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ドイツ陶芸って

 「陶を以って政事を知る」は中国清代の名高い陶書『陶説』の序文に認められ、東洋の名言として伝えられています。この言葉から陶磁器と人の関係から、国家や政治のあり方まで見ることが出来るのかと、想像します。

 古代国家の統治者が陶に言及したものとして
エジプトの王、ラムセスⅡ世(B.C.1290 -1223)の教典には、「・・・私は下民に制定する・・生き長らえるために食物を作るべきだ。漁師や鳥撃ちは獲物を探してきなさい。農夫は苗を植えなさい・・・又私は夏に水を冷やすことが出来るよう、轆轤で水差しを作らせた・・・」と、記されていたということです。今となっては古代国家の体制、王と下民の関係を正確に知りえないのですが、生命を維持する手段として器が登場しています。発祥のみを言えば最も古いものであったエジプト文明における窯業は、その後に継承されることなく消えてしまいます。ですが人間の生活がある限り、陶器はまた発生し、人間の培ってきた文明や時代の手がかりとなってきたと、いえるでしょう。

 そして現代、陶磁器は多岐多様の広がりと振幅をもちます。その技術も一方ではニューセラミックという超がつく化学的方向に伸び、他方は、もはやその同じ原土や顔料の入手不可能、同じ焼成方法を再現することも困難すぎるといった過去の遺産的存在だったりします。そんな中で個人の表現媒体として土は一体どのように扱われているのでしょう。

 ここで紹介する陶芸は1986年、88年にフライブルクのエリザベス・シュナイダー財団が開催した現代陶芸展からの作品です。私がフライブルクにやって来た1994年、その展覧会から8年経っていたのですが、陶芸家や陶芸愛好家の口から良く神話のようにその話が出てきました。財団の素顔はフライブルク近郊の村に広大なワイン畑を持つワイン関連企業のようです。ヴィラ(かつての個人邸宅)を美術館にして、絵画・彫刻陶芸の現代美術を展示、地下ホールでは現代音楽のコンサートが定期的におこなわれていましたが(もちろんワイン付き)、2004年に閉館しました。神話となった陶芸展にはヨーロッパ、カナダ、USAからの書類応募が520点、その中から38点が選考され、審査員にはドイツ各地の美術館長や彫刻家が並び、どうしてこのドイツのはずれでそのような?と思ってしまいます・・・何はともあれ、そのカタログを手に入れた私はドイツの現代陶芸を始めて目にしたのでした。今改めてそのページをめくると、目を留めるのは、昔もたしか気に入ったものだった・・・、私の好みは変わっていないようです。




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Peter Degendorfer 1957(生まれ) ドイツ 1988年展

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Peter Degendorfer 1957(生まれ) ドイツ  86年にも選出されている。


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世の中便利になりました。上記の作者が今どんなことをしているかネットで探ったら、こんな絵が出てきました。もともと画家さんのようです。




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Lother Fischer 1933 ドイツ 88年展


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Lother氏は彫刻家でした。なんと自分の美術館を作っています。





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Sati Zech 女性 1958 ドイツ













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彼女はベルリンを拠点に世界中で活躍している画家さんでした



・・・といまから20年前フライブルクの陶芸展出品者の現在の様子もなかなか面白いのでした。この他にも、劇団の俳優さんだったり、コメディアン??と検索で見つけ出したのですが、ほんとかな。
Commented by tomato at 2008-09-07 21:32 x
ほ~、陶芸家の昔と今ですね。
私にはよく分かりませんが、20年という月日は
彼らに変化を与えたのでしょうか。
それともコンセプトなどは不変なのでしょうか。

