おきて
岩合日出子の著書『アフリカ ポーレ・ポーレ』があります。ポーレ・ポーレ、ゆっくり行こうという意味。
その言葉と歩く人々のイメージが重なります。
私の母親が初めての海外旅行に選んだ行先がケニアでした。私が同行します。80年代のその当時、ケニアに何かしらの理由で住んでいる日本人は、公的使命か企業の大きなプロジェクトに携わっている場合が殆どで、その立場上多くのアフリカ人使用人が働いているような家に住んでいました。そのような家にお世話になり、かばん持ちである私は次第に、彼らアフリカ人労働者に近寄っていきました。すると彼らはいろいろな部族出身で、それぞれの集落から歩いてその家に集まってくるらしいことがわかってきました。その家の運転手だって、仕事が終わると歩いて自分の家に帰るのです。その距離がまたすごいもので、片道2時間ぐらいが彼らにとって平均的通勤時間でした。その運転手さんにお願いしてナイロビ市外へフラミンゴを見に行った帰り道、エンストです。アフリカ人の運転手はその日の走行距離とガソリン量を確認してから走り出す・・ような計画的なことはしません。当然のことのように彼はガソリンタンクを引っさげて車から去っていきました。途中で車に出会ったらガソリンを分けてもらう、行き会わなかったらとにかく最寄のスタンドまで行く。運がよければバスが通りかかって、それに乗れば、帰りが少し早くなる・・・のような感じで歩み去っていく運転手。2時間待って、彼が行ってしまった意味が良くわかりました。車が一台も通らないのです。4時間まって、車もバスも皆無。使用人たちが歩いて仕事場に来る意味がよ~く判りました。6時間後、エンストしてから初めて視界に入ってきたバスに乗って、運転手が帰ってきました。そんなことがあったので、道行く人々を私は改めて見つめるようになりました。ちょうどブーゲンビリアの咲き誇る季節で、その並木道を歩いているアフリカの人々。歩くということを受け入れている彼らの歩調は何とも優雅です。これがアフリカのテンポ、アフリカの時間らしいと思いました。ポーレ・ポーレ、ゆっくり行こうはそのようにゆったりした時間の流れを持つアフリカならではの言葉と、考えました。
岩合日出子のポーレ・ポーレはしかし、すさまじいアフリカ体験から生まれたタイトルです。
4歳の娘と一緒に夫、岩合光昭の取材に同行してケニア・タンザニア国境に広がるセレンゲティ国立公園での過酷な生活体験記に付けられたタイトルです。大事な水の確保に神経をすり減らす妻、撮影から帰った夫は、まるで日本の自宅に帰ったごとく、飯!洗濯!(さすがに風呂とはいえない)、険悪になる両親を見ぬふりする4歳の娘。
今はどうなっているのかわかりませんが、ちょうど80年代初頭に世界遺産として登録されたセレンゲティ国立公園は動物の自然な姿が見られる場所として、注目されていました。国境をはさんでケニア側にはマサイラマ動物保護区が続いています。そちら側からの情報として、セレンゲティの名づけ親である、マサイ族狩人の退廃振りを最近目にしたので、今はその世界遺産の場所もどうなっているのかなと、思ったのです。
自然公園という保護地域に生息する動物たちは、次第に人間になれてきます。その油断する動物を狩るかつては果敢の代名詞だったマサイ族。しかしその狩猟の意味は公園を守る人々、レインジャーに対する嫌がらせなのだという、なんとも不自然なストーリーが見えてきます。
岩合光昭が80年代にセレンゲティで撮影した写真は『おきて』という写真集になりました。
『アフリカ ポーレ・ポーレ』からも私のアフリカの記憶からもすっかり遠ざかってしまった最近。こんな衝撃的な写真を見つけました。
続く

岩合日出子撮影 田代島の岩合光昭
途中にて その2
途中にてのタイトルで通勤の様子を続けてみます

いわゆるキオスクのような駅前ショップ。発祥は日本の鉄道弘済会のような鉄道会社付属のショップと想像しましたが、Eckertという看板から調べてみたら、なんとドクター・エッカートさん(Stuttgart在住)が個人で始めた駅構内で新聞・雑誌・タバコを販売する企業のようです。ドイツ中の駅構内ショップ全部というのではないですが、ベルリンのUバーン駅やライプチヒ、ケルンと大都市の駅構内本屋としてスタート。Stuttgartに住んでいるからとはいえ、なぜこの辺境の町Herrenbergに店を出したのか、謎!1998年からは“駅”をテーマとした報道に対する賞を与える財団も組織とか・・・

