たより
年末に書き並べたお便りリストの名前を、まだすべてを消し終えないうちに年が明けると、もうクリスマスカードというわけにはいかない。手持ちのカードから適当なものを探すことになる。

絵葉書、封筒つきカード、便箋は、長年何処に何がストックされているか、引き出しの何処を引っ張り出せばいいのかわかっていたはずが、引越しの後、一重ねの山になっていた。仕方が無いので思わず全部をテーブルに。
便りを書く手をとめて、しばらくカードの種類分けに専念することになった。
旅先で買った観光絵葉書。美術館で買った、所蔵品の絵葉書。季節の便り用封書カードなどに分けながら、もう使わないだろう・・という一山もできた。

『名前の日』のカード ドイツ、ベルリンの蚤の市

どこの景色か判らないこのカードは何処で買ったかも思い出せない
何かしらの便りをする際に、せめて相手に似合ったカードを送りたいと考えながら選んだはずで、カードを収集するつもりはなかったのが、郵便手段がこの10年で極端に少なくなったことも物語る、引き出しの中の動かない堆積になっていた。
達筆でしたためた手紙ということをあきらめざるをおえない、私の悪筆に代えて絵を送る・・・という手段は、ある画集に影響されたことでもある。
切手選びということも要素に加わった。数年前までは、その年、1年間に発売される記念切手リストをみて「このシリーズはほしいな」などと物色するのも楽しみだった。大抵は発売日を忘れてしまうのだが、当日売り切れはめったに無いし、当時はどの郵便局に行けば残っている確率が高いかも知っていた。運が良い時には記念切手特設販売に出くわしたりする。それがまたうれしくて過去の切手がぞろぞろ並んでいる。その機会に見つけたもので、飛行機雲切手が長い間活躍した。飛行機雲がPostの字をくるくる描いている。もう1,2枚しか残っていないので、使わないと思う。
さて、その画集はジャン・ミッシェル・フォロンというイラストレーター作。
私は長い間、イタリア出身と思っていたが、ベルギー人。
最初の出会いはオリベッティー社のポスター。
その後、偶然見つけた『Giorgioへの手紙』という画集はドイツにまで持ってきたほど、私のお気に入りだった。はがきや封書の表面、つまり宛名を書くスペースに託された、Giorgioという人への便りを綴じた画集だった。イタリアの切手と消印の入った作品が多かった。
日本からの便りもある。ある人のブログにいくつかの作品が並んでいる。
↓
☆ フォロンの画集「Lettres a Giorgio」
これでは郵便配達人も喜んで運んでくれそうだ。私は作者の趣味でこのような便りを友人に送っていた・・と思い込んでいたが、フォロンというイラストレーターのイマジネーションがどれだけ豊かに便りを描き出していくかが、企画された画集であることを、上記のブログで知った。
ところで、私がドイツまで携えてきたその画集がどうなったかというと、青色のカバーに実際宛名を張り込んで、誰かに出してしまったらしい。
町を見る
あの上から町を眺めたいと、引っ越してきたときから思っていました。
そうか、初詣にはちょっと遅いけれど、そのつもりで行ってみましょう、と異教徒は恐る恐る・・・というよりは雨間を狙い速攻で丘に向かいました。
さあ、ついたぞー、と入り口でシャッターを切ろうとしたら・・・「カメラ動かない」
そうだ、しばらく使っていなかったからバッテリーの状態がわからず、念のため充電していた・・それを装填せずに駆けてきた・・・
あわて者は又丘を駆け下りる。
どんなに小さくても、教会はやっぱり大きい!それに境内いえ、え~と教会の場合はなんと言うのだろう・・前庭が狭いので建物を上から下まで捕らえるのに、丘から転げそうになっていたら、まず傘が転がってしまい、その拍子にシャッターが切れて、教会は無残にもちぎれてしまった。
それから、教会の扉を押し開けて、礼拝堂はちょっと覗き、おもむろに展望台へ続く階段を、 階段を、・・・階段を進むはずが・・・鎖がかかっている・・。鎖の真ん中に看板が立てかけてある。日曜日は・・・あと1時間しないと展望台にはいけない。
あわて者はすごすごと、ふたたび丘を下りる。


