでしょうか・・・そうして益子では地元の人々が何をしているか見て、そのテクニックを吸収することから始まります。


イギリスではスリップウェアという民陶にすっかり見せられた濱田ですが、益子の土にその技法があわないと判断した後は、きっぱりその技法に携わることがありませんでした。その辺化学を抑えた人の判断力のようです。

塩釉技法もイギリス経由で把握したのだと思います。

濱田庄司は優れた文筆家でもありますが、塩釉に関して書き残したものは少ないです。しかし窯の話の中に・・・窯は三基になって、最初に築いた小さな窯は最近もっぱら塩釉焼成に使っている・・という記載があります。

濱田家に伝わる塩釉はなにかさりげなく、濱田窯の独特な作風に溶け込んでいる感があります。そのように2代目庄司の息子、晋作氏も三代目孫の友緒氏もさりげなくしかし、しっかりと塩釉の技をそれぞれの作風の中に定着させています。





明日、濱田友緒氏がヴェスターヴァルトに向かう時、二つの場所の塩釉の歴史が交差し始めます。







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ポスターは濱田友緒氏講演を紹介するもの
『濱田窯 三世代の塩釉焼成』
9月24日 11時~
へーア・グレンツハウゼン ヴェスターヴァルト陶芸博物館にて
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by kokouozumi | 2011-09-19 16:13 | オイラー | Comments(5)

この駅から















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久しぶりに旅をしました。
ここはモンタバウアーという駅です。
地味な駅ですが、特急のICEが停車します。

かつてオイラーの町に行くにはコブレンツまたはケルンからバスを乗り継ぐしかなかったのですが
今回電車で行くことになり、調べたらこんな便利な駅を経由するルートがありました。

コブレンツやケルンに比べてなじみの薄い地名ですが、昔、昔ヴェスターヴァルト窯業地一帯はモンタバウアー司教区に属していたので、町の聖職者がモンタバウアーの司教区事務局に送った報告書にオイラーの存在を探ることが出来るのです。

そんなことを思い出しながらモンタバウアーの駅からバスに乗ると、通過する町のことごとくの地名をなぜか知っていることに気がつきました。そう・・土の採掘場があった町々です。

あの140キュービック、巨大ガス焼成塩窯のあるヘルフリッヒさん工房も通過して・・





オイラーの町へ

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準備は・・・






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進んでいるようです。






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先に訪れた時は化石のように黒々とひっそりとしていた窯屋に
動的な空気が吹き込んでいました。

それにしてもこの窯屋の構造、特に上下関係をシュミレーションすると頭が混乱します。





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ついでなので博物館で見た、窯屋の模型を並べてしまいましょう。
土台部分のすごさがよくわかります。









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いつも白い泥で封じられているのしか、見ていない窯の焚口も、きれいさっぱりその口を開いています。

もうすぐ・・といっても秋にこのIKKGの窯は焼成されます。











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19世紀の青釉も焼き上げた、伝統的オイラー窯は現代のどんな作品を焼き上げるのでしょう。










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水瓶の歴史
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by kokouozumi | 2011-07-12 05:25 | オイラー | Comments(16)

オイラー2010 入植者の話 混乱

2008年に、現存するオイラー窯の1つを管理しているボルコと会い、しかし彼の話がシュレジエンのことから始まったので、窯はそっちのけになったこと、以前メモしました。なぜかその窯の写真が前回同様、今回もぼやけたものしかないのは、窯の前を瞬時通過する展開になってしまうのです。ボルコが鍵束から窯屋のを選び出しながら「父親の水瓶コレクションが見つかった」と、言うものだから「えっ、それは何処に」と。次の鍵を探してコレクションの部屋に向かってしまうのです。彼も出来れば違う話がしたいのかな。








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前回の訪問時、ボルコから数枚の古い絵葉書をもらった。父親の時代、陶芸メッセなどで絵葉書は名刺代わりの効果的な印象伝達の方法だったのかもしれない。それに工房の横の窯屋には、父親がこの町で拾い集めた青絵の塩釉炻器が窯の中や通路に所狭しと並べられて、オイラー窯美術館ということになっている。美術館といえば絵葉書だ。その中の一枚にマリア像があった。1737年に作られた塩釉炻器、この町に近い修道院教会にあったと説明がある。