私の乗り込むのはSバーン。Stadbahnの略です。昔はVororts-Bahn、V-Bahnの名前だったとか。
近郊市町村とStuttgartを結ぶ地域路線です。

隣町から歩いてここへレンベルクまで散歩した、ワンくんとおじさんも乗り込みます。

始発駅ですから、通勤時間をはずすと、この通り無人の電車に乗り込むことが出来ます。

隣町から1時間ほど散歩してきたワン君も、この通りのびのび帰路は電車の旅。
2,3分の乗車ですから理想的な電車の利用法ですね。
ここからは夕方の帰り道

ときどき、乗り換え忘れることは、前に書きましたが、一駅や二駅間違えて降りてみると、それぞれの駅は表情が違って、間違いも気分次第ではなかなか楽しいものです。
ここはいつもの駅ではありません。1つ先
すべてのSバーンはStuttgart中央駅を通過して近郊に伸びています。つまり中央駅からはあらゆる方向の近郊市町村へ乗り換え可能です。さらに中央駅ではUバーンとも交差します。中央駅を含めてStuttgart市内中心部分のSバーン駅は地下にもぐっています。自動車道路状況と共存するこの作戦は1950年代からのことのようです。

現在の電車も赤いですが、Sバーン電車第一号は、ET65。現在でもファンはRoten Heulerの名前で懐かしんでいるようです。ワインレッドのような赤い車体、Heulerは叫ぶやつの意味もありますが、蒸気機関車ではないので、もう1つの意味、すばらしいやつ・・ということでしょう。1933年に製造され、その時まだStuttgartでは電線設備が整っていなくて、数ヶ月東側の町ハレ市内を走っていたとか。1933年中にStuttgartの電線がOKになって戻ってくるのですが、頭端駅からの発着がらくらくこなせる機能性が当時脚光を浴びていますから、Stuttgartでは蒸気機関車から電車へ移行した第一号でもあったのかな。
Roten Heulerの歴史にはいろいろの鉄道史が詰まっていそうです。
Stuttgartは車の町といえますが、鉄道ファンも根強く活動しています。1978年に現役退職したRoten Heulerを電車美術館の中に数台保存しているようです。しかも走れる状態を保ってですから、経費を惜しまないファンクラブといえます。最近では2007年に特別走行しています。

あの犬を連れていたおじさんはRoten Heulerを見たことがあっただろうか・・・

いわゆるキオスクのような駅前ショップ。発祥は日本の鉄道弘済会のような鉄道会社付属のショップと想像しましたが、Eckertという看板から調べてみたら、なんとドクター・エッカートさん(Stuttgart在住)が個人で始めた駅構内で新聞・雑誌・タバコを販売する企業のようです。ドイツ中の駅構内ショップ全部というのではないですが、ベルリンのUバーン駅やライプチヒ、ケルンと大都市の駅構内本屋としてスタート。Stuttgartに住んでいるからとはいえ、なぜこの辺境の町Herrenbergに店を出したのか、謎!1998年からは“駅”をテーマとした報道に対する賞を与える財団も組織とか・・・

私の乗り込むのはSバーン。Stadbahnの略です。昔はVororts-Bahn、V-Bahnの名前だったとか。
近郊市町村とStuttgartを結ぶ地域路線です。

隣町から歩いてここへレンベルクまで散歩した、ワンくんとおじさんも乗り込みます。

始発駅ですから、通勤時間をはずすと、この通り無人の電車に乗り込むことが出来ます。

隣町から1時間ほど散歩してきたワン君も、この通りのびのび帰路は電車の旅。
2,3分の乗車ですから理想的な電車の利用法ですね。
ここからは夕方の帰り道

ときどき、乗り換え忘れることは、前に書きましたが、一駅や二駅間違えて降りてみると、それぞれの駅は表情が違って、間違いも気分次第ではなかなか楽しいものです。
ここはいつもの駅ではありません。1つ先
すべてのSバーンはStuttgart中央駅を通過して近郊に伸びています。つまり中央駅からはあらゆる方向の近郊市町村へ乗り換え可能です。さらに中央駅ではUバーンとも交差します。中央駅を含めてStuttgart市内中心部分のSバーン駅は地下にもぐっています。自動車道路状況と共存するこの作戦は1950年代からのことのようです。