長かったなあ、道のりは!やっとたどり着いた。
教会の真下、黒い塔が突き出ているのは市役所。その向かいの黄色く塗装された木組みの建物も市役所分館で、住民課があり、引越しの手続きに行った。
その間の広場で、クリスマスマルクトが開かれていた。

私が町の広場に惹かれるようになったのは、ヨーロッパに来てからかもしれない。ある町の広場に立つと、それが大きくても、小さくてもなにか人がそこにたたずむことを許してくれるやさしさがあった。すべてを知らないが、美術館前の広場、市役所前、教会を取り囲む、いろいろある。が駅前広場の記憶は少ない。以前フライブルクの都市計画課の方が、広場をポイントに町作りを考えている、と話していたように、人が集まる場所の意味はそこがどのように利用されてきたかを刻み、歴史の中にある固有名詞ではない、その他大勢の一人ひとりに場所を提供するやさしさがあるのかもしれない。そんなわけで、広場という言葉に引かれて堀田義衛の『広場の孤独』を読んだことがあったが、そこに描かれていた広場の構図は全く違うものだった。
家に帰ってから、写してきたこの町の小さな、猫の額のようなともいえる広場を眺める。そして初めて気がついたのは、マンホールの蓋を取り込んだ赤レンガの筋。歩いている時は、奇妙な模様を道路にてけていると思ったが、もしかしたらこれは下水管の位置と合わせてあるのだろうか?だとしたら、これも1つの都市計画としてすごい。

広場から出て、さらに奥、丘の教会に続く道の石畳は、もしかしたらもっと古い時代に作られたのかもしれない。2回目に丘を下りた時は、10分弱の道のりとはいえ、さすがにもう家に帰らず、広場片隅のカフェに入った。その壁になんだか町の歴史が書いてあったようだが、1200年代だったかな。ここから上の家々で水道管が破裂したらどうするのだろう・・・。

写真のちょうど真ん中辺、なんとなく大きな建物のあたりが旧市街の境目、そこから垂直にまっすぐ上方にわたしの住む家がある。町が切れたところから続いているのは自然公園の一角。春になったら自転車が活躍しそうなこのあたりの風景。
2012年 あけましておめでとうございます
1月1日0時の突然花火をパンクは4回経験したことになるのですが
毎回それはパンクにとって恐怖の突発事態のようです。
今年もどこかの隅に隠れて、2時まで出てきませんでした。
思い当たる場所は護衛の私が、任務のため探したのですが、全く消えてしまって・・・
猫には非常用のシャルターがあるらしい。
2012年の元旦は
パンクとお散歩から

さて彼は何処に行きたいのかな?

家の周りでちゅんちゅんしているすずめを適当に威嚇した後
次の縄張りに向かうようです

おやこの農家の住人とお知り合いなのですか?

私には何も見えませんが、彼は何か知っているらしい・・・

あるアパート2階の、このドアの前??
ここで彼は私に何かを伝えようとしているが・・
判らん!

