カテゴリ:美術( 29 )

作品 その2





もうすぐ10月。冬の準備や冬の前にやるべきこととか、いろいろなことをもう後回しに出来なくなった。木の柵や戸に保護ペンキを塗らなければ。そのペンキを探しにホームセンターへ出かけ、ついでに薪も買い込む。買い物を積み込んでの帰りがけ、こんな作品に出くわした。



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鶏小屋のある庭からは廃墟が眺められる。鶏小屋にはちゃんと鶏専用の入り口が開いている。一匹の雄鶏がいかにもうるさそうに鳴いているようなのはペーターソンとフィンドスの話を思い出す。私はペーターソンとフィンドスの動画でこの鶏小屋のつくりを知ることになったのだが、この町に引っ越したら、昔農家だったらしい造りの家が多く残っていて、そのような家の中庭にある納屋には隅のほうに必ず小さな鶏専用の出入り口が残っている。



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作品はある物体の周りをぐるりと取り囲んで描かれている。
このキツネさんの左右を見ればその物体がなにかばればれだが・・・






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柔らかな白とグレーの陰影でやさしく描かれている羊が2匹。単純そうでなかなか丁寧な描きこみの、この部分から作品が始まったのではないかしら。







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羊や牛達の牧場と反対側には、のどかという言葉に対して理想的な家が。もちろん犬も猫も住んでいなければ。





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しかしこのワン君、遠目にはおとなしそうに見えるのに、玄関の注意書きをよく読むと、「噛み付く犬に注意」ということだ。






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鶏と羊と牛と犬と猫・・・は見かけたが、人間は一人も描かれていない・・・
しかしこの場所にもかつては領主が居て、領主の館が高台に聳えていた。さてこの館から建築様式を探り出し、この場所が何処なのかを割り出すことが出来る人は?
それが出来たら、絵の作者がこの車に乗って何処に行きたいのか、分かるだろう。








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制作者をちらりと見かけた。小柄なおばあさんだった。









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助手席側のバックミュラーに描く、ペンキを買いに来たのだろうか?
一体どのくらいの時間をかけて、この絵は描き続けられたのだろう?
どんな場所で?
おばあさんはさっさと買い物に行ってしまった。車の周りをひとまわりしながら絵を追いかけていると、聞いてみたいことが次々思いついて、おばあちゃん早く帰ってこないかな、とホームセンターの入り口につい目を向けてしまった。

いつか又この車とおばあさんに会えるかもしれないという楽しみが出来た。

この町に引っ越してからそろそろ1年。
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by kokouozumi | 2014-09-26 07:23 | 美術 | Comments(0)

作品

作品制作の現場は大抵、秘密裏に行われているものです。
5月のこの場面も今日まで公開を控えていました。








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作品そのものは・・・後からの写真で分かるように、この彼がこつこつ作っていたものです





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2種類の作品を2重構造にする段階で
間にアクリル板を置き、3重の効果を作り上げようと、言うことで仕上げの場面に父が登場。





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3重構造が、美しい効果となるために、慎重な作業が続きます。
父の顔には疲労がにじみ・・・午後9時





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用意された夜食は現場撮影者の私が楽しむのみで
父と子には関係ない






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このトマトいいよね!
今繰り広げられている場面は、複雑な構造をまとめる仕事だけれども
実は、こんな新鮮なトマトを描くセンスが、隠されている。






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荒削りな一筆書きの中に、何でこんな靴下三本が隠されているの
作者が遊んだ瞬間が面白い






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別な構造コンセプト、
千手観音をすぐに思い浮かべるけど
観音様の本体はドイチェポスト、つまり郵便局の小包送り状に描かれている
周りは手の素描・・・デュラーの手まで
ドイチェポストは僕の意識を届けてくれるだろうか・・・






そう、この制作現場は美大受験の作品作り
彼の元に、今日合格通知が届いて

制作現場公開します
おめでとう!!
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by kokouozumi | 2014-08-02 06:45 | 美術 | Comments(0)

立体万華鏡







昨日の日曜日はついに第一アドベントの日を迎え、大事な日曜礼拝なので、ご近所の教会でもさまざまな音楽家がアクセントを形作ったようです。これは工房や最近私が引越しした家の大家さん家族から聞いた話しで、工房の大家さんはクラシック音楽、私の大家さん(工房の大家さんの娘さん)はポップ系ですが、昨日は両者とも違う教会で演奏していました。

ワンテンポはずしてしまいましたが、第一アドベントに相応しい映像はこれでしょう。
立方体万華鏡の内部をカメラが覗いたものです。


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美大同級生の作品(本人山崎氏の映像より)






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(園田氏 写真)
ワークショップでは自作の箱にタイトルも考えるのですが・・・
『ハレルヤ』
どうして!!こんなタイトルが思い浮かぶの!!すごっ







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(園田氏 写真)

で、その『ハレルヤ』作品。お友達同士男の子二人の共作








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(園田氏 写真)
こちらはモダンな赤と白・・・しかし・・・
この赤と白、鮪の乗っかった鮨ではと、限りなく思えてくる。
タイトルは『大晦日』
ご両親様、大晦日には彼に鮪鮨を万華鏡内に見えるだけ、振舞ってください!
とつぜん、近眼の親にならないでくださいよ。






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(園田氏 写真)

こちらは、そのお姉さん作
タイトルは『クリスマスの森』
一見、兄弟の感性は似ているようで、意図は全く違う・・・







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(園田氏 写真)

そのお母さん作
朝・昼・晩を描いている
にぎやかだけど、こんなに静かな時間は、この箱の中にしかないのよね?