もう1つの塩釉炻器マリア像の話を知っている。それはこの町の教会にあった。発見したのはやはりボルコの父親と、彼に協力して見捨てられた塩釉炻器を拾い集めていた例の協力者、つまり42キュービックのオイラー窯を所有する夫婦の父親(Fとしておこう)だった。教会の天井近い壁の窪みに茶色にすすけたマリア像があった。誰もそれが土で作ったもの、ましてや塩釉炻器の像だろうと考えることもなくずっと置かれていた。わざわざ梯子を上って確かめたのがボルコの父親とFだった。叩いたら陶器の音がした。今その像はケルンの美術館に所蔵されている。108cmの高さで、マリアの腕の中にある服を着たキリストの顔は残念ながら無くなっている。いつ壊れたのだろう?教会の天井から落ちてきたのを知っている人は居るのだろうか。足元にS・W・・17とサインがある。絵葉書のマリア像は別なもの。キリストは裸で頭がちゃんと付いている。足元のサインは17W37と読み取れるので、そこから1737年製であること、Wの頭文字から陶工の名前も葉書には明記されている。

ヨーロッパの陶磁器製彫像といえば、すぐにマイセン人形が言われるだろう。特にヨハン・ヨアヒム・ケンドラーの技術を真似たものが当時あっという間にドイツ中、ヨーロッパ中に広がった。ケンドラーが宮廷彫刻師になったのは1730年。その7年後にこの町のオイラーの誰かがやっぱりマイセン人形を作りたかった・・・とは想像できない。それにテクニックが違う。ある情景の瞬間の動きを捉えたようなケンドラー彫像以降、他の窯業地のマリア像も、十字架にかけられたキリストの下にいるような描写になったのに対して、この町で発見されたものは古典的なマリア立像だ。細部のディティールを一生懸命作っているのに、それによって動きが雁字搦めになっている。どちらかというと目元の表現などイタリア・マヨリカを感じる。
16世紀にマヨリカで始まったファイアンス陶器は18世紀にもなるとヨーロッパ全域へ行き渡ったのは、イタリア陶工たちの流れがあったことでもある。そこにマイセン磁器が誕生し、今度は東からの陶工の流れが始まる。初期の塩釉炻器産業の中心地は、この町よりライン河下流のケルン周辺地域だった。商業都市ケルンの力を借りて、製品はどんどん流通したからよい陶工も生まれた。17世紀、宗教戦争の余波で優秀な陶工たちがライン河を伝って土と木を求めて移動してきた。(これは前にも書きましたが)彼らは巧みなレリーフを制作したと記録されている。聖書の物語から、有名な絵画のシーンからレリーフが起こされた。余白を埋めるこの時代の典型的な柄は小さなダイヤ型や花びら、ローズ型だった。

昔々教会や修道院が地場産業の発展に貢献しただろうと。ムンデンホフのときだったか、コメントで教えてもらい・・。しかし16世紀、領主が窯業を管轄するようになるのは、日本の藩政と同じで経済性の追求。領主は前出のようなレリーフ塩釉炻器に可能性を見出した。経済的成果が認められると、従業者もどっと増えるからギルド発生。それでも陶工が増えるので、1707年領主はマイスター許可証の発行を制限するようになった・・・。

マリア像からなぜこんな風に話が転がっていくのかと、思われるかもしれないが、私の興味は単純に、一体誰が?どんな立場の陶工がこのマリア像を作ったのか、にある。
ヨーロッパ中に広がる磁器産業に対して、当地の領主は塩釉炻器で勝負に出たらしい。もしかしたらこのマリア像も領主の意地か!それともギルドの親方が発案したのか!(想像ですが)この小さな町でマリア像を作ったのは誰か考えていると、当時この町にどのように陶工が出入りしたのか知りたくなる。ボルコに聞いてみよう。






