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11月9日はベルリンの壁が崩壊した日。今年はドイツ東西統一20年目のその日となり、ベルリンでは「自由の祭典」として華々しい行事が繰り広げられていたようです。あの場面、壁の上に登った多くの人々が手をつなぎ取り囲む中で、一人の男が28年間東西を分離していた壁につるはしの一打を振り下ろそうとしている映像が、感激のシーンとして、様々なメディアに再び登場しました。 東西統一に関する話を耳にするとき、あの1989年から時間が経つほど、その時の国内や世界情勢によって捉え方が変化しているようです。 壁崩壊から10年目、1999年から2000年への変わり目では、ドイツがひとつになって新世紀を迎える喜び一色だったように思い出されます。東側の急速な自然・環境再生政策が推し進められ、町の表情も変わっていきました。ドレスデン聖母教会はその頃の修復事業を象徴するドラマでした。ドイツ内の政策というより、世界規模の支援による再建築への情熱でしたが、東側はこれだけ美しく復興しているのだ、という気運がありました。 20年目という区切りの今年はしかし、経済東西統一を目指したこれまでの政策に対する厳しい分析も、報道の中で目に付いたのは、経済危機時代の視点かもしれません。これは全体像が見えないと判りにくいことなので、興味ある方はこの記事を参照してください。イギリスの経済紙から翻訳されたもので、コンパクトにわかりやすく解説されています。 ベルリンの壁崩壊から20年 旧東西ドイツの埋まらぬ経済格差 その中にもあるように、これまで20年の東側経済立て直しの補助金として、1,2兆ユーロが計上されています。「政府も誰もそのことをはっきり言及したがらない。言ってしまえば、一体その金額は何処に行った!東の失業者と貧困は救われたのかと、問いただされるに違いないから・・・。」 西では、俺達がひたすらお金を払っているばかりと一般の人々の口から何度も聞き、東では「西に強奪された」といい始める。「最悪なことにある部分では両者の言い分とも正しい・・・」という記事もある。 「確かに、旧東ドイツのインフラは整備され、電話線がひかれ、河川がきれいになり、年金は増加し、企業の私営化に向けて、建て直しの補助基金が用意されたと一瞬思えたが、旧東の企業が体制を整えるよりも素早く、西側が商売を展開した。まずビデオ装置、車、保険会社が1600万の昔のお得意を取り戻したと、注文リストに書き込み、職場を拡大した。それから銀行。東のいくつかの銀行は非常に安く西に買い取られ、旧クレジット補助基金が西の銀行に流れ込んだ。経済統一の建て直し補助のお金は西側からまた西側のお金の家に急速に流れ続け、この状況は本来の建て直しの侵害となった。」 旧負債。DDR時代のクレジットは西側のそれと違い、いわば政府援助のように事業の経営プランに組み込まれ、必要が無くても利用する企業が多かった。それが統一後、返済すべきものと扱われたことは、早期過ぎる交換レート設定(1:2)、それによる給与上昇とともに企業が私営化される際の重圧となった。クレジットの返済がないまま東の主な銀行は買い取られ、統一政府からの旧負債基金は買い取った西側銀行で清算されたということだ。 しかし、素早い動きあるいは仕事振りは、DDR誕生前にもあった。第二次大戦直後の1945年、スターリンはドイツ企業解体の特別委員会を組織した。そうしてポツダム会談でアメリカが領土開放を提案する前にソ連占領の地域、後のDDRでは約3000の工場・企業が解体され、そこにあった製品、資材、設備機械が鉄道でソ連に輸送された。 西側地域でも連合軍による、軍事工場の解体はおこなわれたが668企業に留まったということだから、東側からどれほど物が無くなったかこの数値だけでも想像できる。特にこの輸送にも使われただろうドイツ帝国鉄道の機関車、電気機関車、貨物・客車車輌のほとんどに、1180キロメーターの線路もはがされた。それでも東の人々は、シベリアの厳冬の中で、ちゃんと全部組み立てなおせたかな、と冗談を言っていた。 それから、また200の重要な企業が再び操業を始めた。その中には解体されて一からやり直しの工場も混じっていた。 11月9日を機会に、旧東ドイツ地域で、40年の流れの初めと終わりに、素早い仕事がおこなわれていたことを知りました。そのことから私はなぜか改めて、その土地の人々の自由をおもいました。東でも西でも、お金が無くても自由に生きていけるならと。 ![]() このところ11月にしては暖かな日が続き、猫達は夕食後も外へ出かけます ![]() 今年の作物が終わってしまった畑は、猫達の遊び場に ![]() 生垣が冬を迎える庭を励ましています Tags:ドイツ この家をまた訪れる機会がありました。