この立方体万華鏡、最近では3D万華鏡ともネーミングされましたが、1970年代後半に、私の美大時代の同級生が1年次の課題制作に提出した作品が起源となっています。
その課題は『増殖する形』というものでした・・・確か。現在も過去においても怠け者だった私は、自分がどんな作品を提出したか全然覚えていないのですが、記憶に残っているのは、電球をいくつかぶら下げて遅れて講評会にやって来た一人が、この電球を部屋に吊るしてモーツアルトの音楽を聞いていると、音が部屋中に増殖するといって、みんなを煙に巻いたことと、この鏡ボックスの中に形を増殖させた作品です。後者は当時の教授の絶賛を得て、同級生一同その箱を覗いて、彼の頭の構造が我々よりも数段優れていることに、素直に感嘆したものです。裏面塗装を点または線で剥がした6面の鏡で構築された立方体の内部には、その塗装を剥がされた部分から光が差し込み、線や点の形が鏡張りの内部に何処までも増殖していくという考えです。

その作品は雑誌に取り上げられたり、販売もされるようになって、多くの人の目に触れることとなりましたが、この作品を目にしたある化学物理学者が、この作品を考えたのは誰だ!と追求したお陰で、独逸のぼんくら同級生も、かつての課題優秀作品が今、ユニバーサルアートとして、世界中で紹介されている経緯を知ることとなりました。

その科学物理学者の園田氏はリチウム電池の研究では世界で何本かの指に入る方で、世界中を駆け回っている。その分野のすごさは私にとって計り知れないものですが、もっとすごいのは立体万華鏡作りをそのいく先々、つまり世界中でワークショップしていることです。ワークショップの展開はホスピスの子供達にも・・ということになり、彼らに許された制作時間や扱うことの可能な軽さを求めて、素材キットの開発に着手されたのです。ガラス版は紙のように薄い樹脂ミラーが探し出され、裏面塗料を削る作業も小型ルーターを利用することになりました。

その素材研究によって、とても扱いが簡単になったキットを利用して、Stuttgart日本人会行事の一環としてチャリティーワークショップを行い、生まれたのが上記の作品です。チャリティーの目的は、郷里渡波の子供達が対象でした。その辺の背景や園田氏の活動を、このように駆け足の説明で今回は省略してしまい、申し訳ない限りですが、また機会を捉えて話しを続行させていきたく、お許しを。
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by kokouozumi | 2013-12-03 08:23 | 美術 | Comments(0)

デューラーを観るには










2010年日本、2011年合衆国、そして昨年はデューラーの故郷、ニュールンベルク。先週からフランクフルトでの展覧会が始まり、同時にロンドンで初期作品のみの展覧会。デューラーの作品は世界中を駆け回っているようです。


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行列でした。外に入場券売り場が特設されていました






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2010年、日本の西洋美術館が用意したタイトルは『宗教・肖像・自然』でした。看板となった作品はデューラー1500年の肖像画。これってキリストと同じ髪型よね、と連想させる美しい衣装の両肩に広がる長髪カールの自画像は「神が作り給もうたこの世界を、自然を、私は捉えようとしているのだよ!」と言いたげな自身に満ちたまなざしを、まっすぐに鑑賞者へ向けています。なるほど『宗教・肖像・自然』は、このデューラーのまなざしにぴったりな、テーマ。

今回訪れたFrankfurt Städel Museum (1815年、銀行家だったStädel氏の遺言によって、氏の収集品【14世紀-19世紀】をもとに生まれた私立美術館) でのデューラー展テーマは『芸術・芸術家・コンテクスト』。そしてテーマに付随して選ばれた作品は1497年作の「Fürlegerin」というタイトルがついている若い女性の肖像画。

「Fürlegerin」って何?とWeb検索した人はやっぱり他にもいて、
*中世にFürlegerin(フュアレーゲリン)という職業があったの?もし個人の苗字だったら、デューラーのタイトルはeiner Fürlegerinではなく、der Fürlegerinとなるでしょう。
の、質問に対するベスト回答として(独逸Yahoo)
*中世の君主のところにFürlegerという役所があって、そこから派遣された女性が、君主の食卓を準備して、主人を食卓に着かせていた。(この回答は40%の支持率だが信憑性はいまいち薄いような)それ以外にも、いややっぱり個人の苗字であるとか、Wikiにも出てこない言葉で謎であるとか、少数の意見が並んでいるだけで、結局良くわからない。テーマに掲げられた『コンテクスト』は脈略、文脈や背景の意味があるけれど、この展覧会に赴く人々は、デューラー作品を目にする前から、彼の時代背景を探ることになるのだろうか?デューラー代表作の1つ、銅版画『メランコリーⅠ』は世界中で謎解きが試みられているから、その作品を所有するStädel Museumとしては・・そうさせたいのかもしれない。

とにかく観るしかないのである。

そして観た後、彼の時代の背景どころか、一つ一つの作品にどんな場面が描かれていたのかもはっきり記憶していない・・・。デューラーの線描が美しすぎる。木版、銅版、鉄版、それぞれの素材による微妙な線の違いも興味深いが、巧みすぎる技巧に目を見張り、その線に目が張り付いてしまう状況だった。史上最高の版画家という彼のタイトルは本当だとうなずいた。時代背景としてわかったと言えることは、美術史的にしろ、この美しい線で構成された版画に接しながら聖書の物語を目にし、楽しんだ人々が多くいたに違いない時代をデューラーが作り出した、ということ。

会場では、携帯電話のようなトーク機を耳に当て、ある女優が吹き込んだという解説を聞きながら歩いている人々が多かった。解説が無ければ、展覧会の目玉作品を見のがすかもしれない。3枚折の祭壇画を、これはいいやと通り過ぎてしまったが、後からその大作はデューラーとグリューネワルトの共作であることがわかった。しかしさらに後から判ったことは、中心の画面は火事で失われており17世紀の画家がコピーしていたというので、通り過ぎた感覚にも一理あったかもしれない。

ところで例の『Fürlegerin』だが、会場にはなんと2枚の若い女性の肖像画『Fürlegerin』があった。そこで熱心に解説を読んでみたのだが、両者の絵はどちらも1497年、デューラーがイタリア旅行から帰った直後に描かれていて、どちらの背景にも後から付けたしたような紋章がある。その紋章はニュールンベルクの豪商Fürlegerin家のものだというので、『Fürlegerin』の謎にひとまず苗字という答えが出たわけだが、
次の謎々が始まった。一枚の『Fürlegerin』は質素な服を身につけ、髪を下ろし、胸の前で手を合わせ、祈りをささげているのに対し、もう一枚の『Fürlegerin』は当時ニュールンベルグのダンス服と名づけられた胸の開いた華やかな服、髪は頭上高く結い上げられて、視線はまっすぐこちらを見ている。この対照的なモチーフとなっている二人の女性は同一人物だったのではないか?と。