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しかし、ほんのわずかな時間話したボルコは今、違う時代の入植者に夢中になっていた。
ラインホルド・ハンケ(Reinhold Hanke)19世紀の中頃、ベーメ地方(ズデーテン)からやってきて、ドイツ復古調のレリーフを施す炻器工場を立ち上げた。彼の製品を見たオイラー達がみんなその復古調を物にしたいと夢中になったが、宮廷レリーフ師だったハンケほどの人材はなかなか見つからなかった。彼の時代からずっと・・2000年前後に一時下火になったものの、ハンケの作品は陶器収集家の間で人気なのだという。

大急ぎでボルコが手に入れたハンケの作品を見せてもらった。あれっ、ちいさな花びら型、ダイヤ型のレリーフ・・16世紀のモードではないか。それに聖書からの話・・。

その場では質問できなかったことを、家に帰ってから通信してみた。
「塩釉炻器のドイツ復古調というのは、16世紀に入植してきた陶工たちが制作していたものを復活させるということ?それを始めたハンケが東のベーメ地方から入植してきたのはなぜ?」ボルコから丁寧な返信がきたが「貴方の質問に正確に答えるには相当の時間を要します」と始まっていた。そうだと私も思う。中途半端な発想でごめんなさい。さらにハンケの時代、続いて多くの職人が東から入ってきた。そこからこの地方職人の間にも社会意識が芽生えていくことまで繋げていくと、一日がかりかも知れない。







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by kokouozumi | 2010-11-25 06:21 | オイラー | Comments(23)

オイラー2010 さらにもう1つの窯

IKKGから次の場所に移動した。移動先で出迎えた方が真っ先に伝えるところでは、IKKG所長のブラント教授から『連絡せよ』との伝言だった。
何事かと思いながら電話すると『時間があるなら案内したいところがある』と言う。断る理由はない。この町の何が出てきても興味深いし、見逃したくはない。

そんな訳でへーア・グレンツハウゼンを出て、隣町まで出かけることになった。そこに140キュービックの窯があるらしい。その町も窯業地のたたずまいがまだ残っていた。何がそのたたずまいか・・は単純で高い煙突をいくつも目にした。たどり着いた場所には大きなおおきな、いかにも古そうな工場が聳えていた。建物の裏側に到着したのだが、この中で今も仕事が行われているとすぐには理解できないような、人気のない、見捨てられたような雰囲気が漂っていた。中に入りすべてが古びて黒ずんでいるはずなのに、霧なのか埃なのか誇りなのかわからないものが漂い、白くかすむ部屋なのか納屋なのかわからないエリアをいくつか通り過ぎ、階段を何回か下りてやっと、煌々と明かりが灯る部屋が見えてきた。そこは部屋ではなく巨大な窯の中だった。140キュービックのガス窯を現在も毎年2回焼成している人物がその中にたたずんでいた。私たちを待っていたのではない、一人で窯詰めの仕事を続けているところだった。






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この窯も120年経っている。昔の燃料は薪と石炭だった。当時工場としては小規模な家内経営の土管製造工房だった。120年も前だから、家内工場としてこんなに巨大な窯を築いてしまった・・・または築く必要があったのだろう。現在の持ち主ヘルフリッヒさんがこの窯場に入ったのがいつからか、それ以前に火が消えていた期間があったのかどうか聞かないでしまったが、土管製造に利用されていたプレス機(機械轆轤)をそのまま使い続けて、巨大植木鉢製造を始めた。例によって80年代には大繁盛で外国から個数ではなくパレットで発注が来たそうだ。現在も年2回この窯を満たして焼成するが、その都度殆どの製品が売れてしまうそうだ。窯の天井までの高さは3mということなので幅6m×高さ3m×奥行き8mの大きさと想定する。窯片側の側面に巨大なガスバーナーが5つあった。この大きさなので両サイドにあるはずだが、確認しなかった。焼成時は今でも3人必要。約1週間焚き続けるので、一人が仮眠して2人が常に窯を監視しているのかと聞いたら、ガス窯はあまりやることがないので、そんなに監視もしないとの答え??むしろ窯出ししてからのほうが忙しい。製品の最終的なチェック、底みがき、値段付け。しかし巨大な植木鉢はいったい何処に買われていくのだろう。たとえばフライブルクでは家々の庭にそのような塩釉焼成の植木鉢が置かれている光景を殆ど見たことがない。ヴェスターヴァルト地方の風習なのだろうか。巨大な植木鉢を家の中に置く家庭がドイツは多いと以前感じたが、それは冬に植物を屋内で越冬させるようで、春と秋に移動させる植木鉢に塩釉炻器のものを利用する土地があるということか。

