オイラーが ・・ 2  

オイラーの家
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再度この家です。
この家はもともと、ペーター・テヴァルトというオイラーが1813年~1814年ごろ独自の仕事場として建てたということです。コブレンツに近い、今では窯業地というより質の良いドイツ炻器土の産地として知られている、ヴェスターヴァルト地方のある町にあります。この地方に関しては後で・・

この町にオイラーが何人住んでいたかは、1862年の32人という記録が残っています。それ以前は、オイラーという呼び名が何時から、どのような陶工に対してという点が複雑になってくるので、この家はオイラーの家として、その町に現存している最も古いものといえるでしょう・・に留めます。

ペーター・テヴァルト(初代)は他の町から陶器職人としてやってきて、この町の娘と結婚し、少しの財産も譲り受け、この家を建てることが出来ようです。
また、僅かな土地に畑を作り、食料の自給自足も出来たのは、当時の陶工の中では、恵まれた生活だったのですが、それだけ主婦の労働負担も大きかったと想像できます。

5人の子供のうち、1824年生まれの次男、ヨハン・フリードリッヒ・テヴァルト(二代目)が父親の稼業を継ぎ、長男はこの家から200歩の直ぐそばに独立した工房を持ちます。父親の死後、ヨハン・フリードリッヒ・テヴァルトがオイラーを継いだのは1861年からで、丁度この町の産業として窯業が定着してきた時期に重なります。彼は1859年に他のオイラーの娘と結婚して9人の息子と一人娘が生まれますが、最初の三人は幼くして死亡。1863年生まれの4男カール・ヨハン・テヴァルトがオイラー工房を継ぐことになっていきます。

このカール・ヨハン・テヴァルトが書き残した当時の生活が、幸いにも残されていました。オイラーの仕事そのものではなく、このオイラーの家の出来事として、一部を紹介します。日本の明治時代のことですね。

「・・主婦にとってもっとも誇りであったのは、寝具ダンスがいっぱいにつまっていることで、そればかりか、自分と夫の経帷子も前もってあつらえてあった。年に一度、大掛かりな洗濯がおこなわれた。早朝に、敷布が煮洗いされ、大きな荷車で近くの谷川まで運ばれた。小川の水ですすぎ洗いされ、土手の草むらで陽光に曝された。子供達と洗濯女達は、外でお茶をのみ、ハンノキの日陰で昼食を食べた。その日、女性達にはシュナップス(焼酎)が振舞われた。一度、年寄りのバスさん(あだ名)は何杯も彼女のグラスに注がせた揚句、まっさかさまに川に落ちて、子供達にさんざん笑われたことがある。
夕方、真っ白に染まり、新鮮な空気が香る寝具類は折りたたまれ、青いバンドで結ばれ、大きな洗濯籠に積み込まれた・・・

・・6人の男の子達はみな、野性的ないたずらっ子だった。夜寝る前のはちゃめちゃな大騒ぎは、父親から公平なこん棒の一撃を食らった。整理整頓のため、父親は7つのホックを壁に取り付けた、それぞれの名前が記されていたが、みんな其処にちゃんと自分の服を掛け忘れて、いつも洋服の吹き溜まりができていた。しかし子供達は全く女々しくなかった。彼らは冬も暖房のない部屋で眠り、朝は時々、洗い水の薄氷を割らなければならなかった。

学校教育に関して、親は子供達に当然以上のことをした。長男のカール・ヨハンを母方の妹であるスザンナおばさんがいる、エルザスに送り、その家に下宿させ、ギムナジウムに行かせた。そのために父親が負担した費用は年に600マルクで、その他に、授業料、交通費や少しの小遣い等の学費が入用となり、一人のオイラーがその経費を出資できたのは、1回の窯焚きで、500から700マルク相当分の製品を作っていたからであるが、かなりの材料費がかかっていたから、純利益にはほど遠い額面である。(当時、雇われ職人の日給は2マルク前後。1Kgの黒パンが0,23マルク)

1879年夏、アビトア(高校卒業資格)を取得したばかりのカール・ヨハンが家に戻ってきた時には、家族全員がほっとし喜んだ。
数日の自由な時間を過ごした後、カールには仕事が待っていた。始めてイギリス皮製の白い作業ズボンを身につけたとき、彼は母親の目の涙に気が付いた。そのことについて、父親は直ぐに、窯場の人目につかないところで、家の財政危機が緊迫している事情を告げた。」