イタリアでルネッサンスの気運に触れてきたデューラーが、この2枚の肖像画の間で何を試みたのか?という部分に今回の展覧会テーマ『コンテクスト』の意味がありそう。独逸の1497年。いまだに中世的な観点に縛られている流れと、イタリアから起こったルネッサンスの影響によるヒューマニズム、人間性、個性を尊重しようとする二つの流れが重なり合っているような時代のこと。現代人はそのように観念的な言葉で簡単に言ってしまえるが、そのような当時に同一の若い女性を、二つの流れとして絵の中に表現したとしたら、イタリアから帰ったばかりのデューラーの自意識そのものが、かなり高揚していたのではないか。それ以降、人間を描くというテーマにデューラーがどれだけ思考と試行を重ねてきたかを捉えて、西洋美術館では『肖像画』を前面に出し、Städel Museumでは『コンテクスト』としてデューラーの年代から彼の制作意識を謎解きする。ちなみに『メランコリーⅠ』の画面右上には4×4魔方陣の中で、デューラーは15と14を並べて、その作品の制作年代1514年を暗示して、彼自身が年代で遊んでいる。

展覧会を観るのに、美術館側が一生懸命準備しただろうテーマを追いかけてみるのも面白いが、会場の中では、勝手なささやきもさまざま聞こえてくる。独逸で初めての裸体画であるらしい『アダムとイヴ』を見ながら、イタリアからもっと素敵なプロポーションを研究してきて欲しかったと、つぶやいている人もいた。デューラーは漫画家だったのか・・という人も。工房に戻って作業をしていると、あの線を描いているデューラーはいったいどんな顔をしていたのか?と思ってしまう。

これまで、デューラーの名とその作品しか知らなかったが、彼の作品が世界中を駆け巡り、鑑賞した人々の頭の中におぼろげなデューラーという人間像が百人百様で浮かんでいるとしたら、3Dコピーマシーンも太刀打ちできない・・・だろうね。















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デューラーの母 肖像画、左は1490年、右は1499年







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by kokouozumi | 2013-11-07 07:50 | 美術 | Comments(4)

レンバッハ美術館の物語



ミュンヘン・レンバッハ美術館は2009年から改築のために閉館していた。増え続ける訪問者に対応できるよう、エントランス部分の増築が改築理由の一つだった。




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私も再び開館することを心待ちにしていた一人で、4年間の工事を終了し、今年5月の再オープンから約1ヶ月後、ミュンヘンでの仕事途中に、美術館閉館時間が17時ならぎりぎりの15時に、とにかく館内を一目見るだけでもと訪れたそこは、3つのチケット売り場とも、このような行列で30分ほど並ぶことになった。ミュンヘン市が管理する美術館は最近20時まで開館時間を延長するようになったので、15時は午後の訪問者ピーク時だったようだが、確かにこの美術館は人気があるらしい。

チケットを求めて並ぶ人々の背景にある黄土色の壁が、旧美術館建物の一部であり、増築はその旧外壁を内側に取り込むという方法で行われた。その黄土色の建物が美術館の名前に冠せられたレンバッハ氏の邸宅であり、改築前は表門をくぐり、庭園を横切って、画家であり貴族であったレーンバッハ氏がアントワープ・ルーベンスの家を真似したかったという支柱のある円形張り出しのバルコンから入るのだから、見学前からなかなか優雅な気分になれる美術館だった。そしてフランツ・レンバッハ自ら4000点も描いたという作品の一部と彼のコレクションの間をさ迷う内に、突如グループ『青い騎士』たちの作品群の部屋が出現するのだった。

増築後、黄土色の建物の一部を覆うゴールドのエントランスからは、『青い騎士』の部屋へ直接向かう裏道が堂々と用意されている。かつては階段踊り場に待機していた係り員がいちいち訪問者に示していたルートが、エントランス上方に一目瞭然の表示として掲げられている。多くの人々はそちらへ流れる。『青い騎士』が人気なのだろうか。彼らの作品群が持ち込まれたことによって、このレンバッハ美術館の知名度は世界的になった。だがそうなった経緯に潜むある男と女の出会い、二人の画家の遭遇から始まる物語に、あるいは人々の関心があるのかもしれない。

1877年ベルリン生まれのガブリエレ・ミュンター(Gabriele Münter)は1897年、二十歳になって、当時女子の方向としては稀有の絵画技法を学び始める。女性が芸術家としての道を究めることは難しかったはずだが、女流芸術家協会という門戸はすでに用意されてたいた。日本では明治というこの時代の女性たちを考えると、マイナーかもしれないが私は芸大出身女性漫画家、一関圭の作品を思い出してしまう。彼女はその時代に医者や画家へと、自分の道を求める女性たちを描いていた。
ドイツのミュンターさんもそのように、当時を突っ走った女性だったのだろうか。
デュッセルドルフ、コブレンツ、そしてミュンヘンへと学ぶ場所を移動し、それは受け入れてもらえる絵画学校を遍歴しながらということだが、絵画修行を積み重ね、やがて運命的な出会い、カンディンスキーが教鞭を取る絵画教室に所属する。
*1902年のこと、ミュンター25歳、カンディンスキー36歳、カンディンスキーがロシアでのキャリアを捨てて(弁護士)絵の道に入ったのは30歳になってから。画家としてのキャリアは殆ど同じ年数なのだが・・・
カンディンスキー率いる夏季講習という写真がある。彼の傍には女生徒ばかり写っているのだが、進歩的な教師であったカンディンスキーは女性たちにもきっちりと、芸術の本質を伝えようとしていた。彼の指導はミュンターにとって、画家としての道を切り開く大いなる力だった。いつの間にか個人的指導者のような彼に付き従ってミュンヘンからオランダ、イタリア、フランス、北アフリカまでも制作旅行を共にしている。
1909年、ミュンターはミュンヘンからアルプス山脈に近づいた、山の麓にある田舎町、ムルナウに小さな家を購入する。旅行の日々からミュンヘン近郊に制作基地となる場所を求めたのはカンディンスキーの意向でもある。

その家のことを私はフライブルクに住んでいた時、大家さんから聞いた。大家さんはガラス絵を描く人だったが、黒い森地方に伝わるガラス絵イコンは、基を辿るとロシアイコンにつながるということから、「カンディンスキーのガラス絵がそこにあるのだよ。しかし彼のガラス絵はバイエルンの農民芸術からの影響だが・・・」という話が忘れられず、いつか行ってみたいと願っていた家で、数年前にその機会を得た。