ここから向こうへはちょっと無理だね
雨はやみましたが、曇り空。暖かくてお散歩には気持ちよかったね。
パンクは花火事件のあとも、縄張りがちゃんと存続していることを知ってほっとしたかな。それとも数時間前のことはもう忘れている。
遅くなりましたが、
今年も宜しくお願いいたします。
みなさまにとりまして、良い年の幕開けになっていますこと、こころより願いつつ
2011年 から2012年へ
気温がちょっと上がって、雨模様の大晦日でした。
今、花火が上がり始め、2012年の1月1日0時になったところです。
大晦日にはTV(見ませんが)も、ラジオも新聞も、今年の出来事総括のようなことになります。
今年はジャーナリスト好みの1年間で3年か4年分の出来事が次々起こりましたね!
と、アナウンサーも言いましたが、新聞の出来事ベストテンに並ぶタイトルもドイツ内のニュースが
押しのけられるように、世界中のそして誰もが知っているニュースが並びました。
1.ユーロとヨーロッパの経済危機
2.アラブの春
3.津波によって引き起こされた日本の災害
と、2011年はドイツでも日本の大惨事が報道され続けました。
その締めくくりとなる、12月31日の記事の最後に
新総理の野田氏の言葉として
「日本では今後新たな原発設置はないだろう、しかし原発技術を輸出したい」
えっ!とばかり
日本のニュースを探したら、下記のものがありました。
これをドイツから
しかも新年早々に
逆発信することは
反発や嫌悪感を招くと
予想します。
TPOを考えずに・・・
ですが私のメモとしては・・・
改めて新年のご挨拶まで、数時間のアップです。
クリスマスのお願い 3
第3の話は、エーリッヒ・ケストナーの子供時代について。
ケストナーは庶民的な両親の元に一人っ子として成長しました。
「・・・世間の大抵の意見では、一人っ子は良くない。孤独でエゴイストな性格に育ちやすいと見なされている。私は一人っ子として孤独を感じたことも無いし、親友のGに代わる兄弟が欲しいと思ったことも無い。むしろ兄弟という絆で、気の合わない子供が毎日同じ屋根の下に暮らすほうが不幸ではないか・・・」
と、言っているのですが・・・なんとなくそこが一人っ子の意地かもしれない。
そんな強気のエーリッヒが
「神様!今日だけは私も兄弟がほしいのです」
と毎年必ず願うのが、クリスマスイブだった。
クリスマス・イヴは両親 VS たった一人の対象という、家族関係の中で最もエキセントリックな芝居が演じられる日だった。エーリッヒはその役割に失敗を許されなかった。両親がすっかり背景を用意している・・まもなく彼は舞台に呼ばれるだろう・・・エーリッヒいいか!見破られないように無邪気に笑うのだぞ!と思いながら、彼は台所の窓から外を眺めている。窓に映る彼の顔はむしろ重荷に耐え切れず、泣きそうだった。
根っからの職人である父親はこの一週間、夜中まで地下室にこもりっきりだった。そこで馬小屋を作るはずが、キリストの生まれるはずが、いつの間にか2階建ての王室厩舎へと増築され、さらにもう一枚の板を切り、さらにもう一箇所釘打たれ、さらに灯油ランプがつるされ、さらにランプの煤が、さらに掃除用ブラシが、さらに・・・と、もう誰もこれ以上の設備投資が考えられないだろう完璧な馬小屋に2頭の馬がつながれている・・という具合だった。
母親はこの一週間、毎日半日を町中の商店物色に費やし、彼女の納戸が一杯になって、もうこれ以上は押し込められないというまで、ありとあらゆるものを買い込んでいた。
色鉛筆、絵の具、スケッチブック、それに体力増強のためのダンベル、ローラースケート。方眼紙に定規・コンパス、それにびっくり箱と万華鏡・・・
エーリッヒにとってプレゼントなんか、何でも良かった。ただ彼は二人の愛情に均等に喜びを示さなければならない。その喜び方は両親の1週間の労力に匹敵するだけ、おおきな、おおきなものとして、演じられなければ。彼の右手には父親へ葉巻の一箱が、左手には母へのスカーフを入れた小さな包みが。しかし両親は僕からのプレゼントより、僕の喜びを待っているのだ。
ついに母が「エーリッヒもう入ってもいいわよ」と呼んでいる。
まず、入り口で立ち止まり『おー、なんと美しい!』と、さらに1歩部屋のなかに進んだら、右側の父のエリアをゆっくり目をやり、それから左の母のエリアを同じ長さ眺め・・・
一人っ子のエーリッヒはそうやって、台本どうりにクリスマスイブを演じながら、せめてもう一人、この役割を半分演じてくれる兄弟がいたなら・・と毎年願うことになった。
この子供時代から何年も経って、エーリッヒはもう両親と一緒には住んでいなかった。その間に戦争があり、両親の住むドレスデンは瓦礫の町となったが、彼らは生き延びた。郵便も鉄道も途切れたまま長い間会うことも、通信させも出来なかった。50歳になったエーリッヒが久々にあった母は療養所に座っていた。人生に疲れ果てた80歳になろうとしている母親との対面だった。彼女は膝の上でハンカチを広げたり折りたたんだりを繰り返していた。そしてついに懐かしそうな遠い視線を私に向けながら『ところでエーリッヒは何処にいるの?』と聞いた。
私は母にとってたった一人の、愛情のすべてを注ぐ存在だったはずだ。彼女の目はそれを忘れてしまったが、心は、心は決して私を忘れていないよ ね ・・・。
子供の願い、大人の願い
さまざまの願いが、今日は夜空を交差して飛び交っているのでしょうか。
メリークリスマス