折しも、私も20年以上前の自分の姿を今の後輩達に投影しています・・・・

うおさんはどうなのでしょうか。
20年前と今の作品。
興味ありますねえ・・・・
Commented by うお at 2008-09-08 07:03 x
tomatoさん
私もよく分からないのですが、たとえばここに紹介した人の現在をみると、ああやっぱり変わらない姿勢があるな、と感じてしまいました。自分のことを考えると、やることがころころ変わったと思うのです。しかしそれも制作に対する強い意識があるかどうかにかかわってくるのでしょうか?上のPeter Degendorfer さんの作品、同じようなシーンを作りながら、86年より88年のほうがラフになって、土そのものの魅力が増していると、私は捉えます。自分の作品から何をしたか自分で理解できるからでしょうか。答えになってなくてごめんなさい。私のはそのうちどさくさにまぎれて出てくるかも知れません。最近のは仙台でしたら、ギャラリー蒼というところにあるかもしれません。
Commented by tarutaru at 2008-09-08 12:10 x
Lother Fischer 、Sati Zech 氏の2点が興味あります。

陶芸もグローバル、現代は土地柄やお国柄は薄れて来てしまったのでしょうね。個人による、その個性もこれだけ情報が氾濫した時代になると逆に社会の中での「個」に対する考え方が重要な評価のポイントになってくると思います。
おそらくこの方々は現代陶芸の偉大な先駆者たちなのかもしれませんが今ではスタイルとしては珍しくはなくなりました。陶芸も彫刻も仕切りがなくなりましたね。
美術自体がこの先道変貌していくのか?
この辺がよく見定めないといけないところですが、人間の営みは太古から変わっていないと決め付けていいものなのか、どうか。


Commented by onoman at 2008-09-08 18:38 x
フランクフルトの美術館で、Peter Degendorferさんのを見たような気がするのですが、名前を覚えてないので、違うかな?
30cm四方ぐらいのいろいろな場面がテラコッタで30場面ぐらいを展示してました。
陶芸も彫刻も絵画も境目を最近、自分でも感じてません。
結局、いろいろやっても時間がたっても、自分の作るものは大して雰囲気は変わらないものだなぁ、というのが最近の実感。
でも、違うことをやってるぞー、というのは刺激的で楽しいですね。
Commented by うお at 2008-09-09 05:50 x
Taruさん、この一連の作品を見た頃、私は陶芸の仕事をやめて久しく、また再開することも考えられなかったので、むしろだから見ることがとても楽しかったです。結局私個人の好き嫌いによる判断ですが、いろんなものを気楽に眺めていました。

そして80年代私がドイツに来る直前の日本でも三宅一成のルーシー・リー展やスカンジナビアンのガラス展などで私にとっては初めてヨーロッパの形を見た思い出があります。しかしその時代に土で何ができるか、みたいな事を考えさせられたと思います。その後ドイツの陶芸家と日本の東京博物館をのぞいたとき、古代に世界中の通信なんてなかったときに、同じような器を作っているじゃないか!と。それから最近ミノリンがこちらの古代博物館をのぞいて、アメリカもヨーロッパも日本も、同じ円心形を作っているね・・・と同じような感想が聞かれました。

「陶器は・・・人間の培ってきた文明や時代の手がかりとなってきたと、いえるでしょう。」と人間の営みそのものが変わってないとは言わなかったのですが、グローバルという言葉から、そんなことを思い出し、又興味が広がりました。

Commented by うお at 2008-09-09 07:33 x
Onomanさん
こうして複数で話すのは陶芸教室のお茶台みたいな雰囲気で、なつかしいです。
フランクフルトで見たのがPeter Degendorferさんのか断定できませんが、このシリーズはいつも30Cm四方の大きさみたいですよ。

Taruさんへの話の続きみたいになりますが、フライブルクである陶芸家の仕事場を使わせてもらうようになり、それが夜10時から朝7時までの電気代低額時間でしか窯をたかない。1100度ぐらいで終わっちゃうわけで、どうすればいいのと思いながら、それが悪条件と思う自分が陶芸の意識にしばられてるな~とも感じました。今はレストラン物製造ですからもっと器としての陶芸をやる必要に迫られて、解決しなければいけないことに遭遇する日々です。自由に制作を試す余裕はあまりないのですが、この条件の中で自分は今何をしているのかという問いが、作ることにかかわる自分を軽くしています。これって年のせい?かな。
Commented by tarutaru at 2008-09-09 11:35 x
オイラーからドイツ陶芸と今の自分の制作活動について話が広がってきましたが、モノを作る人間としての葛藤は誰もが持っていますよね。