カンディンスキーはムルナウでその土地に伝わる農民芸術、家の家具に絵を描いてしまう風習に狂喜して、ミュンターと共に家の壁や家具にペインティングしてしまう。さらに彼らを訪れた画家仲間のヤウレンスキーが、その村の居酒屋で農民たちのガラス絵を発見した。ガラス絵はまず黒い線描によって対象物の形を分け、その中に明確な色彩が与えられ、絵全体がそれぞれの形に区分けされはっきりとした色彩によって輝きを持つ。ガラス絵のこの印象が、彼らの絵画技法に対する新たな研磨につながり、カンディンスキーやミュンターの画家仲間をマグネットのように結びつけ、フランツ・マルク、アウグスト・マッケ、ハインリッヒ・カンペンドンクなどが、彼らの絵の中に新たな色彩の輝きというテーマを求め始める。

ミュンターにとって、ムルナウの家は、彼女の絵画的発想を刺激する場所に他ならなかっただろう。その場所にある自然から拾う色彩、その場所に住む人々の精神的よりどころ、それを捉えるパートナー、カンディンスキーの解説。カンディンスキーはその家に集まる仲間と共に『青い騎士』という新しい集まりを発足させた。その頃のクレーの日記に次のような記載を見つけた。
「・・カンディンスキー、この男は人をひきつける魅力に溢れている。1ブロック隣に住んでいる。・・・このロシア人の絵は対象のない、奇怪きわまる画だ。・・
カンディンスキーは、芸術家の新しい集まりを作ろうとしている。近所の酒場で偶然出会ってから、私は親しく付き合っているが、つきあえば、つきあうほど、彼にますます深い信頼感を寄せるようになる。彼は平凡な男ではなく、並外れて明晰な頭脳の持ち主なのだ。・・・私は『青い騎士』の仲間に入った。」

ミュンターもカンディンスキーという教師であり、パートナーである人間の傍で培われていた。その温床はしかし時代に押し流されてしまう。カンディンスキーは1915年、革命のロシアに消え去って後、ミュンターの元へは二度と戻ることが無かった。当時ロシアとドイツとの関係は怪しく、ロシア人のドイツ入国が許可されなくなり、ミュンターはスカンジナビアに出向いて、カンディンスキーとの再会の機会を待っていた1917年、彼がロシアで結婚したことを知った。

それから10年、ミュンターが失意のうつ病を克服して、再び制作に向かい始めた頃、カンディンスキーから、ムルナウに全部放り出して行った彼の作品返却を求められ、1年近く法的な争いをすることとなる。
*カンディンスキーから自分の作品の返却を求められたのは1922年、法的な結論が出たのは1926年。その間に法的な争いとなった年数はわからない。
結果的に大作の数枚を返しただけで、殆どの作品は彼女の元に残るが、それはある金銭的な代償というよりも、むしろミュンターのほうが家賃を払い続けてミュンヘンの倉庫に保管するなど、負担を背負いながらも、守るべきものを確保したということだった。さらに第二次大戦直前にはナチスの目から逃れるべく、当時ミュンターの新たな伴侶であった、美術史家のアイヒナー氏とともにムルナウの地下室に隠し持つことになった。戦時中ミュンターはアイヒナー氏と共にその家でひっそりと暮らしていた。

戦後50年代になって、アイヒナー氏はレンバッハ美術館館長と知り合いになる。それからさらに5年の歳月が過ぎ去った時、美術館長は初めてムルナウの家の地下室に案内される。翌年1957年、80歳の誕生日を機にミュンターは大事に隠し持っていたカンディンスキー90点を含む、『青い騎士』たちの作品と自分の作品、カンディンスキーの書簡や写真をレンバッハ美術館(ミュンヘン市)に寄贈した。それだけで終わらずアイヒナー氏と共名の基金を美術館長に託し、ガブリエレ・ミュンターが亡くなった4年後の1966年からその基金は活動権をもち、ミュンターが残した大いなる遺産(作品群)を基に、ミュンターとカンディンスキー及び青い騎士メンバーの画家たちに関する研究が続けられている。

蛇足だが、カンディンスキーはバウハウスの指導者として再びドイツに暮らしながら、ミュンヘン、ムルナウを再訪することはなかった。また戦前にその土地で制作した自分の作品を再び目にすることも無かったし、当時の友人たちとの交流も途絶えてしまった。しかし同じくバウハウスの教師となったクレーと再会し、昔の仲間ヤウレンスキーにファイニンガーを加えて、1924年デッサウにて『青の4人』を結成した。







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by kokouozumi | 2013-06-09 02:39 | 美術 | Comments(0)

いつしかと








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この冬は、『方丈記私記』に続いて、やはり堀田義衛の『定家明月記 私抄』をついに読み初めている。ついにと書いたが、この本も長い間、読む機会が待たれていた。

きっかけは三島由紀夫だった。
あの
見渡せば 花ももみじもなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ
という定家の歌に関して、『花ももみじもなかりけり』は純粋に言語の魔法である・・・
ということから始まり、「存在しないものの美学」云々ということになっていく。
このような解釈をドイツに来てから読んだのだが、それまで全くと言ってよいほど和歌に無関心だった私は、せいぜい百人一首で坊主めくりをしたぐらいしか思い出せないでいると、その百人一首も定家の選ということも書かれていたので、思わずフ~ム。しかしその頃はまだ、ネット上で定家の情報を集める環境、私には無かった。

多分・・その後日本へ帰国した際に、『定家明月記 私抄』を本屋で見つけ購入した。ところがドイツに戻り良く見たら、『定家明月記 私抄 続編』を買ってきたことを発見。それから正編を見つけるまで、実にまた10年も年数を要し、つい昨年やっと手に入れたのです。

また発刊年の話になるが、私の手元にある『続編』は1996年第1刷、『正編』は2011年第6刷のものだから、その間に古本屋サイトまで探して見つけるチャンスが無かったのは、やはり遠い場所での不便と考えるしかない。

この冬、『方丈記私記』を開くことになったのも、『定家明月記 私抄』の正・続が揃った勢いかもしれない。では、そろったところで堀田義衛の中世文学解説に浸ってみようという。