クリスマスのお願い 2
クリスマスキントのことはツーリストインフォメーションでも聞くことが出来るでしょう。指定のマルクトで教えられた時間に待っていると、金髪の美しい女性がきらきらの白いコートで現れるはずです。しかし本当のクリスマスキントは、金髪を頭巾で、白い衣装を黒マントで隠し、人ごみに紛れているのです。
クリスマスキントがなぜマルクトに現れるのか?19世紀に書かれた童話から、ある証言を探し出しました。
・・・23日の夕方になると、クリスマスマルクトに一台の屋台がやってきます。そこにはマルクト中のどの店のものより魅力的な子供のおもちゃが並んでいます。きれいな洋服を着せた人形、繊細なつくりのミニチュア磁器の食器から竈、さらに人形の家具といったままごと用品。男の子には色鮮やかな飾りのついた馬の人形から、おもちゃの銃や太鼓、トランペット。子供達がその屋台に群がってうっとりと見とれている様子を、クリストキントも嬉しくなりながら眺めていました。すると端のほうで10歳ぐらいの小さな女の子がなにやら大変な苦労をしています。まだ小さな腕で弟らしい男の子を抱え上げ、屋台の中をよく覗けるようにしているようです。彼女はみすぼらしい服装でしたが髪は良く梳かして、2本のお下げに結っていました。その下の黒い瞳は屋台の中と、弟の顔を交互に眺めてきらきらしていました。クリストキントは彼女の横にそっと並び話し始めました。『こんばんは。君はあそこに並んでいるものが気に入ったでしょう。どれか欲しいものを1つ選んでごらん。私がそれを君へのクリスマスプレゼントにしましょう』少女は突然の申し出に、顔を赤くしながら、さらに目を輝かせて屋台の端から端までもう一度目を走らせました。その時抱えていた弟が足をばたばたさせながら、声を上げて手を延ばしているものがありました。少女は恥ずかしそうにうつむいて「もし貴方が本当に私を喜ばせてくださるなら、弟の欲しがっている金色のトランペットをお願いできますか?」
それを聞いたクリストキントの目に涙がうかんだ。そして素早くトランペットを掴み取り、弟に手渡すとかすかな笑い声を残していってしまった。
-この話を寝る前に聞かせてもらったマチルダは、黙っているわけに行かなかった。
「ねえ、クリストキントは少女にもなにかあげないの?」
読み聞かせていたおばさんは「この話はまだ続くのよ。最後まで聞いてね。クリストキントにはもっとやることがあるのよ」
・・・少女の家は貧しかった。5人の子供達はクリスマスの夜、特別のご馳走もなく、輝くツリーもない薄暗い暖炉の部屋にくっつきあうように座っていました。あのトランペットを手に入れた一番下の子だけは、みんなの周りをうるさく歩き回っているのが唯一、この日の夕べの活気でした。しかしこの小さな家にたった一度しかないすばらしいことが近づきつつありました。
夜の闇の中を一頭の驢馬が元気に走ってきて、白くて長い鬚を生やし、黒い洋服の男がその驢馬を、この家の前にぴたりと止めました。驢馬の背中には純白に輝く羽と、まるで夜空に光る星色のようなライトブルーの洋服を着たひとが座っていました。それはクリストキントと彼の忠実な従者ニコラウスに違いありません。
ニコラウスは重そうな背負い籠を驢馬から下ろすと、さっさと家の中に入り、まず台所に運び込みました。クリストキントは家の中の人々がやっと気がつくくらい静かに、しかし長く鈴を鳴らします。その間にニコラウスは準備を整え、誰か来たのかな?と気がついて、暖炉の部屋から出てこようとしている家族に向かって「マリーちゃんの他は誰も来るな!」と熊のような声で怒鳴りました。鈴の音に誘われ期待したみんなは、そこでまたすっかり恐ろしくなって、後ずさりします。
「私がマリーよ。どうすればいいの」
「台所に来なさい!」今度は少し低い声でニコラウスは唸るようにいいました。
マリーが恐る恐るやって来た台所の中は、これまで見たことも無いような光に満ちていました。その光の中にクリストキントが、本物の彼の姿が見えました。マリーがびっくりしているうちに、クリストキントは彼女を抱きしめ、額にキスしながら
『僕のことを覚えている?』と聞きました。
マリーはもちろん頭を振ると
『でも僕は君を知っている。私は昨日、クリスマスマルクトでトランペットを君の弟に渡したおばさんだよ。君はその時自分より弟が喜ぶことを望んだね。今日、僕は君をもっと喜ばせに来た』
しかしマリーは「私はそれに値するほど良い子ではないわ」としり込みしながら泣きそうになった。
『泣かないでマリー。さあ、急いで。私はこれからまだまだ行くところがあるから・・・
みんなを居間に集めなさい・・・』
不思議そうにしている母親に兄弟を居間に連れて行くようお願いしたマリーは、彼らがいなくなったドアを閉めると、クリストキントに言われたとおり、戸棚から白い布を引っ張り出して、黒いテーブルを覆いました。そこへニコラウスが彼の担当する七つの品物を暖炉の部屋に引きずってきました。テーブルの上に取り出したのは既に飾りつけられ、光の灯るクリスマスツリー。それは小さな苔の庭に立っていて、金色の首輪をつけたふわふわの羊が長い赤い足で飛び回り、一人の羊飼いが岩に座ってシャルマイ(木の笛)を吹いているが、音は聞こえない。ツリーの周りには母親と兄弟に1つずつの数だけハート型のレブクーヘンが並べられ、りんごとくるみと丁子クッキーが積み重ねられ、その横にクリストキントはニコラウスから手渡された包みを並べていく。
母親には暖かい布地。下の女の子にはかわいい洋服と人形。ハンスには帽子と本。ヤコブにはスモッグとおもちゃの銃。トランペットをもらった男の子には暖かい靴と靴下。
マリーはみんなが包みを開くのを手伝いながらわれを忘れて大喜びだった。
『マリー。君には何も無いよ』とクリストキントはマリーの様子を見ながら言った。
「いいえ、私はこの中で最も嬉しがっています」
『そのように、ずっと生きていきなさい。みんなが君を愛するでしょう』
ニコラウスが「さあ、次に行かなきゃ」と促す・・・