最近ではうおちゃんじゃないけどモノが作れることはなんて幸せなんだろうと思うことがあります。
作りたいけど作れる状況じゃないこともある。幸か不幸か、そこが機械的にモノづくりに関わっている人との根本的な違いなのかなと。
恥ずかしい話ですが若い頃は日本の陶芸界を変えてやろうなどととんでもない妄想をもって八木一夫や岡本太郎、池田満寿夫を意識した事もありました。笑い話です。

ある時、足元をしっかり見つめることなんだと思いました。モノを作る意味というのはそこにしか答えがないのだとね。諦めとかじゃなくてね。

最近思うことは、僕の場合は、「よい器を作る」ことは最終的にはどうも興味がないようなのです。いままでストイックに器という宇宙にに何かを押し込めようとしてやっていましたが、意識の上で払拭したところがあります。
結果的に何かに使えるものだとしてもですね。

1100度の限定では「RAKU」ができる。テラコッタ、黒陶ができる。
磁器の上絵付けができる。土鍋は?ちょっと低温だけど。
Commented by onoman at 2008-09-09 18:16 x
うおちゅうもいろいろあったんですね。でも、作り手に戻れてよかったですね。おとなしい感じのTaruさんが、そんな闘志を燃やしてたなんて
気がつきませんでした。
でも、つまるところ同年代のわれわれ、やりかたはいろいろだけど
考えてることはいっしょ。同じように年を取ってきたなぁ・・という気がしますが・・。
私の場合制作態度を三つに分けています。
ひとつは、この世に存在させてもらっているお返しに、教室をやって
みんなの役に少しでも立ちたいと思ってる仕事。
もちろん、定収入も魅力。
ふたつめは、若い人たちにいいと思えるものを残していく努力。
もちろん、息子を含めて。
みっつめは、誰にも邪魔されず、意見も聞かず、批評さえもさせず、
売りにも出さず、あまり人に見せることもせず、
ただ、自分だけのためにこつこつ積み上げていく作業。
もちろん正統派九谷系磁器の作品。
そして、楽しみは趣味の陶芸。
いまはローマ帝国の残骸を求めて地中海世界を歩き、スケッチして
焼き物にして売りまくる・・といってもあまり売れませんが。こんな生き方を今現在進行させてます。
Commented by onoman at 2008-09-09 18:19 x
たくさん書くとだめなんだね・・

上の続きとして・・
いろいろ言う人はいるけど、ようやく気にしないでいられる年齢になりました。
見方を変えて、いいほうに考えると、前向きに生きていけます。
焼き物作りは、深刻にならずにすむし、難しくも考えられるのでその時々で使い分けています。
ミノくんが撮ってきた膨大な写真の記録をみましたら、うおちゅうがいっぱいでてました。いいところで生きてるねー。うらやましー。
Commented by うお at 2008-09-10 07:49 x
Taruさん、Onomanさん連名で失礼。
お二人の通信、感謝して読みました。

ほんとオイラーからドイツ陶芸から、話が広がりました。私がはじめに出会ったドイツ現代陶芸と名づけた作品の作者達がほとんど絵画・彫刻分野の人たちだったので、自分の意識とどう違うかなど思っているうちに自分の制作状況の説明になりました。でもこれで終わらせないで、またいろいろな場面でそれぞれの考えをおしゃべりしたいものです。違った切り口が出てくると思います。

そう私もよく、書き込みの文字137文字削れとか、注意が出てしまうのですよ。


by kokouozumi | 2008-09-07 07:19 | 美術 | Comments(10)

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