しかし、方丈記に比べて明月記は手ごわい。それに関して著者みずからの話がある。長明の方丈記再発見と同じころ、東京大空襲の最中、堀田義衛は明月記という日記の中に、藤原定家19歳の一文「戦争など俺の知ったことか」に愕然とする。
原文は【世上乱逆追討耳二満ツト雖モ、之ヲ注セズ。紅旗征伐我ガ事二非ズ】
定家19歳の頃の世の中は源平合戦という、戦乱の時。それを定家は中国の詩からひっぱり出した表現を使い、紅旗征伐我ガ事二非ズ、と言い切っている。若い。「定家のこの一言は、当時の文学青年たちにとって胸に痛いほどのものであった。自分が始めたわけでもない戦争によって、まだ文学の仕事を始めてもいないのに戦場でとり殺されるかも知れぬ時、戦争など俺の知ったことか・・・の一言に胸の張り裂けるような・・・」
というわけで「この日記三巻を読まずして、死ぬことは出来ない」と古本屋を脅かし、手に入れ茫然とする。「漢文体であることは言うまででもなく、それも難しい漢字ばかりが詰め込まれていて、返り点もなく・・・」
そして、大変な苦労をして探し出した古本屋の老主人にお詫びに行くことになる。

『定家明月記 私抄』はその明月記を著者が40年もの歳月をかけて紐解いてきた結果を、その長い付き合いの中で親しんできた定家という人物を、多くの人が読める言葉で伝えようとしている。手取り足取りという按配の堀田解説の文章が、これまた美しすぎる。さらに定家の雰囲気を伝えるためか、はたまた自分が遭遇したこの本の手ごわさを伝えるためか、難しい漢字が山のように出てくる。もし10年前に私がこの本の正・続を揃えて読み始めていたら、音読みも訓読みも不可能な文章の連なりに、早々に投げ出していたことだろう。今は電子辞書という強い見方がある。読み方がわからなければ手書き検索という手段で・・・探せばその漢字の意味がわかってくるからすばらしい。ドイツ暮らしのために用意した電子辞書が、まさか日本語のためにこれほど活用することになるとは、この本を読むまでゆめゆめ思わなかったこと。たとえば了を(をはんぬ)と読み、宣を(むべき)と読むことがわかって、入っていける世界が中世文学らしい。だがしかし、定家が勤めをサボることを「逐電シタ」と書いているので喜んでしまったり。

文庫本の表紙には堀田義衛の、あの優しい笑顔の写真がある。電子辞書を駆使しながらこの本を読んでいると、「ぼんくらな貴方も少しは漢字の勉強になりましたか?」と、微笑んでいるように見える。

まだ読書途中なので、この本が描く定家像を言うことはできない。優れたこの本の評論などはネット上でも多く読むことが出来るので、たとえ読破したとしても、それ以上のことを付け加える必要はないだろう。歴史上良く知られた登場人物たち、特に西行、後鳥羽上皇、そして鴨長明とのからみによって説明される中世文学の世界は、推理小説のように面白い。違うのは、ストーリー展開を追うあまり、ページを読み飛ばせないことだ。続編の最後には井上ひさしの解説が入るという、豪華版だがイツニナッタラそこにたどりつくのだろう。

「いつしかと」は定家の歌人としてもっとも華麗かつ絢爛たる頃、しかしもっとも貧窮多難な時の、春の歌12首始まりの一語に用いられている。「いつの間にか」というような意味。明月記は定家19歳から始まり、60歳を過ぎるまで続くのだが、その間20代後半のいわゆる職業歌人修行時代はざっくり中断されている。その部分を堀田良衛は他の文献から探り出している。鎌倉幕府が成立、しかし頼朝没のころ、定家は既に39歳。朝廷に仕える歌人とはいえ、朝廷からのサラリーなどは全く無い。頼みの綱、荘園からの上がりも地頭に邪魔されてなかなか届かない。この頃の貴族って大変だったのね。

定家の物語に没頭している私の周りでは、春がいつの間にか訪れ、ぼやぼやしていると夏になってしまうのか・・・。




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冬の掃除人が切符を買っている。春を迎えに
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by kokouozumi | 2013-01-29 09:13 | 美術 | Comments(0)

電車の中

電車の中で読む本は、気分のおもむくまま、とりとめもなく手にしていくのだが・・






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1時間の通勤時間(ドアからドア)のうち、電車の中に座っていることは30分ぐらい。往復では一応数字上、1時間の読書時間が一日の中に規則正しく確保されることになる。帰路は集中できなかったり、疲れて読めなかったりすることもあり、確実なのは通勤ラッシュ時間の後、乗り合わせる人の少ない往路30分。30分とはいえ毎日この時間があるということは、1冊の本を読破するのに有効なのだと、このごろ思うようになりました。

住居と仕事場が一体化していたとき、いつもゆっくり本を読みたいと願っていなかっただろうか。ある本を読み始めても、仕事場を持つ自営業者として、急ぎが発生すれば何を差し置いても、一日中、いや昼夜を忘れてその作業にかかりっきりになるもので、案外規則正しい生活とはいかない場合が多いのです。昔ながらの手工業者のイメージ、早朝から日暮れまでの労働は、肉体労働者の時間的限界や能率性を捉えているもので、それが昼夜を忘れる状況になるのは、どこかでサボっているだけの話だが。
話が矛盾するようですが、面白い本を読み始めたら止められなくなって、本来の仕事に取り掛からなかったという勇ましい話、手工業者の端くれになったばかりの学生時代なら・・・春闘の季節、長期交通ストを予測して、吉川英治の宮本武蔵全8巻を用意したのに、1日で終結して、翌日宮本武蔵を抱えて山手線を2周しました・・・なんて・・・言えたけど、仕事場を抱えた身分では、これが縛りというのか・・そうはいかない。
ですから、その場から離れ、短くても毎日の継続した読書の時間があるのは効果的なのです。

堀田義衛の『方丈記私記』もそのように、長い間読むことを中断していた一冊だった。日本からどの本をどの時点でドイツに持ち込んだのか、今となってははっきりしないが、学生時代に『ゴヤ』を読み、その後この作家の本をかなり集めた記憶があるので、その収集の1冊を、ドイツに来る時点で選択したのではないかと想像する。初版は1970年代だが、私の持っているのは文庫本1988年第1版で、以来30年t近い年月が流れる中で、読破したのは今回が初めて。