クリスマスのお願い 1
クリスマスマルクトが始まったという季節感を、私はどうしても日本の年の市と重ね合わせてしまうが、もしかしたら発生も同じ頃、15,6世紀かな。始まりは本格的な冬の訪れを前に、人々が寒さ対策として必要なものを用意するための市だったらしい。
昔、マルクトで求められた品物の優先順位も面白い。まずクッキーが出てくる。現在のようにお菓子レシピ本から厳選の結果を家庭の主婦が試すようになったのはごく最近、戦後になってから。その前は主婦にとってクッキーに回すほどの豊かな粉やバター、砂糖、さらに香料(シナモン・丁子など)を手に入れるのは難しい・・不可能だったそうだ。次にレブクーヘン。これは修道院の年末資金に貢献したことでしょう。さらにリストの上に並ぶのはチョコレートの型物、綿菓子、焼き栗とある。クリスマス飾りの部ではクリッペン人形(キリスト生誕の場面を再現する人形たち)と並んでエルツ山地地方の木製蝋燭台が重要品目になっている。


確かに上記の品物は今でも、クリスマスマルクトに見かける。必ずあると言ったほうが良いだろう。人々の習俗とはそのように必要性より懐かしさとして受け継がれているのではないかと思う。異国人の私などは、毎年つい何か目新しいものが無いか探してしまうのだが、こちらの若者は代わり映えのしない砂糖菓子や焼き栗をバックに、嬉しそうにグリューワインを飲んでいる。誰もクッキーや毛糸の手袋を買いに来たわけではないはず。ただ懐かしさに誘われてこの場所に来ないと、今年が終わらないのかもしれない。
それに・・・
人ごみにまぎれている、クリストキントに会いたいと
思っているのかもしれない・・・