現在の電車も赤いですが、Sバーン電車第一号は、ET65。現在でもファンはRoten Heulerの名前で懐かしんでいるようです。ワインレッドのような赤い車体、Heulerは叫ぶやつの意味もありますが、蒸気機関車ではないので、もう1つの意味、すばらしいやつ・・ということでしょう。1933年に製造され、その時まだStuttgartでは電線設備が整っていなくて、数ヶ月東側の町ハレ市内を走っていたとか。1933年中にStuttgartの電線がOKになって戻ってくるのですが、頭端駅からの発着がらくらくこなせる機能性が当時脚光を浴びていますから、Stuttgartでは蒸気機関車から電車へ移行した第一号でもあったのかな。
Roten Heulerの歴史にはいろいろの鉄道史が詰まっていそうです。
Stuttgartは車の町といえますが、鉄道ファンも根強く活動しています。1978年に現役退職したRoten Heulerを電車美術館の中に数台保存しているようです。しかも走れる状態を保ってですから、経費を惜しまないファンクラブといえます。最近では2007年に特別走行しています。

あの犬を連れていたおじさんはRoten Heulerを見たことがあっただろうか・・・
途中にて

新しい町で毎日電車生活が始まったばかりの頃は、車中の彼らと話すわけでも無いのに一度に出会う人の数が多すぎて、とても疲れると思ってみた。フライブルクでの毎日は、私だけの取り留めない考え事を頭の中に転がしたまま、家の中を徘徊し、ときどき窓の外を眺め目に入るのは、うちの猫が通り過ぎるか、バイオリン職人のお兄さんたちが庭でご飯を食べているか、90歳のおじいさんが、僕何歳に見えると通行人を捕まえているか、昔パン屋さんだったおじさんが、つい先ごろ亡くなったばかりの奥さんの庭に立っている姿ぐらいだったから。
それが寒くなった頃から、電車に乗り込むことが嬉しくなった。何しろホームで待つのは寒いし退屈だった。その駅のホームから眺めるコンクリート壁に貼ってある巨大広告3枚は1年間全く変わっていない。だからどれだけ人が詰まっていても電車の中の暖かさと乗っている人々の多様性にほっとした。
家に帰ったら、アパートに住んでいる子供達が中庭にチョークで大きな絵を描いていた。彼らは変化を求めたわけでも、コンクリレンガが退屈だったわけでもなく、遊ぶために描いただけだと思うが、毎日その殺風景な中庭に帰り着く私は、よくやった!毎日描いてほしいな、と拍手する。
子供の絵の評価はよくその潔い筆さばき、線の走りに言及する。そして無心の作業がなせる技と結論される場合が多い。なるほど遊ぶ以外のことを考えないところは無心といえるが、今私が敬服させられるのは、遊ぶという目的のために、道路を描き信号が取り付けられ、Pause(休憩)という表示を必要とする彼らの意識。
他人に疲れ、状況が変わればその他人にほっとさせられていることを思い出し、情け無い気持ちになる。自分の中にどんどん線を引く意識は何処にいってしまったのだろう。
まだ肌寒い春だが、気が付けば周囲では、にぎやかな彩りで花が咲いている。