方丈記のあの有名な始まり、ゆく河のながれ・・・の部分はこの本の後半になってやっと出てくる。『方丈記私記』の冒頭は、目の前に起こっている大火の様子がまるで方丈記で描写されていることではないかと、堀田義衛が東京大空襲の最中に方丈記を再発見したことから始まる。そして鴨長明が実際に京の都で大火を見ていたのが長明20歳代のころなら(1177年)、堀田義衛が空襲にあったのも20何歳かの時。そして鴨長明が方丈記を書き始めたのは58歳、堀田義衛が『方丈記私記』を書くに至ったのも50歳半ばという700年をも経た年齢のオーバーラップがわかったところで初めて、ゆく河の流れは絶えずして・・・と、序の章が登場する。

若かりし時に体験した、大火、竜巻、遷都、飢饉、地震を鴨長明は50歳半ばを過ぎて、克明に描写しているのだが、堀田義衛は源平合戦から鎌倉時代へ、朝廷から武家社会への政治的移り変わりの説明を加え、その時代の朝廷衰退のような気運のなかで、中世日本文学はその世の中の騒ぎを無視しきった、世界に比べるもののないほどの抽象的世界、幽玄の表現であった、それが絶対だった。としながらも、その幽玄調をその時代の人としてただ一人鴨長明が、皮肉っていた。「あいつらがやっていること、三百年前の言葉で歌を作るなんて本当はたいしたことではないのだ。現在の言葉でものを考えるほうがずっと難しいのだ。」と、長明の弁を拾い上げる。しかしまたすぐ、長明はとげのある人だが、歌はあまりうまくないよね。やっぱり定家のすごさにはかなわない。自分も中世文学の幽玄を否定できないと、続くから鴨長明の面目はどうなるのかと思いながら、気が付けば藤原定家、源実朝、西行から吉田兼好までも、中世歌人の歌や文章を次々読んでいる。このように堀田義衛は中世の文学者たちを、まるで電車の中、隣の席に座る人たちのように話したあげく・・

諸行無常という言葉は、世の中のあきらめに近い観念的なことではなく、「冷静にして精確な認識のことを言うのである」と文学者の言葉の鋭さに出会う。この本は鴨長明の方丈記の鑑賞でも、また解釈でもない。それは私の経験なのだ。と冒頭にある。堀田義衛は明日をも知れない戦火のなかで、鴨長明の描写、定家の歌という、それぞれの中世文学者の冷酷な世の中とその騒ぎに対する距離感に、驚愕しながら自らの文学者としての自覚を持つことになる。そこから発したこの本は、鴨長明を棘があるとか、浮かれやすいとか、意地っ張りで付き合いにくいやつだとか、散々に分析した後、方丈という意味を優しく捉える

どんでん返しで、


終えている。









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カナダの姉の書(2012年)
あしべゆく 鴨の羽交に 霜ふりて 寒き夕べは 大和しおもほゆ

写真を撮った際、少しパースが付いてしまいました。ごめんなさい。
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by kokouozumi | 2013-01-15 08:20 | 美術 | Comments(2)

サーカス 3

すっかり真っ白な雪景色で第二アドベントの週末をすごしました。

ですが再び11月末のこの写真に戻ります。







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円形ステージの中に、すべての出し物を全部描いてしまったようなこの絵の構図、スーラの『サーカス』を思い出させる。直径13m、馬が旋回するのに最小限必要な円形ステージの大きさで、その中を旋回する馬の印象を捉えた『サーカス』(1890年)を、短命の画家スーラは完成させずに逝ってしまったらしい。

他にもルオー、マティス、シャガール、ピカソなど多くの画家たちが、サーカスを描いている。この辺の画家に関して、普通は様式論のなかでその絵を見てしまうかもしれないが、サーカスというテーマでそれぞれの画風を比較してみるのも面白い。

ルオーの描く道化師は自画像のようで、マティスのサーカスはやっぱり切り絵だし、愛と夢の画家シャガールのサーカスは空飛ぶ芸人、ピカソの道化師やアルルカンの化粧した顔はあまりにも美しすぎて、哀愁を通り越してしまう。彼らがそろってサーカスを描いたのは、共通する時代と共通するヨーロッパという土地にあるのかもしれない。曲芸の合間に笑いをもたらす道化師も、大抵二人の間抜けなコンビで登場するのだが、二人は人間に笑いをもたらす二つの要素として、なにやら哲学的に解説してしまう土地柄だから、画家たちがサーカスを、特に道化師を絵にする意味は十分にありそうだ。それに道化師が楽屋裏で見せる私的な顔が好きだった・・・というのはピカソの意見。

そしてサーカスで無視できないのがフェリー二だろう。私は『道』をヴィデオで知っているぐらいだが、ストーリーはサーカスにも入れない大道芸者の話だった。さらに『道化師』という映画もあるというので、あらすじを辿ったら「サーカスの世界はもはや存在しません。本当の道化師は姿を消してしまったのです。サーカスは現代の社会において、何の意義も持たないのです。」という言葉にぶつかった。映画の中に登場するフランスのサーカス研究者の発言(1970年の映画)。この映画はサーカスの道化師を追いかける、ドキュメンタリースタイルらしい。このせりふが入るだけでも(フェリー二の意図ではなく発言されたにしても)相当サーカスが好きな映画監督なのだと感じてしまう。

直径13mの円形ステージが基準になったように、サーカスの始まりは曲馬団だった。そこに他の芸、綱渡りなどが加わり、芸の合間に道化師が登場するようになった。ライオンが最初にサーカスに出演したのは、かなり遅く1831年、道化師のパントマイム芸の脇役としてだった。それから1世紀を過ぎると、野生動物に芸を仕込むということ事態が野生動物の権利にそむく、虐待だという考え方が出てくる。確かにそうなってくると、「サーカスの世界はもはや存在しません。」といいたくなるだろう。

スウェーデン、フィンランド、デンマーク、オーストリアの国々では、一部または全面的にサーカスでの野生動物が禁じられている。中央ヨーロッパではまだそのような厳しい規制が布かれていないものの、保護団体が目を光らせる飼育状態に、金銭的に追いつけない小規模サーカスは、動物を手放すことになる。レイシー・ジュニアのところで書いたように、サーカスのライオン、虎、象は何代にもわたって、サーカスで生まれた野生動物なので、いまさら本当の野生生活に戻ることが出来るだろうか。レイシーのライオンは26歳まで生きたが、野生で成長した雄ライオンの年齢が10歳を超えることはまれだという。