土曜日の過ごし方
Stuttgartに移動してから・・土曜日には陶芸以外の仕事が始まったが、それが終わった土曜日の夕方が、一週間の中で最もくつろげる時間になっている。
さて何をしようか?
『なぜ聖人は聖なる存在か?』という本を読むのは、この季節よいかもしれない。この本、最近古本屋の山に隠れていたのを見つけた。あの『子供大学』シリーズの1冊。
本を書架から取り出しつつ、ところで今年の『子供大学』ではどんな講義があったのだろうと、気になった。そこで本のページを開きながら、サイトのページも覗いてみた。おや!実際の講義が映像で覗けるようになっていた。
つい、手元の本を忘れて『2月はなぜ短いのか?』という講義を見てしまった。。
『子供大学』の講義は読むだけでも面白いが、聞くとさらに判りやすいのは、子供に説明するテンポが私のドイツ語力にぴったりなのだと思う。講師はラテン語読解を専門とする教授なので、最後の締めくくりのラテン語はちんぷんかんぷんだったけれど、響きから想像すると、『カレンダーにはユリウス・シーザーのことと、それより昔のことが今でも記憶されている・・・』のような言葉だったのではないかな。
『2月がなぜ短いのか?』という答えの中に、ユリウス・シーザーという人間像が出てくるとは・・
ローマ時代に人々は月の運行を基にした陰暦を頼りに生活していた。355日の間に月は12回地球の周りを回る。それに対して地球は太陽の周りを365,25日かかって一回りするから陰暦では約11日の季節的な狂いが生じる。この狂いが積もり積もると夏に雪が降ることにもなる。そこでポンティフィックス・マキシムスという役人が登場する。その人の仕事は閏月を決める仕事だった。月を観察したのか、太陽を観察したのか、植物の生育を見ていたのか良くわからないが、『今年は閏月を入れる』とその人が宣言すると、誰が泣こうが騒ごうが、その年はいきなり13ヶ月になった。(大体2年に一度だったらしいが)ローマ時代の一年の終わりは2月だった。だから閏月は2月の後、さらに2月がもう一回追加されるような形だった。
子供大学の教授はその際の問題を次のように解説した。「一年の終わりに子供達は学校で成績表をもらいます。もし先生がみんなの成績が悪いけど、幸いもう1ヶ月あるからと、補習授業を続けたら・・うんざりですね。それに請求書の日付も1ヶ月伸びるから、なかなか支払ってもらえなくて困ります。キケロは2年間ローマを離れ仕事をしていました。彼は膨大な量の手紙を書いた人ですが、その中で『閏月が来ないで欲しい』と書いています。早くローマに帰りたいと。閏月は選挙の勝敗にも影響しました。ある立候補者は有利な展開をしていたのに、閏月になってもたもたしているうちに、対抗馬が票を逆転して集めてしまったり・・そのようにしてユリウス・シーザーは選挙に勝ったのです。なぜならその時、彼がポンティフェクス・マキシムス(Pontifex Maximus)だったからです。」
職権乱用のシーザーだが、ローマ皇帝になってから、これまで歴代の皇帝が面倒だからやらなかったような仕事に取り組んだ。その1つがカレンダー。シーザーはエジプトでクレオパトラだけでなく、太陽暦にも遭遇した。そして学者とともに陰暦と太陽暦をコンビネーションした新しいカレンダーを編纂した。その際シーザーは出来るだけ人々が慣れ親しんできた古い習慣をカレンダーの中に残すことも、変革の要素としていた。だから新しいカレンダーでも月の名前は昔と同じ、新しい1年は1月1日から始まるが、古い1年間の慣わし同様、2月は短いまま最後の月だった名残をとどめ、さらに閏月の替わりに4年に1度の閏日を2月の最後に持ってきた。
現在、人々が毎日使っているものの中で、カレンダーは2000年前のもっとも古いものといえる。さらにもっと古い習慣も記憶している・・それが2月がなぜ短いかの答えだったのか。
そろそろ来年のカレンダーを用意する時期ですね。