仕事



引っ越してからもうすぐ1年になります
自分の作品を殆ど作らずにいましたが
1つだけ、白い器が
カメラを向けたら、パンクが割り込んできました
「僕の1年も撮ってよ」と言いたげに
それからのポーズがこのように、
演技なのか、恥ずかしいのか、腹へったといいたいのか、風邪をひいたのか、
実際今日は鼻水を流していた
風邪薬のかけらを飲ませたら、吐いてしまいました
注文の仕事は、この一年の間も途切れずよくやりました。もっとも、引越しの合間にでしたから、やれる時にやれる量をこなしたということですが。
昨日の仕事も、そのように型皿成型でした。石膏型へ手のひらを使って土を貼り付けていくと、手のひらの油脂分が土にとられていきます。途中でパンクが散歩から帰ってきたとか、パンクにご飯とか、何度か手を洗ううちに、手のひらがざらざらになっていくのがわかります。見た目は轆轤成型より気楽そうですが、土の厚みが均等であるかどうか、手のひらだけで感じる仕事ですから、案外集中力を要します。
終わるとくたくた。でも、仕事で疲れるっていいものですね。

地図
私の生家は渡波駅の目の前にあった。その駅を通過するのは石巻―渡波―女川を結ぶ
石巻線のみ。私の家は駅舎を出て左手、プラットホームの向かい側に並ぶ家々の一番始まりのところだった。駅舎から右手はプラットホームのスペースが無い分、家々は線路際ぎりぎりのところから、線路を背にして並んでいた。駅から出て、視線をまっすぐ伸ばすと橋が見えた。その下を流れているのは太平洋の水。地図の中では石巻線は殆ど海沿いを走っているようにしか見えない。
小学校に行く前の私の日課は、駅に面する窓辺に踏み台を置いて上り、目の前で展開する貨車の天井から氷と魚を投げ込む作業を、飽きもせず眺めていることだった。そのリズミカルな掛け声とシャベルの音は毎日のように聞こえていた。当時の駅には貨物用のホームがあり隣接してホーム側が片側開きになった魚を保管する大きな倉庫があった。
幼い私の印象では、駅はディーゼルカーに乗る人々以上に、貨車に積み込まれる魚のためにあるようなもので、今思えばそれは、町の漁業状況を目撃していたことになる。学校に入学して窓辺の私の日課はなくなり、その後の経緯、駅の魚倉庫に空の木箱が積み重ねられたまま放置されていた時期やその倉庫もなくなってしまったのはいつからか、覚えていない。
物心付いてから小学校に入るまでずっと、家族の中で唯一渡波出身である祖母と私は、一日中一緒に居たはずだが、祖母から海に関する話を聞いたのかどうか、これも記憶に無い。それでも駅の光景や、船の入港を伝える市場のサイレン、それに風と共に流れてくるにおいで、私は魚町の真っ只中にいた。
小学校4年か5年生になって、思いがけずクラスのあまり遊んだことも無かった女の子から誕生会に呼ばれた。たしか船主の娘だったと思う。「これが子供の誕生会の・・」と思うほど豪華な食事に舞い上がり、大宴会場のようにその料理が並ぶ部屋の、神棚の長く立派なことに驚き、遊んだ船具のある納屋の巨大さに、面食らった。その日は雨だったが十分かくれんぼを堪能できた。私は子供心に、海にかかわる生活がこれほど、なにかゆったりした豊かさを内包していることを感じた。それは部屋を横切る神棚の印象だった。
私の家は漁業と関係が無かったが、海のそばでの生活には違いなく、新鮮な魚をいつでも食べることが出来るという恩恵とともに海の怖さも知っていた。海水浴場に歩いていけたが、東北の浜で泳げる時期は短かった。8月のお盆のころには土用波という大波になるので、もう泳げなかった。隣家の船長の奥さんは夕方いつもラジオの前に立って、船の針路を告げる有線放送を聴いていた。私がまだ小学生のうちに、その船長は海で亡くなり、家族は引っ越していった。
だから誕生会に呼ばれた女の子の家で、正月でもないのに美しく飾ってある神棚を見た時、日々の生活が祈りと共に執り行われていることをすぐに理解できた。そこには女の子と学校で共有する秩序とは違った世界があった。祈ることを背景に持った彼女やその家族の生活が、とてもまぶしく感じられた