私はヘルフリッヒさんに出会ったとき、見覚えのある顔だとかすかにおもった。彼が製品の1つを手にしている写真を今眺めながら、もしかしたらあのドキュメントフィルムに登場した顔? それは例の42キュービック、オイラー窯復元焼成を記録したビデオで、町のヴェスターヴァルト陶芸美術館の片隅で延々流れていた映像だった。手元にある修復に関する文書を読み直したら、やっぱり彼の名前が出てきた。『修復の最終工程は焼成室内の修理だった。焔道や壁に硬く張り付いた塩や窯くずを剥がし、新たに漆喰を塗りなおす作業は重労働だったが、かつての土管工場、ヘルフリッヒ氏のところから4人の男たちが助けに来た・・。』とある。『さらに好都合となったのは、彼が自分の工房のプレス機を使って巨大カプセルを作り、しかも素焼きしてから運んできたことだ・・。』オイラー窯は何種かの特定の器を、種類ごとに積み重ねて埋めていくものだった。しかし現代の復元焼成では、たとえば昔と同じザウアークラウトの壷ばかり用意するわけには行かない。だからといって窯板をツクで組み立てていったら、塩の効果が行き渡らないらだろう。さまざまな器形を穴の開いたカプセルに入れて、重ねていけば窯詰めの苦労が半減するし、塩の効果も妨げない。
この修復後第一回の焼成で窯天井が落ちた際、呼ばれた二人の老オイラーの一人がヘルフリッヒさんだったかどうかはわからない。

この場所に案内してくださったブラント教授はかつて3年半、この工場で修行した。
80年代の一番忙しかった頃で、当時は20人が雇われていた。その後職人試験を受け、総合大学で芸術を学び、それから放浪が始まった→韓国、イギリス、ネパール、タイ、日本。それぞれの場所で何かしらの陶芸関連の仕事をするためだった。日本へ行ったのは信楽陶芸パーク滞在制作の奨学金を受けてだった。とにかくこの工場で3年半も勤められたなら、その後何だって出来そう!と、思えるような過酷な重労働を想像するヘルフリッヒさんの窯場だった。20年後にIKKGの所長という立場で戻ってきた時、70歳過ぎたヘルフリッヒさんは奥さんと二人だけで窯場を維持していた。ブラント教授はいまも時々手伝いに行き、自分の仕事スペースを一角に確保している。私たちがこの場所にやってくる途中、ブラント教授は自分の家に立ち寄った。5分ほど家の中に消え、再び戻ってきたときには大学教授風黒のロングコートから、上っ張りと帽子の職人風情に洋服が変わっていた。その帽子はヘルフリッヒさんからプレゼントされたもの。このブログのカバー写真で土堀りをしている職人がかぶっているのと同じ種類の帽子。

すべてを私の身勝手で、いいように結論づけたくはないが、モダンアートしか知らない若者を自由にさせ、指導する所長の心中にオイラーへの敬意が隠されているようだ。
ヨーロッパのテラシギラッタやテラニグロ、中東イスタンブールのタイル技法など、古代の陶芸技法に関する分析プロジェクトを何組も継続進行させて、留学生たちが故郷の伝統に思い当たるきっかけとしているようだ。当地の伝統窯も唯一維持している。それはバルツァー・コップという現代陶芸の旗手の贈り物。その中で学生たちは、オイラーが見たらびっくりするような作品を焼成している。この混沌が面白い。



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不思議な窯詰め・・塩はどこから・・







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ブラント教授が現在も使っているスペース。ここに来ると落ち着くのだと話していた