昨年9月から駅周辺公園内の樹木をまもる抗議デモから始まって強力な抵抗を続けてきた
Stuttgart駅改築計画 、S21反対運動は11月27日の市民投票の結果、過半数を取れませんでした。
秋・・・・新しい街で
新しいカバーと、タイトルと、本文中の写真を総合すると
ステンドグラスがあるのは、新しい街のたまねぎ教会の中か?と
想像されると思いますが
ステンドグラスはフライブルクのアウグスティナ博物館のもの
今回は新旧取り混ぜ、ごっちゃごっちゃの更新となりました。
ヴェスターヴァルトの窯焚きから帰ると、引越しが待っていました。
引越しだけでなく、半年の間に思うように片付けられなかったさまざまな雑用も
そして電車で仕事場に通う毎日
その合間にフライブルクに戻って
友人が企画する展覧会『黒い森』展の最終日に飛び込みました。
黒い森の産業はガラス製造と切り離せないところがあり、、その影響で近辺各地の教会ステンドグラスにも美しい色ガラスを使いこなすテクニックが、どんどん発達したようです。
かつて森の話を読んだ時
森を真っ先に荒らしたのは、直接人間ではなく、人間が放し飼いにしている家畜だった。当時家畜に食べさせる餌などなかったので、家畜は森の中でどんぐりその他の食べ物を探すしかなかった。
枯葉の下で腐敗していく、そのような木の実がなくなってしまうことは、木の生育に影響した・・
と書かれていた。
家畜の次はガラス職人だった。ガラス職人は燃料となる樹の豊富な森の中を移動して、仕事場を築いた。
しかしだんだん、森の管理が行き届いてくると森の中の木の使い方も、取り決められるようになっただろう。ガラス職人に割り当てられる樹の量も、決められたのかな。やがて樹をいったん炭にしてから使うようになった。そのほうが高エネルギーを得られる。
森とガラスの話は面白そうだ。

カバーに使ったステンドガラスの写真。
区切られたガラスに描きこまれた細部が美しい。
今日電車で帰ってきて気がついたのですが
引っ越してから、まだ明るいうちにこの街の駅に到着したのは、初めてではなかろうか・・・
つい嬉しくなってカメラを取り出し
初めてこの街を写してみました。

オイラー 2011 その4 帰還
へーア・グレンツハウゼンのオイラー窯焼成は24日夕方7時ごろ終了。
多くの見物客は去っていき、その人々にビール・ワインからスープ・料理パンをサービスしていた学校事務局、学生も帰り、人々の応対に疲れ知らずの会話を続けていた所長のブランド氏の車も去り、最後まで残っていたのは焼成責任者のM氏。彼は焼成を終了して焚口や窯側面の塩穴を目止めしてからも、窯内部で蒸発している塩のガスが抜けきるまで、窯天上の煙突穴を少しづつ閉める作業を続けていました。塩のガスが残ったまま、窯を閉じてしまうと塩釉ににごりが生じるのだそうです。
そして誰もいなくなったのは9時過ぎでしょうか・・・いえ、オイラー窯の間、毎晩やってきていた近所の三毛猫が今日も最後の巡回を引き受けています。
濱田氏は夜半に窯屋へ侵入しようと試みたのですが、しっかり者のM氏がどの扉にもしっかり鍵をかけて帰ったため、断念。
25日、IKKGのゲストルームで濱田氏と私は、日曜朝の子供番組、チンパンジードラマを見ながら朝食を食べ、バーナード・リーチの独特な性格について話をしていました。
異邦人であるゆえに大変フレンドリーに誰とでも付き合ったリーチが、濱田庄司と柳宋悦を、富本憲吉と宋悦を結び付けたのだそうです。日本人同士なら接点の起こり得なかった人脈がそのように成立したのだそうです。




それから私たちはコブレンツを経由し、ライン河沿いの電車の旅を楽しみました。
へーア・グレンツハウゼンから観光で訪れたラインとモーゼル河の合流地点を、今度は車窓から眺めました。
へーア・グレンツハウゼンを中心とする塩釉焼成の窯業地では、土や木の入手にライン河の交通を利用する必要はありませんでしたが、昔の製品出荷には重要な経路だったはずです。船に荷物を積み込めばライン河の要所に流通のシステムが整っていたはずです。いえそれ以前にこのラインをローマ人が辿ってきたことから、この土地の窯業の歴史が始まります。もっともっと遡れば、ライン河とその流域に豊かな土の産出を可能にした土地の成り立ちがあります。オイラーはライン河方向から西風が吹く季節の窯は、どう焚くべきか知っていたでしょう。その土地の成り立ちと、そこに住む人間の頑固さは切っても切り離せないものとして、その土地に影のように付随していることを、面白く思い出しながら、へーア・グレンツハウゼンの町から遠ざかって、それぞれの帰路につきました。
さて、塩釉焼成に関しては、徐々にまとめてみます。
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