そのような難局にさらされながらも、レイシーのライオンたちは、かつての道化師の脇役から、自ら道化師を演じられるほどにまで、芸を磨いてきている。マーティン・レイシー・ジュニアのモンテ・カルロ、ゴールドの意味はそこにあると思う。獰猛な動物に立ち向かう猛獣使いの危険性が主役なのではなく、猛獣たちを主役にするという改革をサーカスにもたらした。


確かに何の意義も持たない存在のように、サーカス小屋は突然出現し、また跡形もなく去っていった。その後の風景に寂寥感を感じたことから、私はこの1ヶ月ほどサーカスを追いかけてみた。多くのサーカス場面、特に動物の出てくるシーンをビデオで見たりもした。おもわず芸達者とうならせるような間抜けな芸が出来る猫も犬もライオンも見た。それを見る限り、サーカスの笑い、意味はまだ生き残っているようだ。

ライオンが舞台で喝采を浴びる栄光と、楽屋裏の檻で寝ている彼らの姿のギャップが面白い、とピカソのように考えてみたいものだ。










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by kokouozumi | 2012-12-13 07:54 | 美術 | Comments(0)

レパントの海戦

レパントの海戦 
歴史の話ではなく、CY TWOMBLYの 絵の話。


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ミュンヘンの美術館といえば 断然ピナコテークの知名度が高い。
Pinakothekのギリシャ語語源には絵画収集の意味もあるらしく
まさにバイエルン州で収集された絵画作品が州都のミュンヘンに
まとめられて収蔵・・・なのだが、
旧・新・モダン ピナコテークにSchack卿の収集館(19世紀の絵画収集家)
さらにBrandhorst(ブラントホルスト氏)収集館
と5つの美術館がミュンヘン・ピナコテーク グループになっている。

モダンピナコテークのすぐ裏手に建つBrandhorst美術館の外壁は
このように鮮やかな色彩に焼かれた陶製の棒で覆われている。

CY TWOMBLY(サイ・トゥオムブリ)のレパントの海戦、12枚のシリーズは
2009年にオープンしたBrandhorst美術館の最上階に常設展示されている。
このシリーズを収蔵する経緯にも、ある著名な館長が登場している。

Armin Zweite 氏が現代絵画収納ではドイツ一を誇っていたデュッセルドルフのNRW(州の名前)美術館からBrandhorst美術館に移り、レパントの海戦シリーズの収納を指揮している。









CY TWOMBLY(1928-5.Juli.2011)はローマに住んだアメリカ人現代アーティスト。
彼の作品はアメリカで制作していた時代のものから、亡くなる直前の2010年作品まで、抽象画ファンを魅了し続けてきた。

長い間ローマに住んでいたが、その家の地下にディスコが入ってしまうと、Gaetaという港町の別荘に殆ど居住するようになり、そこで多くの海を捉えた作品が生まれる。
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Gaeta 1993年 四季のシリーズ 秋



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船のスケッチ



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Gaeta 2000年 レパントの海戦シリーズ の1枚



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Brandhorst美術館 レパントの海戦 展示室




2009年Brandhorst美術館オープン時には
CY TWOMBLYがやってくるというので、多くのファンやジャーナリストが待ち構えていたが、彼は現れなかった。あとで判ったこと、彼は来ていた。美術館内に入りきれない見学者と共に、外をうろうろしていたが、あきらめて(嫌になって?)ホテルに帰ってしまった。その日も結局、彼を待ちわびた人々は、『CY TWOMBLYはものすごく控えめな人間』という神話を思い出すしかなかった。




しかし、あるジャーナリストはあきらめず、『それなら、こっちから押しかけよう』と
Gaetaの港町へ。レンガつくりの小さな建物が幾つも重なり合って、まるで城砦のように見える家の金属ドアをノックしながら、
ある人間嫌いな画家のようにいきなり銃を向けられることはないにしても、もしかしたら既に彼は山の中に逃げていき、一日中出てこないかもしれない、と思った。

中から『タイガー』と怒鳴る声がして・・『虎が出てくるか』と思ったら、タイガーという名の、柔和な印象の執事が迎え入れ、ラビリンスのような小さな階段の連なりを案内し、中庭に座ると、冷えたイチヂクとワインが出てきた。そしてCY TWOMBLY本人が現れた。私たちの後ろには、この季節にしては明るく輝く、静かな海があるだけ。CY TWOMBLYはオデュッセイアの話をさりげなく始める・・・
と、報告している。





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by kokouozumi | 2012-09-17 09:18 | 美術 | Comments(8)

Haus der Kunst





映像 × 映像

Bilder gegen Bilder ( 映像 対 映像 または 映像に反抗する映像 )というタイトルから、一体どんな展覧会なのか想像できない。だから現代美術は面倒なのよと思いつつ、まあその映像とやらを眺めていれば何のことかわかってくるでしょうと、深く考えないことにして展示室(12室)に向かう。

現代の美術館では、額縁の中の絵画を壁に吊るすのではなく、プロジェクターを駆使して映像を壁に並べることが出来る。その映像は壁ではなく、ある展示室の真ん中に設備されたパネルへ投影されていた。床から3mほど高さがあるパネルが、その前に立つと部屋全体をさえぎって、作品のみと向かい合うことになる。音はパネルから約2m離れた場所に下がっている半球形の透明な傘の下に立つと、その場所のみ聞こえるようになっている。

白いパネルスクリーンの上半分に、赤いクレヨンを握る手が映し出される。赤いクレヨンが、ある箇所で執拗に渦巻状の点を描いている間に、くぐもった女性の声が聞こえてくるが、何を言っているのか聞き取りにくい。もう1つの映像、軍服を着た男の上半身がぼんやりと現れてくる。次第にその男の姿が明確になって、赤いクレヨンの点と男の右目の位置が重なり合った時、『私の父はScharfschütze・・・』という女性の声がはっきり聞き取れた。それが最後のナレーションだった。私の耳はScharfschützeという音に反応した。この言葉は、最近のテレビ、ラジオ、新聞に頻繁に登場していた。スナイパー(狙撃者)を意味し、シリア内紛を伝えるニュースでは、政府軍Scharfschützeが・・と、特にホムスの町で対立が激化するとともに、その言葉をよく耳にしていた。