昨年3月以来、私は何度か同級生たちとの通信をしながら子供時代のこの感覚を思い出していた。子供ながらに祈りながら自然に服従せざるをおえないと知っているその土地の空気を感じていたのだと思う。今もその土地には私にそのような精神世界を伝えた人々が居る。その土地の地図は、精神地図というものがあるとしたなら、さらに色濃い書き込みが続けられていくのだろう。彼らなら叩かれてなお、人間が作り出せない自然の豊かさをますます感じているのではないか。
私の勝手な想像はこれくらいにして、その土地の確かな話がある。
☆ 確かな話
寒い冬の過ごし方
現在の寒波でヨーロッパでも死者がでたと今日のラジオのニュース。ウクライナの方らしい。(実は300人という数字が言われた)ローマのコロセウムにも雪が降っているそうだ。このところ毎朝ネットで天気予報を見るのが楽しみ、あるいは一縷の望みとなっている。3日間から7日間、14日間の長期予報を漠然と覗いて一喜一憂している。これが結構面白くて、毎日長期予報がころころ変わる。昨日は最高気温と最低気温の折れ線グラフが2月末もマイナス域に留まりしょんぼりし、今日は2月20日あたりからとりあえず最高気温がプラス域に上昇してにっこり。天気予報のサイトは住所の郵便番号を入力して、住んでいる場所の予報を覗くのだが、横にヨーロッパ各地の今日の気温があり、マジョルカのマイナス気温表示に驚いてしまった。イタリアやスペインにはちゃんと暖房装置があるのだろうか?そのあたりがマイナス気温になったらどうするのだろう?要らぬ心配をしている。
今日は仕事に通っている工房で、暖房器具の調整ダイヤルの取替えがあった。昨年なにやら最新装置にしたはずが、調整不能で室温が上昇し続け、工房の上の階には熱が廻らないことになって、旧式のダイヤル調整に戻した。作業員のお兄さんがいうには、この寒波で暖房機能の故障が多く、大忙しなのだそうだ。暑すぎるという苦情は贅沢な部類に入るらしい。
フライブルクがドイツでもっとも温暖な場所だったから、Stuttgartはこんなに寒いのだ!と一瞬恐れをなしていたから、ヨーロッパ中が寒いと聞いてほっとするのも冬の能天気な過ごし方かもしれない。4,5分の待ち時間にうんざりしながら、電車の乗り換えホームに立ち、映画『レニングラード』の場面を思い出してしまう。独逸人の捕虜がロシアの平原を歩いて脱走するなんて信じられない。毎日ご飯を食べて皮下脂肪を一応蓄えている私は、ダウンコートを着て頭は純毛のマフラーでぐるぐる巻きに覆い、毛糸と皮の二重構造の手袋をし、足だけはうかつにもジーパンだけだが、ともかくこの重装備で4,5分のマイナス15度が耐えられないと思っている。当時の捕虜の防寒具っていったいどうだったの?
それから、これは思い出すと寒空の中で、不気味に大笑いしてしまう映画もあった。
タイトルは忘れたが、ジャマイカだったか他のアフリカの国の選手だったか、とにかく南国のボブスレー選手育成のストーリー。彼らは大草原の中で象さんの横の斜面を滑りながら練習して、いざカナダのオリンピックに向かったのでした。モントリオール空港の建物から一歩外に踏み出した彼らは、とたんにぴゅ-と中へUターン。それからトランクの中のありとあらゆる着物を重ね着するのですが・・・アフリカから持ってきた洋服なんて半袖しかないよね。
寒さの中で、そんな寒さに対峙したシーンを思い出していると、不思議に自分の寒さを感じなくなる。
それから本。電車通勤になれるとともに、電車の中を読書室にしているが読む本は、これまであまりよんでいなかった推理小説を持ち歩くようになった。つい没頭して乗り換え忘れたこともあった。ちゃんと乗り換えてもページをめくるためにわざわざ手袋を外す騒ぎ。こんなことしているうちに春になるのよね。


写真は寒波前の散歩風景
今はカメラを取り出す気にならない・・・意気地ないですが
たより
年末に書き並べたお便りリストの名前を、まだすべてを消し終えないうちに年が明けると、もうクリスマスカードというわけにはいかない。手持ちのカードから適当なものを探すことになる。