この家はかつてリヒャルド・バムピーの工房でした。 バムピーのことは1年前に紹介しています。 黒い森にひそむ 3 ![]() ![]() 写真出典 Maria Schuely著 「リヒャルド・バムピー」 上が現在のこの家の様子で、下のはバムピーがファイアンス陶器工房を設立した当時の写真です。バムピーは1926年、カンデルン駅の直ぐ裏に土地を買って、2階建ての工房を作り、ファイアンス陶器製作所を立ち上げました。バムピーは暫く、フライブルクからこの工房に通っていたのですが、1930年に3階部分を住居として増築しました。2枚の写真を比べると、バムピーの時代からこの家の基本構造は全く変わっていないことが判ります。 バムピーの死後、1965年からこの家を受け継いだのは陶芸家ホルスト・カースタン(1941年フランクフルト生まれ)15歳から陶芸修行を初め、18歳からバムピーの元に弟子入りしました。昨年の『黒い森にひそむ 3』の最後の余談の中で、後継者カースタンの父親が陶磁器釉薬方面の化学者だったことにちょっと言及しました。この家をカースタンが引き継ぐようになる経緯には、その父親の存在が関わってきます。 カースタンは弟子の中でも優秀な陶工だったようですが、工房の仕事をこなす以外に、師匠バムピーの釉薬熱が伝染して、自主的な釉薬試験にも熱心でした。あるとき「よい釉薬ができました」と得意になって師匠に見せたところ、逆に師匠の怒りを買ってしまいました。「自分の釉帳から調合を盗んだに違いない」といわれて、頭にきたカースタンは工房を飛び出してしまいます。しかし芸術家肌の師匠と弟子がそれぞれの自意識から喧嘩している間に、釉薬の化学者だったカースタンの父親のほうが、よっぽど陶芸界の時代性を読んでいたようです。かつて師匠バムピーが彫刻の勉強に行っていたイタリアに、息子を落ち着かせます。両者の気持ちが落ち着くまでの時間稼ぎに、うってつけの場所と判断したのです。 余談ですが、日本の笠間で制作しているゲルト・クナッパーはその頃、カースタンと入れ違いにバムピーの元に弟子入りしています。 父親の計画がうまくいって、カースタンは最終的にバムピーの元でマイスター資格を取得し、工房も引き継ぐことになります。 しかしカースタンはその工房を引き継いだ頃から、クナッパーの影響もあったのか、日本の陶芸に興味を持ち始め、マイスター試験合格後の外国での修行(マイスターに義務付けられている)は当然のように日本へ旅立ち、帰ってくるなり穴窯を作ってしまいました。ドイツの穴窯第一号です。 私がフライブルクに住み始めて直ぐ、町の陶芸家にカースタンのところへ連れていかれたのも、そのような彼の日本びいきが知られていたからです。さらにバムピーの研究をしている方と出会って、あの家の歴史も知るようになりましたが、それらの全ては、バムピーもカースタンもカンデルンもあの家も、なにもかも私にとって、あまりにも身近すぎて、長い間通り過ぎてきたかも知れません。 2年前に突然カースタン氏がなくなりました。 カースタンの弟子でもあった奥さんとまだ10代の一人息子が、その後どうして行くかと、陶芸仲間が集まると話題に登り、そのうち奥さんが仕事場を一人で維持することに決めたらしいと耳にしました。 私が本当にあの家に興味を持ったのは、むしろその頃からだったかも知れません。カースタンさんの奥さんは一体どうやって、あの家を維持していくのだろうと。 多くの物が混在する家です。 ![]() 家の中でまず目に付くのがこのカルダーのモビール。カースタンの蒐集です。 ![]() 庭にあるのは、カルダーのを真似て誰かが作ったものだそうです。 ![]() この家は玄関から入ると、その階はかつてファイアンス陶器製作所として、その後カースタンの工房として使われていたスペース。その下の階はバムピーが密かに釉薬調合を研究していたラボと制作室がありました。下の階に降りていくと、今でもバムピーの物がそのまま置かれているのかと思ってしまいます。カースタンという人物はかなりおおらかだったのでしょうか、師匠のものを片付けようなんて一度も考えたことが無かったのでは・・・ ![]() ![]() 思わずウランは無いか?とラベルを探してしまう薬品瓶の列 バムピーの制作室に続いて、土や釉薬の準備をする作業場も昔の機械がそのまま置かれています。 ![]() 置かれているだけではなく、現在もカースタン夫人はそれらの装置を利用して坏土を準備しています。 ここにはビニール袋入りの土はありません。土はまとめて買わないと、購入する都度、土の品質が変わり、釉薬も調子が変わるから「最近磁器土の原土を4トン買った」というカースタン夫人の話を聞いて この人は確かにこの工房で、弟子だった人だと思いました。ここにある装置をちゃんと使えるんだ!というよりそうやって仕事することを当然と思っている・・・それにやる気だわ! つまり、彼女は磁器原土をまず水簸(すいひ=水に流す)します。 ![]() それからこのプレス機を通し、水分を搾り出し、いわゆる『土のケーキ』といわれるものが出来上がり、さらに土練機を通して完成した坏土を土室にしまっておきます。 ![]() これは昔の釉薬攪拌機(ポットミル)流石に使っていない。 彼女の成形仕事はカースタン氏の工房で(つまり昔の製作所) ![]() この作品棚はバムピーが当時流行りのバウハウス風にと慎重に選択した青い色に仕上げられています。 白い壁との対比がなかなか美しい。 ![]() 工房の窯第一号はバンピーが設置したこの電気窯で、ドイツの最も古い電気窯製造元、リードハマー製。焼成コントロール装置が複雑そう。各計器やダイヤルの役割を写しこめなくて残念。その後カースタンの時代にガス窯が2基入り、外の穴窯を別にすると合計5基の窯が確認できましたが、現在使っているのは新しいガス窯一基のみ。古い窯は設置されたまま残されて、次々新しい場所に新しい窯が置ける余裕・・・それにしてもやっぱりおおらか。 ![]() 「弟子入りするとまず蹴り轆轤(左側)から練習したのよ」と、彼女が下の鉄板を数回蹴ると轆轤は、私がいる間ずっと廻り続けていました。 ![]() カースタンは日本陶芸が好きでしたが、ドイツ民陶のよさも理解していました。 ![]() ![]() ![]() 以前まだ小さな男の子は父親が穴窯を焚く周りを消防自動車のおもちゃで水播きしていた。 18歳になった息子は目下のところドラムに夢中、陶芸はやらないでしょう・・ 私は少女の頃から、陶芸家になりたいと思っていました。許される年齢になると まずフライブルクで、それからカースタンの元に弟子入りし 結局陶芸家の妻になりました。 これから・・・?私は陶器を作り続けますが、 穴窯は無理なので、その土地は売ります。 と笑うお母さん。 後ろに見えるカースタンの作品、なんだか彼女に似ている形。 しんちゃんとシロがある本屋さんのショーウィンドウに入るというので、どんなことになっているか、行ってみました。