狙撃者というヒントを与えられて、もう一度ビデオを見た。くぐもった女性の声は、日にちと数を伝えているらしい。11月2×日、兵士2、ドライバー1。11月2×日、兵士4。最後は『1992年12月3日、私の父、狙撃兵はもう一人の狙撃兵に、右目を撃たれた。』で終わっている。なんということだ。意味がわからないまま、シンプルで美しいと感じながら見ていた映像の伝えるものは、そういうことだったのだ。作者の女性は1982年にサラエボで生まれ、1992年―1995年のボスニアの紛争で父をなくした。2007年に『狙撃兵』というこの映像を発表している。

Bilder gegen Bilderの展覧会には19人の制作者による作品が集められている。そのうち3人がボスニア・ヘルツゴヴィナからの参加。他にレバノン、イスラエル、パレスチナそれにアメリカから複数の出品がある。戦争あるいは紛争を生々しく体験しながら育った、新しい世代人による映像作品であるらしい。

これらの作品群のどれもが、上記作品のように、自分の、自国の、あるいはメディアで目にした紛争というものを、直接的にドキュメントして反戦プロパガンダにしているわけではない。メディアアートを志す若者が、昨今日常生活の中で頻繁に流されるようになった紛争を伝える映像に、それぞれの観点で反応した作品郡といえる。それが世界の現状はどうなっているか?という設問を鑑賞者のなかに提供して、メディアの映像批判や政治的関心に結びついていくかもしれない。

たとえばドイツからの作品『夜』(1991年から1996年)のシリーズでは日常の場所、公園やアパートを暗視撮影している。この撮影方法は第2次湾岸戦争の際、スターライトシステムとして開発され、US軍がバグダットを爆撃する映像として、テレビに登場した。緑色のモノトーンで捉えられた夜景写真を、制作者の個性から生まれた作品であると鑑賞しながら、日常の場所が危険を帯びた空間に変貌していくようにも見え、そのような連想には、戦争・暗視撮影・爆撃という図式をいつの間にか与えているメディアの影響があるらしい。

2002年9月12日発行の世界中の新聞一面を収集した作品もある。ツインタワーに飛行機が突っ込んだ瞬間を捉えた有名なシーンを第一面に持ってきた新聞がどれだけあったかを並べて見せている。100以上の新聞が並ぶ。ある国際的な事件の際、写真配信会社の威力が、どのように機能するか一目瞭然に見て取れる。

紛争を伝える写真に対する批判的な姿勢が、前出作者以外の二人のボスニア作家に見られた。それは紛争の中で育ち、生き延び、今その国の映像アーティストとして、本当の証言を聞いて欲しい、という避けられないテーマなのかと想像した。その1つ、ボスニア紛争を伝える国際賞を受賞した写真に対して。爆撃を受けて倒れている若い女性(J)が被写体となっている。Jは片腕をなくしたが、一命をとりとめた。Jの友人は紛争後、映像アーティストを目指す中で、Jと国際賞を受賞した写真との関係をドキュメントしていく。タイトルは 『私たちに残されたものが、私たちの写真』


プロフェッショナルな写真技術に関することにはお手上げだったが、Bilder gegen Bilderという展覧会のタイトルは、映像との出会いから、またつぎの映像が生み出されることを意味しているらしいと、作品を辿りながらわかってきた。




この展覧会が開催されたのはミュンヘンのHaus der Kunst(芸術の家)美術館。国立でも州立でもなく、財団が管理する美術館だが、とにかく建物が大きい。私がよくその美術館を訪れていたのは10年以上も前のことで、いつ行っても何か面白い展覧会をやっている、という印象があった。1999年には友達の画家夫婦に誘われ、何の展覧会か判らないままフライブルクから4時間車に乗ってたどり着いたら、パウル・クレーとライオネル・ファイニンガーとマックス・エルンスト展を一度に見ることになり、へとへと・・・なんて感じている間も無いくらい、まさに血眼になって鑑賞した。
最後は画家夫婦が疲れ知らずの絵画論など交わしている脇で、私は入り口の外階段に横たわりながら、唯一の感想『この建物は大きすぎて広すぎる』を述べると、『ここはヒットラーの美術館だったのよ』の返事が返ってきて、階段の上で思わず起き上がったことを覚えている。

1999年のあの近代絵画狂乱のような時代が過ぎると、2000年からは建築ドキュメントの傾向になり、2003年からはデザイン・モードへと変化してきたのは、館長の交代によるもの。19世紀にバイエルン王の要請で、ドイツ絵画の展覧会に相応しい建物として建設され、1937年からドイツ国家社会主義の政権下、国家美術館となり、1945年の終戦直後はアメリカ軍の社交クラブ、それから博覧会会場となり・・・複雑な変遷の歴史を持つこの美術館は、その足跡ゆえに、常に批判的な視線も浴びているようだ。その圧力に対立せざるをえない館長として2011年に就任したのは、なんとナイジェリア出身のEnwezor(エンヴェツォーア、正確な読み方かどうか?)氏。ニューヨークで文学、政治学、映像技術を学び、2002年のカッセル・ドクメンタはじめ、多数の国際美術展ディレクターを務め、キュレーターとして高く評価されている人物。Haus der Kunstは所蔵作品を持たない美術館なので、Enwezor氏の手腕がむしろ生かされるのだろうか。財団では館長職を5年交代としている。その限られた時間の中で、Enwezor氏がさらに何を構成していくのか興味深い。
まず美術館訪問者に優しい改革として、どの展覧会も一度チケットを購入したら、会期中何度でも入場できるようになった。










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美術館前面。現在3つの展覧会がおこなわれているが、私は半日かけて、一つの展覧会しか見学できなかった。



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入り口は建物の大きさに対して、控えめなこの白いドア






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美術館に隣接するのはイギリス公園。美術館を訪れた機会に、この公園を歩いてみたいと、いつも思っているのだが、展示室を歩きまわった後、さらに散歩なんて不可能で、実現したことがない。イギリス公園を流れる渓流 小川は美術館の隣でちょっとしたウェーブになっていて、夏の午後はサーファーがきている。
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by kokouozumi | 2012-08-21 07:10 | 美術 | Comments(7)


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