「・・・その時、私にとって、これからの自分の人生がどんなにきびしいものか、想像もつかなかったのは幸いだった。そしてその後の苦労と悲しい日々を今又取り出したくはない…」

と、カール・ヨハン・テヴァルトは文の最後に書いている。

このオイラーの家、二代目のヨハン・フリードリッヒ・テヴァルトは1910年 86歳を前にして、他界。カール・ヨハンは三代目になることなく、他の息子達も故郷を離れて、それぞれの幸運を探すことになり、この家と屋号は、知らない家族のものとなりました。19世紀後半の30年間、ヨーロッパの世間の貧しさは、多くの人々がアメリカに渡り少しはましな未来を探そうとするほどで、旧来の陶工の多くがその頃、生業を止めています。

家の写真は1940年代のものですから、その頃のオイラーはもう、テヴァルト家の人ではないのですね。
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by kokouozumi | 2007-11-23 06:47 | オイラー | Comments(11)
Commented by 寛太 at 2007-11-23 23:00 x
夏に この町とこの建物を訪ねたとき なんとも言いようのない 流れ行く歴史のドラマを目の当たりにして胸が詰まりました
職人達を追いかけていくときっとこんな話にいっぱい出っくわすんでしょうね
土門拳の炭鉱の町の写真を見て感動したこと思い出しました
Commented by kokouozumi at 2007-11-24 06:06
土門拳の写真は
ザルをかぶったり、手ぬぐい巻いた男の子達が、近藤勇と鞍馬天狗になりきって、遊んでいるところや、紙芝居やしんこ細工に見入る、ものすごいつりあがった目など、ありました。私もこの写真に土門拳の印象が重なります。

この町で訪れたいところは、まだまだあります。ヨハン・フリードリッヒ・テヴァルト(二代目)が5時に終業して毎晩でかけた、ビアカジノもまだ残っています。
Commented by tarutaru at 2007-11-24 21:13 x
>質の良いドイツ炻器土の産地として知られている、ヴェスターヴァルト地方のある町・・・・

>世間の貧しさは、多くの人々がアメリカに渡り少しはましな未来を探そうとするほどで、旧来の陶工の多くがその頃、生業を止めています・・・

土が採れて技術があっても多くの陶工が廃業を余儀なくされたということの原因は単純にいえば売れなかった、ということなんでしょうね。陶工に限らずその時代世間全般が苦しかったのでしょうけど。昨今の日本や世界経済の動向も懸念材料ばかりです。決して他人事ではありませんね。
芸術的に評価してどうなんでしょうか?喰えなくても続ける、仙人のようなお方はいなかったのでしょうか?

>土門拳の炭鉱の町の写真を見て感動したこと思い出しました

エネルギー政策によって激変しますよね?廃鉱になった町がその後どうなって行ったか。人生悲喜交々です。重いテーマですねえ。
Commented by kokouozumi at 2007-11-25 07:05
システマティックな経営手段を探り出す才覚がこの時代の、この生業では生き残ったかも知れませんね。
仙人のように、芸術性を求める感覚が、陶工の実際の仕事ぶリに、どのように現れてくるかは、私も興味深いところです。

メルケル首相が原子力よりは石炭を採ると、発言したことがあります。あるいはバスの窓から、高くそびえる風車をみて(最近増えてきました)、隣に座っていたのおばさんは、こんな醜悪なものより、原子力発電でいいのよ・・と呟いていたり。

さて、何をどのように選択していくか、そう思いながら、過去の時代の移り変わりも、観点をちがえて関心をもっていきます。
Commented by M野 at 2007-11-25 18:30 x
 単純に貧しかったのかどうか。歴史に詳しく無いのでなんとも言えないのですが、第一次世界大戦前ならなにか違う理由で廃業したような気もします。
 なおアメリカに移民したドイツ人の中で、突出してるのは写真工業関連です。もうドイツ人ばっかり出てきます。
 ザワークラウトは1940頃は壷で作られてたんでしょうか。この家で30年後でも窯業を続けていたとすれば、やはり違う理由で廃業したのでは?
Commented by kokouozumi at 2007-11-26 08:21
> やはり違う理由で廃業したのでは?