私も見落としそうになったくらい、ほとんど誰も気が付かない感じで置かれていました。 本屋の中に入って真ん中に立つと、そこにある全ての書籍がだいたい見えてしまうくらい小さな空間でしたから、直ぐこの一冊に目が止まりました。興味津々で中を覗き、さすがに面白い絵だわと感心しながら、棚に戻し、「しかし誰が書いたの?」と又取り出し、知らない作家の名前だけを確認して棚に戻すとき、作家の経歴冒頭にある数字、1899年が記憶に残り、「あれっ!この本は古いのだろうか??」などと、その本を手にしたり戻したり繰り返していると、本屋の女主人が「持っていっていいわよ」といいます。うまい!そういわれると持っていくしかないような気持ちになってしまいました。 ![]() 1899年ライプチヒに生まれ、(1991年没)帝国時代の裕福な家庭環境で育ったアレックス・エッゲブレヒトは、1917年に志願兵としてフランスの陣地戦に参戦して重傷を負い、その後の人生は後遺症を携えることになった。第一次大戦後の混乱期には左翼に走りながら、モスクワ滞在の印象で気持ちが離れ、一切の政治活動から遠のいてしまう。その後の作家活動(後に放送劇や映画の脚本)や晩年のラジオ放送の解説者という仕事の中で、社会やヒューマニズムのテーマから離れることはなかった。絵本「猫」は1927年に彼の処女作として出版された。その後1954年、67年と思い出したように再版が続き、その後はある出版社が版権を得て、定期的に再版されるようになった。挿絵に関しては、これまで2度イラストレーターが替わり、2009年度版になって、あの「子供大学」の印象的な挿絵を以前紹介したKlaus・Ensikatが三番手として登場。 ![]() 大人向けの絵本です。作者は全くの猫好きらしく、猫のありとあらゆることを知っているようです。「世界の歴史」の章は、『ある時から人間は人間になった・・そのことを自然界の例外と感じ、成長し生まれ来る全てのものの中で、唯一創造されたことを望んだ・・』そして『宗教史とはそういった人間の思い上がりの歴史かもしれない』と続きます。それが猫の歴史の導入です。そして人間と動物の関係は宗教儀式だったのか、使役という功利主義だったのかと続きますから、なにか奇妙な感覚がまず用意されるといった具合です。 人間と猫が最初に付き合いだしたのは、エジプト文明らしいと、私もなんとなく知っていましたが、この本ではさらに面白く詳しい神話が語られます。地球上の支配者と彼の動物神官について無関心だったなら、野生猫の自由で孤独な大いなる尊厳は不気味なものにしか思われないだろう、と作者の猫感がこの一言に込められているように神話は始まります。『世界中で狩猟の人々はライオン、ジャガー、豹といった猛獣におびえていた。定住し君主制の形をとると、その人間になじもうとしない動物を動物帝国の王と考え、自分達の神殿に招いて、気持ちを和らげようとした。そのようにエジプトではライオンの女神が登場した。ライオン神は自分の神聖な役割をまじめに勤めていたが、時々香を焚きに来た番人を朝食にしてしまった。・・ある日、多分2500年ぐらい前に、賢い神官が新しい動物神を探す旅に参加した。ヌビア(リビア)で彼はマウミという名前の、小さな、黄色い毛の、若いライオンそっくりの動物と出遭った。とても柔らかな、静かな性格であるらしい・・・』現在世界中で飼われている家猫のルーツがリビアヤマネコであると、2007年のサイエンス誌に発表されたということだから、神話も馬鹿にならないものです。こうして便利な小型版がライオン神に取って代わった。『このように古い信仰の規定がちょっと変更されるのは、大抵ある熱狂によってである。人々はこの新しい神に夢中になり、よく世話したので、やがてナイルの地を十万もの猫が埋め尽くすようになったことを、覚えていて欲しい』、と作者は続けます。 その頃、取り引きというものが始まって、あらゆるものが売り買いされるようになると、その土地の宗教観もついて廻るようになり、猫は航海や戦士の守り神のお供として、遠くに伝えられるようになったのですが、行く先々で扱いが変化していきます。特にヨーロッパではキリスト教が動物神を否定して、猫も魔性のもの、不吉なものとする感覚が生まれます。『中東や中国での扱いはずっとましだった・・・』と猫の世界史は続いていきます。 ![]() 他の何篇かの猫に纏わる話の中で「英雄の死」という一編は、作者の経歴にある、フランスでの塹壕戦へ参加したときの体験談かと思われます。最後の塹壕と猫のこの話を読むと、エッゲブレヒトが様々な話をこの本に集めたかった猫への思いという、一筋の強力な意識の線がひかれます。現代の人間が猫の役割として安易に思い浮かべること、戦争の最中であったとしても、そのことから起きてしまった悲惨な結果。 ![]() 人間が自然の例外的な存在として、整えてきた街角を、通りを、屋根の上を猫が横切るとき、人は遠い自然にふと出会うことがあるかもしれない・・・と作者は考えます。 藝術の秋の一夜、舞台鑑賞はいかがですか?