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大きな窯の中では、酸化気味の作品も生まれる


続く
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by kokouozumi | 2010-11-14 04:29 | オイラー | Comments(19)

オイラー2010 もう1つの窯屋

この日、IKKGにも行ってきました。






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IKKGに関する8月のメモにも書いたように、ここにもオイラー窯がある。
前出のオイラー窯は42キュービックの大きさだったが、この学校にあるものは7,5キュービックと聞いたので、幅1m×高さ1,5m×長さ5mと計算してみた。

窯も窯屋も小規模でありながら、構造は前出のものとほぼ同じ、典型的オイラー窯。
へーア・グレンツハウゼンの町に現在形が残っている3基のオイラー窯(前出の、昨年訪れたボルコの所とIKKG)のなかで唯一焼成可能な状態にあり、来年9月に次回焼成が予定されている。

窯屋の外に2つの焚口があり、一つがメ止めされずに扉を開け放したままになっている。窯屋内部に回ると焼成室の床に焔道がはっきり見える。外の開け放たれた焚口の光が差し込んでいるので焔道の傾斜もある程度わかる。窯の上は資材置き場のように物が並び、窯天井は隠れていたから火穴は見えなかったが、塩穴が左右の壁に5箇所づつ。窯が小さいように窯屋自体とてもコンパクトなので、ほぼ全体の印象が写真に納まったかな?

窯場の横に多くの薪がストックされているのは、この塩釉窯だけでなく、個人の陶芸家がよく使用するような近代的で小型の薪窯と穴窯(これもかなり小ぶり)があり計3基の薪窯を定期的に焼成しているのかと想像できる。薪は消費していかないと、燃焼力が衰え、無駄なストックとなっていくはず。

この窯屋と塩釉窯はかつて個人所有のものだったとの説明に「誰が?」と訊ね、「ヴァルツァー・コップ(Walzar-Kopp)」の答えにちょっと驚いた。このキャンパスはかつてのヴァルツァー・コップ一家の仕事場だったのか!




エルフリーデ・ヴァルツァー・コップは、ドイツ陶芸史に関する文章の中に必ず登場する名前。1930年代にパリ陶芸国際博覧会で受賞するなどの経歴を持つ。
エルフリーデ・ヴァルツァー・コップ(1904年へーア・グレンツハウゼンの地元生まれ、女性)がこの場所に仕事場を構えた頃、当地の窯業は工場体制での生産が一般的で、オイラーたちは企業家の肩書きである工場主を自ら名乗りたかった時代だった。エルフリーデはそのような窯業地のなかで、自ら窯を築き、焼成温度、時間、酸化と還元を入れ替える空気の流れについて、実験を繰り返していた。4年後さらにもう一人、ケルン生まれのヴィム・ミューレンディックがいわゆる手工芸陶芸家としてこの町に入ってきた。

現代陶芸の曙的存在はこのラインラントでオイラーの時代と同じ炻器土を使い、同じ窯を使い、エルフリーデはオブジェに、ミューレンディックは伝統的装飾技術を美術装飾としてドイツ陶芸しに残した。彼らの後にドイツ中の陶芸作家活動が続き、これも昨年バムピーのところで紹介した50年代の三代巨匠、釉薬とフォルムの時代へ移行していく。

この二人はなぜ、いわゆる個人作家としての将来を考えるに至ったのか?現代の世の中なら当然の選択も1920年代に、そのような個人制作志向の人々が現れ始めたのはなんだったのか?
そのきっかけとしてエルフリーデの登場に関するわずかな記録を目にしたことがある。19世紀末、ワンダーフォーゲル運動なるものが若者の間で流行した。ベルリンから発して多くの組織が生まれ、国中うろうろと若者が徒歩旅行を始めた。そのようにして自然回帰さらに独自の制作志向が生まれ始めた・・。
第二次産業革命以降、都市に発生した社会問題から端を発して、このような自然回帰のさまざまな思想が生まれたことは想像できる(イギリスのクラフト運動からドイツのバウハウスに続き、シュタイナーもこの頃)。野山を歩き廻ったみんなが手仕事をしたくなっ?。職人時代から美術陶芸家の時代に移行する唯一の事情だったとは思わない。むしろ産業革命は個人が好きなように制作する工房を持てる、便宜性をも生み出したと思う。たとえばついに電動轆轤が出現したように。