M野さん、それにTaruさんも廃業ということに敏感に向かってくださいましたが、かたじけない。

ある人物が物語になる場合、始めがあって、成功があって、そして終わりが来る。成功が無ければ物語にならない。世の中の移り変わりは、始めと終わりが重なり合って、どちらかというと終わりのほうが捕えやすい。

オイラーの話は、特定の人物伝ではないので、年代を行ったり来たりしながら、ある人の生活や仕事振りの描写なども、お借りして進めてみたいと思います。

>アメリカに移民したドイツ人の中で、突出してるのは写真工業関連です

ライカとかローライ・・・消えてしまったペンタコン?その技術者がアメリカに渡った!その辺の話面白そうですね。今度お時間ありましたら、そんな記事をこのページにのせていただけましたら嬉しいです。

Commented by kokouozumi at 2007-11-26 08:23
> ザワークラウトは1940頃は壷で作られてたんでしょうか

ザワークラウトは陶製の壷じゃなくちゃ、というこだわりの発言を、ケルンに行った時、耳にしました。ヴェスターヴァルトを含むラインランドに住む人のこだわりでしょうか。人々の生活習慣に受け継がれるものにも、地方性の何かが見えてきますね。一度、大家さんにエルザス、フランス側の塩釉陶器の町に連れていかれましたが、その町で大家さんは、ザウアークラウトを買っていました。私にもだまされたとおもって、絶対買え!と、言ってました。


Commented by M野 at 2007-11-26 20:51 x
 有名な企業ではボシュロムがあります。レンズメーカーでもあったし、シャッターメーカーでもありました。有名な木製カメラメーカーのディアドルフもドイツ系だったと思います。
 なぜかよくわからないけど、ロチェスターにレンズ職人とか家具職人とか集まってきていたらしいです。コダックはアメリカ人が創業者ですが、その拡大にはロチェスターに集まっていたドイツ系移民に負う所がある様です。ドイツ語ができる事でドイツの光学技術を導入しやすかった事もある様です。
 なお1910年に完全機械式シャッターを作ったのは、ルドルフ・クラインとテオドール・ブルックのドイツ系移民です。大発明なのですが、あまり知られていません。
 お気付きのことだと思いますが、第一次世界大戦以前の古い話しです。
 なおアメリカでは、ライカやローライみたいな技術は根付きませんでした。興味がなかった、としか言い様がありません。
Commented by kokouozumi at 2007-11-27 08:17
M野さん 早い!
ブログ仲間はカメラに関心のある人が多いので、本文にM野原稿を入れたら、喜ばれるかと思いました。何しろコメント覧で私の反応では物足りないと、自覚しています。又の機会にね。
第一次大戦前でしたら、ローライやライカの前ですね。ボシュロムもディアドルフも知らないメーカーだったのですが、知らないでは申し訳ないので、サイトを探しました。フライブルクの陶芸家でロシアのカメラを持っている人がいます。すごく大きいカメラと聞きました。ペンタコンに関係するかも知れません。ペンタコンは知名度なさそうですね。ドイツ東時代のメーカーです。東西統一ご、真っ先になくなってしまった企業です。

ザワークラウトを壷で・・・の件は、壷という表現に疑問だったかしらと、後から気が付いた、相変わらずの私です。この表現本当は甕の方が合っているかも知れません。かなり寸胴の容器です。




Commented by 桃太郎 at 2007-11-27 15:13 x
<カール・ヨハン・テヴァルトが書き残した当時の生活>
ここの文体に子供の頃、物語全集などで読んだ文章の硬さとテンポが感じられて懐かしいです。
岩波などにある古い訳本のような感じがして魅かれますが。。。
これは、もしかして原書から訳されたものですか。。。?

洗濯をする日の様子に見える100年以上前の暮らしぶり。
みんなお金がなくて、生活のなかにエレキがないところで家族と地域のつながりが感じられます。
Commented by kokouozumi at 2007-11-28 06:08
桃太郎さん > 岩波などにある古い訳本
の日本語はすごいというか、もっと流麗な語彙がありますよね。見つけたドイツ語のものが、わかり易かったとはいえ、明治時代のことをこんな日本語で表現していいのかと、青ざめてしまいます。

洗濯の日の話は、懐かしさがありました。いえ、経験した訳ではないのですが、子供の頃まだ洗濯板がありました。大掃除、障子貼り、畳替え、井戸がえなど、子供にとっては全てピクニック気分の年中行事でした。

この子供が大勢の家族の生活を、日本のことと言っても、誰も疑わないのではないかしら。


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