![]() ロック・小次郎 上から登場 「お兄ちゃん、遊ぼう!」 「・・・・」パンク、気が付かない振りをしている。 ![]() ロック・小次郎 さらに迫る 「お兄ちゃん、遊ぼうってば!」 「まあな、後で」パンク適当な返事でごまかす。 ![]() ロック・小次郎それでも諦めない 「今日の兄ちゃんは乗り悪いな~。 よし、それなら僕の 必殺尻尾釣り!仕掛けよう」 「ふりふりふり」パンクつい反応。「ん! お!」 ![]() 「ふりふり」 「お!ひょい!」 「ふりふり」 「こんにゃろ~」 「ふりふり」 「ぱひ、そら捕まえた」 「ふ・れない、ふ・れない」 「ははは、お前の釣りはちょろい」 ![]() 兄ちゃんが尻尾釣りにかかって喜ぶロック・小次郎 調子に乗ってしまう・・ 「兄ちゃんもちょろい、僕の尻尾釣りにかかった!」パンクわれに返って 「弟の分際で、兄貴に向って尻尾釣りやったなーー」 ![]() こうして、秋の宵はあっという間に深まっていきます。 こんなの公開すると、陶芸仲間から「・・・・・」と冷たい視線を浴び、自転車仲間から(そんな仲間いたかな?)「そんな三輪車しかつくれんのか~」と叱られ、後悔しそうですが・・・・
しんちゃんと しろを作ったことがありました。 ![]() ![]() 知り合いのガキンチョ(失礼、友人のご子息)が日本から持ち帰る、クレヨンしんちゃんを廻してもらいました。はじめは「うおには貸さない!」なんて意地悪なことを言いながら、もともと慈悲深い性格のガキンチョは結局全部かしてくれたな。 増刊号も混じって数冊だけだったけど、笑いました。しんちゃんの妹、ひまわりちゃんが登場するまで、一応しっています。私のお気に入りはしろでした。 貸してくれたガキンチョへお礼に作ったのですが、顔が似てなくて作り直しかなと思いながら、そのままになっていました。先ごろしんちゃんの産みの親、臼井さんが亡くなるというようなことがあって、「あれはどうしたかな?」と聞いてみたら、壊れもせずにありました。写真を送ってもらいました。 せっかくだから、私のブログにも記録しておきましょう。 ![]() ![]() Tags:クレヨンしんちゃん 不思議な・・・
立体的な・・・ 庭を見ました。 ![]() ![]() ![]() この風景まで来ると、庭園の立体感が判ってもらえそうですね。 水色の木戸が地上階でその上、2階、3階にしつらえた庭でした。 昨今の環境テーマの中では、都市の中の緑化制作で、ビルの屋上に庭が作られたり 地上スペースでも、地下が駐車場で本当はコンクリートで覆われた部分に土盛りして 庭の園芸が楽しめるようになっていたり 最近の建築物は周辺の緑化までデザインされるようになりましたが これはむしろ宙に浮いた、空中庭園を連想させました。 ![]() (バビロンの空中庭園)写真出典Wikipedia ![]() ところが、木戸から飛び出してのびるこの樹木の幹を見ていたら、「何故」と思い始めました。 そもそもこの家には地上階平面に庭となる場所が無かったのだろうか? この木(何の木かわからない)は上方にもどんどん成長していき、3階のベランダの一角をも埋め、その周りに他の植物が配置されて、まるで家の表面を隠しているようです。後から写真を眺めたら、樹木を這わせる心棒以外に何本かのパイプが走っているようです。ドイツの家は冷たい外気を避けて、水道管が外にむき出しになっていることは殆ど無いので、これは上階の植物に水を撒いたり、あるいは排水に使うのかな? この家はフライブルク近郊の小さな町に有りました。とはいえ街中を走る大通りに面していました。表から石造りのアーチをくぐって中庭にこの水色の木戸があり、大抵なら・・普通は・・・その中庭平面に配置されるだろう植物が立体的に造園されています。 この立体庭園をプランし実行したのは、この町の園芸局に勤めるプロフェッショナルな造園家の弟であると、私が訪ねた陶芸家の女性、その家の1階に工房を持つ方から聞きました。この家で陶芸と造園は違う人間がそれぞれ担当していますが、その二つの言葉から連想したのは、「もしかしたらパリシーか?」 パリシー(ベルナール・パリシー 1510~1590)はフランス・ルネッサンス時代の陶工ということになっていますが、始まりはガラス職人、晩年は地質、鉱物学、博物学の講座を受け持つなど幅広い経歴が伝えられています。最近イタリア・ルネッサンスに関する本で知ったのですが、ダビンチやミケランジェロなどその頃の芸術家が幅広い活動をなしえたのは、当時の工房というものが今と違って専門職に分かれていなかったため、見習い職人は、絵の具の混ぜ方から火焚きまで幅広く手伝いに走り回った背景があるらしい。時代感覚としてフランスも同じようであったのか?