絵葉書、封筒つきカード、便箋は、長年何処に何がストックされているか、引き出しの何処を引っ張り出せばいいのかわかっていたはずが、引越しの後、一重ねの山になっていた。仕方が無いので思わず全部をテーブルに。
便りを書く手をとめて、しばらくカードの種類分けに専念することになった。
旅先で買った観光絵葉書。美術館で買った、所蔵品の絵葉書。季節の便り用封書カードなどに分けながら、もう使わないだろう・・という一山もできた。

『名前の日』のカード ドイツ、ベルリンの蚤の市

どこの景色か判らないこのカードは何処で買ったかも思い出せない
何かしらの便りをする際に、せめて相手に似合ったカードを送りたいと考えながら選んだはずで、カードを収集するつもりはなかったのが、郵便手段がこの10年で極端に少なくなったことも物語る、引き出しの中の動かない堆積になっていた。
達筆でしたためた手紙ということをあきらめざるをおえない、私の悪筆に代えて絵を送る・・・という手段は、ある画集に影響されたことでもある。
切手選びということも要素に加わった。数年前までは、その年、1年間に発売される記念切手リストをみて「このシリーズはほしいな」などと物色するのも楽しみだった。大抵は発売日を忘れてしまうのだが、当日売り切れはめったに無いし、当時はどの郵便局に行けば残っている確率が高いかも知っていた。運が良い時には記念切手特設販売に出くわしたりする。それがまたうれしくて過去の切手がぞろぞろ並んでいる。その機会に見つけたもので、飛行機雲切手が長い間活躍した。飛行機雲がPostの字をくるくる描いている。もう1,2枚しか残っていないので、使わないと思う。
さて、その画集はジャン・ミッシェル・フォロンというイラストレーター作。
私は長い間、イタリア出身と思っていたが、ベルギー人。
最初の出会いはオリベッティー社のポスター。
その後、偶然見つけた『Giorgioへの手紙』という画集はドイツにまで持ってきたほど、私のお気に入りだった。はがきや封書の表面、つまり宛名を書くスペースに託された、Giorgioという人への便りを綴じた画集だった。イタリアの切手と消印の入った作品が多かった。
日本からの便りもある。ある人のブログにいくつかの作品が並んでいる。
↓
☆ フォロンの画集「Lettres a Giorgio」
これでは郵便配達人も喜んで運んでくれそうだ。私は作者の趣味でこのような便りを友人に送っていた・・と思い込んでいたが、フォロンというイラストレーターのイマジネーションがどれだけ豊かに便りを描き出していくかが、企画された画集であることを、上記のブログで知った。
ところで、私がドイツまで携えてきたその画集がどうなったかというと、青色のカバーに実際宛名を張り込んで、誰かに出してしまったらしい。
町を見る
あの上から町を眺めたいと、引っ越してきたときから思っていました。
そうか、初詣にはちょっと遅いけれど、そのつもりで行ってみましょう、と異教徒は恐る恐る・・・というよりは雨間を狙い速攻で丘に向かいました。
さあ、ついたぞー、と入り口でシャッターを切ろうとしたら・・・「カメラ動かない」
そうだ、しばらく使っていなかったからバッテリーの状態がわからず、念のため充電していた・・それを装填せずに駆けてきた・・・
あわて者は又丘を駆け下りる。
どんなに小さくても、教会はやっぱり大きい!それに境内いえ、え~と教会の場合はなんと言うのだろう・・前庭が狭いので建物を上から下まで捕らえるのに、丘から転げそうになっていたら、まず傘が転がってしまい、その拍子にシャッターが切れて、教会は無残にもちぎれてしまった。
それから、教会の扉を押し開けて、礼拝堂はちょっと覗き、おもむろに展望台へ続く階段を、 階段を、・・・階段を進むはずが・・・鎖がかかっている・・。鎖の真ん中に看板が立てかけてある。日曜日は・・・あと1時間しないと展望台にはいけない。
あわて者はすごすごと、ふたたび丘を下りる。


長かったなあ、道のりは!やっとたどり着いた。
教会の真下、黒い塔が突き出ているのは市役所。その向かいの黄色く塗装された木組みの建物も市役所分館で、住民課があり、引越しの手続きに行った。
その間の広場で、クリスマスマルクトが開かれていた。