オイラーの側からは、その風潮をどう感じていたのだろう?例によってオイラーを記録した本の中に出てくるエピソードを紹介すると:-ミューレンディックの元で修行した若者が相当大きな作品も作るらしいと、既に町でうわさになっていた。その若者の工房中庭にある年老いたオイラーがやってきて『ゴッレ!』と挨拶したので若者も挨拶した。老オイラーは大壷を指差し『轆轤か?』と聞くので『そうだ』と答えると『ゴッレ!』と言い残し、老オイラーは立ち去った。

この限りなく短縮形の会話に、大物の轆轤成型は新手の陶芸家の追随をゆるさない自分たちの領域であるはず・・という老オイラーの不機嫌が感じられる。しかし次の話しに比べたら素朴な不機嫌といえる。

エルフリーデ・ヴァルツァー・コップは1930年代のパリ陶芸博覧会に塩釉炻器のオブジェを出品して受賞した。伝統的な技法でよい仕事をする努力というきわめて正統的な意識がしかし、オイラーの世界、まさに自然科学そのものを抽象的に温存し具体的に実行する方法を見逃したのかもしれない。私がまだオイラーのことを知らなかった時期、ある人が陶芸史上のエルフリーデ・ヴァルツァー・コップとヴィム・ミューレンディックについて、『彼らが塩釉炻器を駄目にした』と言及したのを覚えている。その人は現代陶芸作家として中堅の地位を確立していたし、陶芸の見識も信頼できる人物だっただけに、流れ去る伝統に棹さすようなこの発言が、意外に感じられ、耳に残った。

エルフリーデの息子、ハイナー・ヴァルツァー(1935年生まれ)も彼の時代に先駆的な考えを持つに至った。もはや窯業専門学校として技術を伝える時代ではない。新たな研究機関が必要と考え、IKKG設立に尽力し、親の代からの工房敷地を提供した。しかしハイナー・ヴァルツァー自身がその学校で教鞭をとることはなかったそうだ。なぜだろう?この町の根強い反発?オイラーの不機嫌が残っていたのだろうか。75歳になるハイナー・ヴァルツァーの大掛かりな回顧展を企画している人からも、この町の美術館に話を持っていきにくい・・と最近聞いた。皮肉なことに現在も焼成できるオイラー窯が唯一、このヴァツラー・コップ家を経由して残されている。


続く




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ニナ・ホーレの窯建造物


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IKKGの入り口にかけてあった写真、採土現場


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土を同じ深さで掘るためのシャベル。
個々の窯業者が掘った量から土代を計算しやすいように、荷車にも大きさの規定があった。
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by kokouozumi | 2010-11-09 09:09 | オイラー | Comments(13)

オイラー2010 あの窯屋

急に又、あの町
オイラーの町へ行ってきました。







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築140年の塩窯を持っている若夫婦の夫が、窯の焚口で薪割りをしていたので、一瞬「おっ!」と思いましたが、暖房用の薪作りでした。2008年の焼成後、窯床が沈下し始め全面修理が必修となりましたが、材料調達などのメドが立たないそうです。古い窯でも焚き続けていたなら、まだ大丈夫だったかもしれない。彼らが修復する前の50年間、窯が冷え切っている間に、窯内部に付着した塩がレンガに浸透しぼろぼろにした。