それにしても当時親方になるような逸材は、膨大な情報は得られるけれど、実践の機会が乏しい、現代人にとって驚異的に多様な知識と経験を身につけていたのだと思います。 このパリシーという人物は、明治時代に中村正直の『西国立志編』で300人の中の一人として日本に伝えられています。この立志編は教科書にも載ったということで、パリシーが磁器制作に苦労した話は、日本の陶工の苦労話に転用されたとも言われています。 最近『ハザン』というドラマを観た際、貧しい波山が十分な薪を用意できなかったのか、温度達成を願うあまり、そこら中の雨戸や建具を燃やし始めるシーンがあり「あっ、パリシーだ」と思いましたが、古今東西何かに情熱的に向う人々は、同じようなことを考えるようです。 ところで私がパリシーを知ったのは『陶工パリシーのルネサンス博物問答』という本によってです。1563年、パリシー本人の書いたものが1993年、日本語に訳され出版されています。勿論陶工しかもルネサンスの、というタイトルに飛びついた私でした。開いてみたら、弟子が質問し、パリシーが答えている内容は造園に関するものです、ルネサンスの陶工がどうやって轆轤をひいていたの?など、そんなことしか発想しなかった、非常に陶芸オンリーの私の興味から外れて、正直な話、買った当初はじっくり読んではいませんでした。その後ひょんなことで、又開いてみたのは、このブログ書き込みの中で「塩釉の発祥は・・?」というテーマを、みんなであれこれ話していた頃です。農業指導の話の中でパリシーは塩が大事とし、ガラスでも陶器製造でも塩が必要不可欠と語っています。 しかしその部分を今は素通りして、造園なのです。幅広い活動といってもガラス・陶器・園芸は鉱物や土つながりで関連性が無いわけではありません。しかしパリシーの造園プランを読んでいると、思いがけないところに、陶芸家の顔が覗きます。たとえば庭園に配置する園亭(あずまや)について、建物は外から見ると岩にみえるようにすべきとか、樹木で周りを蔽ってしまうとか、屋根にも植物を植えるとか・・・はまだしも、『内部の艶の美しさについて語りたい!』と続きます。彼はそのために園亭(あずまや)内の丸天井から裾の敷石に至るまで、様々な釉薬を塗りこめ、火を焚いて溶かしてしまうとプランするのです。これには「おっ、おー」とびっくりです。思いがけないところにルネサンスの陶工を見つけてしまいます。さらに内部には本物と陶製のトカゲや爬虫類を配置したいそうだ・・・むむ。 このように何度か思い出し覗くうちに、塩と陶芸の関係、ガラスや陶芸から農業や造園にいたるまで、パリシーが経験に基づく知識を語るところに、実はルネサンスという時代感覚が潜んでいるのではないかと、最近やっと私のほうに、この本の意味に似合った興味が、用意されてきたかもしれません。 ところで見つけた立体庭園、その植物が覆う内部の部屋では陶芸家のお姉さんが、ガス窯を焚いています。一瞥した限り、爬虫類は焼いていなかったと思います。今度機会があったら、この庭園をプランするに当たって何かたたき台というのか、お手本があったのか聞いていたいと思います。 ![]() この家の通りに面したファッサード。 Tags:空中庭園 ベルナール・パリシー 久しぶりにアンティエの家を訊ねた。フライブルクの街中にある。
![]() ベルリン生まれのアンティエはおしゃれで姉御肌の女性です。 私がフライブルクに着たばかりの頃、ある生地屋さんのショウウィンドウに置かれたダチョウの卵のようなごろんとした作品が気になっていた。その年、岩手県藤沢町の『縄文野焼き祭り』という催しに誰かドイツ人陶芸家のゲストを連れてきてという話に私は悩んでしまった。文化庁とか文部省とかのお墨付き肩書きが何も無い私を信用して、日本までついてくる人がいるだろうか?それに東京でも京都でも、ヨーロッパの陶芸家なら誰でも知っている益子でもない藤沢町という未知の場所に行きたがる人がいるだろうか?? 当時、唯一陶芸関係で相談できそうなドイツ人に話したら、「アンティエを紹介しよう。彼女がいけるかどうかは判らないが、良い作品を作っている」・・・それがダチョウの卵の作者だと知り、私は彼女を是非日本に連れて行きたいと思い、実現した。 以来、彼女の仕事場で制作させてもらったり、自分の家のように出入りできたのは、アンティエがシングルマザーで一人娘と二人暮らしの気楽さからでもあり、彼女の類稀な包容力のためでもある。 ベルリン時代の思い出に、「ある日から東側の友人が学校に来なくなった」など壁ができた当時の話が突然出てくることもある。が、そんな状況をあーだこーだ分析するような話には決して発展しない。造形学校に通う前の当時から彼女の頭の中は、おしゃれと創造的なアイデアで一杯だったのだと思う。彼女との約15年の付き合いで、最も良く話したのは制作についてだったな、と今日改めて思い返す。 ![]() 彼女の家の特徴はこのような天窓が各部屋にあること。15年間その光の微妙な効果は変化ないが、家の中の様子は初めがどうだったか思い出せないくらい、始終変化してきた。趣味が大工仕事と模様替えだとしても、女二人でいとも簡単にやり遂げてしまう。 彼女の制作も同様で次々変わっていく。だから彼女の作風や趣味を紹介するのではなく、とりあえず今日訪れたときはこのようだった・・・としかいえない。 ![]() 台所には最近作っているらしい曲がった器が置かれている 家の中のメインスペースは50㎡ほどの裁縫アトリエ そこは娘さんキムのエリア。 15年前、アンティエが日本へ行くとき、初めて母親がそんなに遠くへ行ってしまうと涙ぐんでいたキム。今では仕事場以外に小さな洋服店を持つまでになった。アンティエのおばあちゃんが仕立物屋でアンティエも洋裁の腕が立つ。それをキムが受け継いだ。 オイローパパーク(南バーデンの巨大遊園地)のショウに使う衣装を手がけたことから、そこがスポンサーになり、来月ファッションショーがある。その準備になにやら話し込んでいるキムとグラフィックデザイナー ![]() ![]() これは秘密の新作?それとも直し? ![]() キムの初めてのショウは、彼女が20歳の頃だったと思う。アンティエの家は面白い構造で表のギャラリー(所有者は別の人)とつながっている。裁縫室のある2階スペースからギャラリー内部の空間へ真っ直ぐ通路が走っている。その頃私は既に何度もその家に出入りしていたにも関わらず、玄関横のもう一つのドアを開けると、別世界のようにギャラリーの裏口が開いていることに驚いた。初めてのショウはモデル達がキムの裁縫室からその通路を通って、ギャラリー内の舞台へ真っ直ぐ歩いていった。70㎡ほどのギャラリーには立ったままでしか見物できないほどの人々で埋まった。義務教育の後、職業訓練学校やましてやパリに修行に行くでもなく、ひたすら家で縫い物をしていた彼女がどうしてこれだけの人を集められたのだろう?後で知ったのだが、ディスコが宣伝の場になった。それにモデルだってたちまち集まった。ディスコクイーンでもありミスフライブルクに選ばれたギムナジウムの学生が、キムの服を着て踊り、彼女の服はたちまちセクシーの代名詞となった。ショウの中にそんな余興を上手に配置する、キムにはファッションデザイナーに必要なセンスをアレンジする能力があった。それに彼女のセンスに人が集まってくる。私だってボタン付けを手伝った。なんてボタンの多い服だ!と内心うんざりしながら・・・ それから10年。何度目のショウになるのかな? ![]() 部屋の中に、こんなシーンがあるのもアンティエの家 ![]() 丸い作品は紙製。数年前電気窯の熱線が駄目になり、張替え資金ができるまで、アンティエは紙で制作をしていた。紙はもともと彼女の扱いなれた素材で版画から紙粘土細工まで幅が広い。それにしても彼女の制作開拓の歴史、変化の連続には経済難がいつも一役買っているところが面白い。負けないアンティエです。 いつか、きちんと彼女の作品を紹介しなければと、思いつつ・・・。 Tags:フライブルク パンク、ロックとお散歩です。
私が自転車で出かけようとすると、庭のどこかに潜んでいたパンクが現れ、追いかけてくるようになった。この界隈のエリアが広がって自信がついたのかな。自転車に追いつくまいと思いながら、振り向くと必死で走っているから、ついこちらも速度を落とす。途中で生垣に首を突っ込むから、そこからどこかに消えるだろうと思ったら、パンクは自ら軌道修正して、又私のルートに戻ってくる。なんだかこちらが『買い物に行くという』本来の目的を変更して、「その気なら君、家に戻るまでついてこれるかな」そうやって猫同伴の散歩が始まった。私ののろのろ直線移動に対して、パンクは相当なジグザグ寄り道移動だったが、とにかくついてきた。家の近くまで来たら、「ここからは一人でもわかるぞー」と茂みに飛び込んだので、もう後は勝手にどこかへ行ってしまうかと思ったら、驚いたことに玄関の前に長々と伸びて、息を切らしていた。ミルクも寝そべったまま首だけ伸ばして飲んだ。 そうやって何回か散歩してみたが、毎回ちゃんと家まで一緒に戻ってきた。途中で行き会った人々に「珍しい猫だね」と言われていることをわかっているのかな。 一方、4ヶ月とちょっとのロック・小次郎のエリアはまだ仕事場の前のテラス近辺。テラスに落ちている葉っぱでも、小さな虫でも、何でも相当なものに遭遇したような、大冒険の独り舞台を演じている。自転車とパンクを追いかけても、庭の真ん中で止まって、見送るだけだった。お昼寝しながら『僕も外に行った』夢でも見ていたのだろうか。昨日のこと、いつものように出てしまわないように締めた裏庭のフェンスの下を、無理やり這い出してきたロックは「今日は絶対についていく!」