私が町の広場に惹かれるようになったのは、ヨーロッパに来てからかもしれない。ある町の広場に立つと、それが大きくても、小さくてもなにか人がそこにたたずむことを許してくれるやさしさがあった。すべてを知らないが、美術館前の広場、市役所前、教会を取り囲む、いろいろある。が駅前広場の記憶は少ない。以前フライブルクの都市計画課の方が、広場をポイントに町作りを考えている、と話していたように、人が集まる場所の意味はそこがどのように利用されてきたかを刻み、歴史の中にある固有名詞ではない、その他大勢の一人ひとりに場所を提供するやさしさがあるのかもしれない。そんなわけで、広場という言葉に引かれて堀田義衛の『広場の孤独』を読んだことがあったが、そこに描かれていた広場の構図は全く違うものだった。
家に帰ってから、写してきたこの町の小さな、猫の額のようなともいえる広場を眺める。そして初めて気がついたのは、マンホールの蓋を取り込んだ赤レンガの筋。歩いている時は、奇妙な模様を道路にてけていると思ったが、もしかしたらこれは下水管の位置と合わせてあるのだろうか?だとしたら、これも1つの都市計画としてすごい。

広場から出て、さらに奥、丘の教会に続く道の石畳は、もしかしたらもっと古い時代に作られたのかもしれない。2回目に丘を下りた時は、10分弱の道のりとはいえ、さすがにもう家に帰らず、広場片隅のカフェに入った。その壁になんだか町の歴史が書いてあったようだが、1200年代だったかな。ここから上の家々で水道管が破裂したらどうするのだろう・・・。

写真のちょうど真ん中辺、なんとなく大きな建物のあたりが旧市街の境目、そこから垂直にまっすぐ上方にわたしの住む家がある。町が切れたところから続いているのは自然公園の一角。春になったら自転車が活躍しそうなこのあたりの風景。
2012年 あけましておめでとうございます
1月1日0時の突然花火をパンクは4回経験したことになるのですが
毎回それはパンクにとって恐怖の突発事態のようです。
今年もどこかの隅に隠れて、2時まで出てきませんでした。
思い当たる場所は護衛の私が、任務のため探したのですが、全く消えてしまって・・・
猫には非常用のシャルターがあるらしい。
2012年の元旦は
パンクとお散歩から

さて彼は何処に行きたいのかな?

家の周りでちゅんちゅんしているすずめを適当に威嚇した後
次の縄張りに向かうようです

おやこの農家の住人とお知り合いなのですか?

私には何も見えませんが、彼は何か知っているらしい・・・

あるアパート2階の、このドアの前??
ここで彼は私に何かを伝えようとしているが・・
判らん!

ここから向こうへはちょっと無理だね
雨はやみましたが、曇り空。暖かくてお散歩には気持ちよかったね。
パンクは花火事件のあとも、縄張りがちゃんと存続していることを知ってほっとしたかな。それとも数時間前のことはもう忘れている。
遅くなりましたが、
今年も宜しくお願いいたします。
みなさまにとりまして、良い年の幕開けになっていますこと、こころより願いつつ
2011年 から2012年へ
気温がちょっと上がって、雨模様の大晦日でした。
今、花火が上がり始め、2012年の1月1日0時になったところです。
大晦日にはTV(見ませんが)も、ラジオも新聞も、今年の出来事総括のようなことになります。
今年はジャーナリスト好みの1年間で3年か4年分の出来事が次々起こりましたね!
と、アナウンサーも言いましたが、新聞の出来事ベストテンに並ぶタイトルもドイツ内のニュースが
押しのけられるように、世界中のそして誰もが知っているニュースが並びました。
1.ユーロとヨーロッパの経済危機
2.アラブの春
3.津波によって引き起こされた日本の災害
と、2011年はドイツでも日本の大惨事が報道され続けました。
その締めくくりとなる、12月31日の記事の最後に
新総理の野田氏の言葉として
「日本では今後新たな原発設置はないだろう、しかし原発技術を輸出したい」
えっ!とばかり
日本のニュースを探したら、下記のものがありました。
これをドイツから
しかも新年早々に
逆発信することは
反発や嫌悪感を招くと
予想します。
TPOを考えずに・・・
ですが私のメモとしては・・・
改めて新年のご挨拶まで、数時間のアップです。
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