窯屋の中は相変わらずきれいに片付けられて、いつでも焼成ができそうです。2008年に焼いた塩釉作品は通路に一並べだけまだ残っていました。それから青絵付けの塩釉炻器を作り続け数年前に閉業した工房から、焼成のみ依頼された作品も通路の反対側にわずか残されていました。窯屋への入り口、製品の展示ルームに多分不在期日をインフォするための日付一覧が貼り付けてありました。それはまた年間12箇所のドイツ中の陶器市に出かけ、商売をしてくる記録でもあります。このブログ前回にキャンピングカーが出てきましたが、陶器市廻りをする陶芸家たちはあのような休暇志向のキャンピングカーではなく寸胴のワゴン車に製品を積み込み、市の場所に製品を下ろして出来る車内の空間で寝泊りしながらの放浪商売です。多分ホテルに宿泊するようなことはしない・・いえ出来ないでしょう。私は何人かの知り合い陶芸家が持っているワゴン車を知っています。なんとまあ面白いほど機能的に寝台やちょっとしたテーブル・椅子を内部に備えていることかと、これで商売するという厳しい状況を知らなければ、夢の移動手段に見えます。



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窯屋では夏の間、映画会が行われるようです

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片隅にビニールシートをかけ、こんなクラシックなオートバイが保管されている




さて、この町にはなくなったものとまだ残されているものが、渾然一体となって同居しています。町のある通りを辿ることは、19世紀のオイラー工房、19世紀の炻器工場、そして20世紀に設立された陶芸専門学校の建物を見つけることになります。



以前、この町の陶芸祭りのガイドパンフレットに45の工房が紹介されていました。昔からのオイラー工房として、私の知っている限りの名前は約5軒ほど。その他は昔ながらの工房に新世代の陶工または陶芸家が入れ替わって住んでいるか、全く新しい工房ができたかしていると思われます。

築140年の窯場に住み、制作をするこの夫婦が一例になるような、持ち主の入れ替えは、現代になって始まった現象ではないはずです。この窯が築かれた頃1860年からの窯場数統計数値だけを読み取ると、1862年にへーアで32の工房が記録され、1879年にはへーア42、グレンツハウゼン13。(こちらの地域には水瓶製造者が多くこの年40人の従業者が記録されている。また両地の炻器工場は含まれていない。)へーアとグレンツハウゼンが統合された1938年の工房総数は39。戦後の1948年に37とわずかに減っただけだったが、1961年ついに6軒の数字が記録されています。この数値から代替わりしたのか、持ち主が変わったのかという事情は読み取ることができません。カトリックのへーアとプロテスタントのグレンツハウゼンでは、窯場が維持され方にも違いがあり、へーアでは就業した弟子が工房を受け継ぐケースが多く、グレンツハウゼンでは家族の次世代へと引き継いでいくことが多かったようです。
 この町のオイラー窯業の時代が過ぎ去った現在も多くの陶芸家が住んでいるのは、いまだに窯業に関連する公的な機関が多いことにも起因するでしょう。陶芸祭りガイドには7箇所の施設が記されています。ヴェスターヴァルト陶芸博物館、陶芸・ガラス原材料研究所、陶芸テクノロジーと原材料センターの他、4箇所は専門学校です。IKKG(陶芸・ガラス造形研究所)のことは既に最近このブログにメモしました。IKKGと同列でコブレンツ単科大の専門分野として陶芸技術部門の専門研究所もこの町にあります。さらに地域の職業訓練学校の陶芸部門がやはりこの町に置かれています。残る1つは公立(国立)陶芸専門学校です。

学校の所在地から、オイラー時代商館に開設された初めの窯業学校につながるのはいったいどの学校か、突き止めるのは不可能です。このような窯業の町ゆえに専門学校が次第に枝分かれして、今は4つもあると曖昧に理解しておきます。と言うのも、どの学校にどのような指導者がいたかで、時代により学校の番付が入れ替わりながら、現在に続いているからです。深く考えると頭の中がごちゃごちゃになるのです。どの学校にも造形指導、技術指導のカリキュラムがあり、体育の授業があるかないかの差になってきます。う~ん、それを決め手とするならば、私は体育のないIKKGに軍配を上げたいような・・・手仕事に体育は必要かもしれず・・・

続く


参考までに
2008年のこの窯屋訪問時のメモは下記に↓


オイラーが・・ 塩釉炻器窯 焚口部分
オイラーが・・ 塩釉炻器窯 2 窯内部と窯屋
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by kokouozumi | 2010-10-29 03:56 | オイラー | Comments(39)


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