と、断固とした目つきだ。「ウム、これは連れて行くしかないね?パンク」パンクも諦め顔。私も「最近買い物に行きにくくなったなあ」と思いながら財布ではなくカメラを持っていくことにした。 ![]() ちょっとよそ見する間に50mは遅れてしまうロックは、その都度なきながら必死で走ってくる。(ママ猫は耳が聞こえず、パンクもロックもあまりなくことがない)私もパンクもロックを見逃さないように、後ろを振り返ってばかり。 ![]() ![]() 「ロック来てるか?」 ![]() 「なんだか、面白いものばっかりだ!」 ![]() 森に入った途端、まずパンクがいつものように木登りする。それを見たロックがすかさずマネをする。軽々と一気に2mは上れる。でもどうやって下りる?仕方ないセミになってみよう。 ![]() ![]() 帰り道、道路下のガレージでパンクが休憩すると、ロックも真似する。そちらは日陰でいいなと、私は日差しの中で待つ。 家の傍の草むらまで戻ってくると、2匹とも大はしゃぎで、お互いを狩りしてしばし遊ぶ。 ![]() ![]() その勢いで家の玄関まで ![]() おつかれさんパンク。ロックの初散歩無事に終わったね。 パンクは例によって、のびてしまう。ロックは玄関先の葉っぱをくわえて、はしゃぎ続ける。 でも、ミルクを飲み終わって、パンクはいつの間にかまた単独散歩に出かけてしまった。 ロックはぐっすりお昼ね。その晩は風呂に入れられ、ついに虫除け薬を処方される。 明日、私は単独で買い物に行くぞ! Tags:猫 ロマ?故国から出てさすらう人々を、ジプシーといったほうがわかりやすい。彼らの言語のなかに、今でもサンスクリット語起源のロマニ語が残されている。近年、彼らの言語を追及した説が有力となり、インドから移住してきたロマ民族と、ヨーロッパでは言い換えられるようになった。ジプシー「エジプトから来た人」ではないという民族意識より、ジプシーという名とともに蔑まれてきた過去を嫌って、ロマを名乗ることや、逆に自分達はインドから来た民族とは違うと主張する人々もあり、全てのジプシーがロマに言い換えられたというのでもなさそうだ。 デンマーク生まれ、ヘルシンキで写真を学んだカメラマンJoahim Eskildsenとスウェーデン生まれ、ヨーロッパ数箇所の大学で哲学・歴史・言語学を学んだ女流作家Cia Rinneの二人組みが2000年から2006年までロマとの出会いを求めて、ヘルシンキからフィンランド国内さらにインド、ロシア、ルーマニア、ギリシャ、フランス、ハンガリーを旅した。その写真とエッセイが『ロマの旅』という本になり、現在ヨーロッパ各地を『ロマの旅』展が巡回している。 1997年、ドイツの作家ギュンター・グラスは夫人と共にロマ財団を組織した。ロマの独自性を理解し、歴史の中だけでなく、現代の中で彼らの文化的、社会的状況を明らかにしようとの意図があった。 「この少数民族はヨーロッパ中の国々に暮らしているのだが、違う見方をすれば全く存在していないともいえる。彼らはヨーロッパ人の意識の盲点である。しかしさすらいの民である彼らは、この地に留まっているものを見ている。」とギュンター・グラスは発足の言葉に記し、ロマのルーマニアからポルトガルまでの滞在を保証するパスポートを要求したという。 グラス夫妻は25万マルクを財団の資金に提供した。財団はロマ救済活動やヨーロッパロマを多くの人に知ってもらう報道活動に、賞を与えることも役割として、1999年、2006年に各一組が選考された。今年2月に選ばれた2組のうち、『ロマの旅』は奨励賞を受けている。 写真展の会場には、訪れた国ごとのエッセイ、ロマの歴史やエピソードからの抜粋が解説パネルになっていて、私は始めてロマに関するものを読んだ。ギリシャ、インド取材メモからジプシーとロマが混同された経緯を想像してしまう。 ギリシャで最大の少数民族ロマは、ビザンティン時代からその地に生活していたそうだ。8世紀にはビザンティンの小アジアにいたと、いわれている。1347年コンスタンティノポリスにジプシー「エジプトから来た人」や奴隷を乗せた船がやって来た。彼らはペストから逃げてきたのだが、その後ヨーロッパでも黒死病が広がっていく。それ以前にロマはヨーロッパ領域のビザンティン帝国(東ローマ帝国)に到達していたらしい。統治者アンドロニコス王(1282-1328)時代の歴史家がNatという軽業師達を王が連れてきたと記録している。『ロマの旅』インド取材では、ビザンティン時代と同じようなアクロバットに遭遇している。Natはサンスクリット語でダンサーを意味し、インドの村人の楽しみと豊作祈願のために、命知らずのアクロバットをやってみせるプロフェッショナル階級だった。しかし14世紀の歴史家は彼らをジプシーの軽業師と記している。 約35万人のギリシャロマの半数は、今一般市民と変わらない生活を送っている。しかし半数は社会の縁で、警察や官僚の無関心から全く保護されることなく生活している。 バルカン半島から次第に広がっていったロマには行く先々で、自由な放浪を許されない状況が待っていたことを、ロシア、ルーマニア、ハンガリー取材に読んだ。 フランス取材では現在を扱っている。1969年から、国の社会教育機関が、移動生活者の子供達のために移動学校を始めた。先生の朝一番の仕事は、「今どこ?」と電話し、椅子とテーブルそれに黒板や教材を積み込んだバスで彼らを追いかけることだ。移動生活者にとって、同じ場所に彼らのキャンピングカーを止めることが、年々難しくなっている。ロマを受け入れるという住民の署名運動が起こったりもしたが、不動産会社が多くの駐車場に車の高さ制限を書き加え、キャンピングカーが入れない。移動学校は毎日違う場所で、次第に町から遠く離れた場所で子供たちに授業する・・・。 しかし、パリの傍にいるロマ、特に女の子達は、おしゃれな感じ。 取材先のどの国のロマにも、時々インド人の面影を見つけるのは、インドから来た人の末裔と、思ってみているからだろうか。そして彼らの目がどこか、その場ではないものを見ているように感じるのも、私の潜在意識からか。『ロマの旅』の写真とエッセイは人々の見てきたもの、見ているものを捉えていると思う。 ![]() ハンガリー、1949年ロマたちに割り当てられた居住区に住むおばあちゃん。両親はこの土地を耕しながら森のコルホーズでも働いた。 写真出典Joakim Eskildsen ![]() ギリシャのロマ居住区はゴミで覆われた耕地に隣接する。 写真出典Joakim Eskildsen ![]() パリ 写真出典Joakim Eskildsen ![]() ヘルシンキ、キャンピングカーの中の食事 写真出典Joakim Eskildsen Tags:ロマ 日本へ帰国する前、Enkh(エンク)さんから案内が届いていた。 フライブルク・モラートインスティテュートでの展覧会で、モラート財団は美術のパトロンとして、モランディという静物画家の作品をまとめて所蔵し、その作品カタログを何冊も作っているが、最近は現代作家の展覧会を続けている。モラートインスティテュートで作品を発表すると「ついに、あそこでやったか」と、友人・知人から祝福されることになる。だからEnkhさんの展覧会をその会場で見ることを楽しみに、日本から帰ってきた。 ![]() a モラートインスティテュートは土曜日しか開いていないが、会期が2ヶ月以上と長いので、見たいものを見逃すことは無い。二つの会場があって、どちらも広い。在庫の作品を適当に展示してもつような空間ではない。そんな会場を二つとも使いこなすのは難しいのか、一つの会場のみと制限があるのか、大抵は二つの展覧会が同時におこなわれる。 今回はEnkhさんの「針金?鉄棒?作品」と、もう一つは写真展Roma(ロマ)という放浪の民をヨーロッパ中に訊ねたものだった。 ![]() ![]() Enkhさんの会場の入り口に、「会期中に本人撮影の会場写真を網羅したカタログが出来上がります」の案内があった。そのインフォメーションと入り口からちらっと覗いた光景で、すっかり私の撮影意欲がなくなってしまった。単体としても群としても美しいマチエールを描く会場風景だが、今回のそれぞれの作品は背が高すぎて、アングルが選べない。それにあの細い針金の集積に、空間を持たせて写すなんて・・・ それより、本人がどんな撮影をするか、つまりそれはこの作品の作者が何を考えているのかに迫るようで、もう待ちどうしモードになってしまい、写真撮るのはヤーメタ、ということでのんびり見ることにした。 でもこの馬はすごい3mあるかな! なんと向こうには作りかけのパオまである・・・ どうしても、職人的な見方をしてしまうが、Enkhさんが針金をジョイントした痕跡は、どれもが作品の美しいディティールとなっている。やった仕事の全てが、使った素材の要素を邪魔しなければ、つまり素材を殺さなければ、そのように見える。繊細な計算で、できることだろうか?私の職人の頭では、どうしても手で覚えたとしか、考えられない。余計な説明でEnkhさんごめんね。 Enkhさんのことは以前にもメモしています。 Unen Enkh 展覧会は8月14日、22日、29日の土曜日にまだ見ることができます。 会場 Morat-Institut für Kunst und Kunstwissenschaft Lörracher Str. 31, 79115 Freiburg I.Br. Samstag 11 - 18 Uhr
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